西明寺城は栃木県益子町益子にある高舘山が城山です。
西明寺城地図
県道262号線で、西明寺を目指します。西明寺から高舘山に向かう遊歩道があります。
西明寺
お堂の裏に登り道
登り道
登り15分くらいでこの城壁に付きます。
権現平、ここは旧主郭で、高舘山の城址は後から築城されたものと伝えられています。実はこの周辺は曲輪ではないかと思われる個所があり、確信持てず、通り過ぎてしまいましたが前身の城郭があったもので、改めて探索する必要があると思いました。
権現平を後にして
堀切
高舘山へと繋ぐ虎口
ここを登れば林道へ出ます。
林道を西に渡ると
大門口館跡の南曲輪
大門口館跡(林道を西へ行かれる方が少なく、ここを見逃しているサイトが多いです。)
林道に戻り、駐車場(直接、ここに来て登城される方が多く、西明寺から登ってこないと、旧高舘城を見逃してしまいます。
西明寺城の沿革
西明寺城の起源は、西明寺のある高館山に京都から移住してきた紀氏(後の益子氏)が本拠を構えた事から始まった[要出典][3]。
南北朝時代には、『結城文書』に「伊佐中郡御城、西明寺城、当城候」と記されており、関城、大宝城、伊佐城、伊佐中郡御城などと並んで、関東六城の一つに数えられ[2][4]南朝方の最北端の拠点であった[1]。その後、北朝方の攻撃を何度か耐えたが、1352年(正平7年)に関東六城の中で最後に落城した[2]。
戦国時代に入ると、益子氏は一族内で内紛が続発し、衰退への道を歩むことになる。また、主家の宇都宮氏から離反と帰順を繰り返すようになった[要出典]。
1590年(天正18年)[1][5]、業を煮やした主君宇都宮国綱は大規模な討伐を実行し、益子家宗を誅殺して益子氏の領地を没収した。この際に廃城となる ウィキペディアより
西明寺城地図
県道262号線で、西明寺を目指します。西明寺から高舘山に向かう遊歩道があります。
西明寺
お堂の裏に登り道
登り道
登り15分くらいでこの城壁に付きます。
権現平、ここは旧主郭で、高舘山の城址は後から築城されたものと伝えられています。実はこの周辺は曲輪ではないかと思われる個所があり、確信持てず、通り過ぎてしまいましたが前身の城郭があったもので、改めて探索する必要があると思いました。
権現平を後にして
堀切
高舘山へと繋ぐ虎口
ここを登れば林道へ出ます。
林道を西に渡ると
大門口館跡の南曲輪
大門口館跡(林道を西へ行かれる方が少なく、ここを見逃しているサイトが多いです。)
林道に戻り、駐車場(直接、ここに来て登城される方が多く、西明寺から登ってこないと、旧高舘城を見逃してしまいます。
西明寺城の沿革
西明寺城の起源は、西明寺のある高館山に京都から移住してきた紀氏(後の益子氏)が本拠を構えた事から始まった[要出典][3]。
南北朝時代には、『結城文書』に「伊佐中郡御城、西明寺城、当城候」と記されており、関城、大宝城、伊佐城、伊佐中郡御城などと並んで、関東六城の一つに数えられ[2][4]南朝方の最北端の拠点であった[1]。その後、北朝方の攻撃を何度か耐えたが、1352年(正平7年)に関東六城の中で最後に落城した[2]。
戦国時代に入ると、益子氏は一族内で内紛が続発し、衰退への道を歩むことになる。また、主家の宇都宮氏から離反と帰順を繰り返すようになった[要出典]。
1590年(天正18年)[1][5]、業を煮やした主君宇都宮国綱は大規模な討伐を実行し、益子家宗を誅殺して益子氏の領地を没収した。この際に廃城となる ウィキペディアより