山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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村上城④

2017-09-20 09:49:25 | 山城ー野州
本丸南下の遺構


本丸南虎口

お宮のある曲輪

その脇に二の丸(仮に)土塁で守っています。

東から二の丸を見ています。

神社へ通じている階段、ここは後世の道です。

本来は本丸南虎口から

壕道を下り

大手道から神社へ下る道です。

二の丸の階段を下ると、二重の空堀

二の丸・お宮のある曲輪を見ています。

以上で村上城は終わりです。次回 益子氏の本城と思われる西明寺城

益子氏の南北朝時代
南北朝時代においては主家の宇都宮氏が北朝・室町幕府に従ったため、益子氏も北朝方となり益子貞正は宇都宮軍の有力武将として活躍した。その後、幕府内で足利尊氏と弟 直義による権力闘争に端を発した内紛、観応の擾乱が勃発すると、益子氏一党は宇都宮氏に従い尊氏党に与し、宇都宮一族の氏家周綱、綱元、忠朝、同じく宇都宮一族の薬師寺元可、義夏、義春、助義兄弟や清党の芳賀貞経らとともに南朝方に投降した直義党の桃井直常と対峙した。 一方、京周辺でも南北両朝の激戦が繰り広げられており、下野からも宇都宮家の手勢が京周辺にも出兵され、楠木正成らと対峙した。この際も宇都宮勢に益子氏一門から益子顕助、国行、秀助親子が従軍しており南朝方と戦ったことが『太平記』にも記されている。それによれば敵将 楠木正成は宇都宮氏は坂東一の弓矢とりであるとして、その両翼たる 益子氏、芳賀氏ら紀清両党は戦場において命を捨てることを厭わないと言い、宇都宮軍との激突を避けたとされ、益子氏の武勇を示す逸話を伝えられている。しかし、南朝方の抵抗も凄まじく顕助は東寺で討ち死にし、益子一族の多くも京での戦いで命を落とした。ちなみに四国の讃岐国における史料『由佐氏由緒臨本』によれば、顕助の庶子の秀助は足利氏の一門 細川頼春に従い四国に下り、讃岐国香川郡井原に下り、由佐氏を称したと伝わっている。
一連の戦乱の最中、暦応2年(1339年)関東において南朝方を指揮していた北畠親房は公卿の春日顕時を常陸国の関城に派遣し、常陸の小田氏を従えた顕時は関城から下野に入り、北朝軍に従い転戦中で空城となっていた益子氏の西明寺城、八木岡城、上三川城が一時陥落される事態も生ずる。このとき、南朝軍に従い益子氏の城を陥落させた小田氏の祖は益子正雄の女を母とする宇都宮氏の一族であり、宇都宮氏初代、藤原宗円の庶子で鎌倉幕府を開いた源頼朝の重臣として評定衆・常陸守護を務めた八田知家を祖とする家系であることから、まさに主家の同族であると同時に縁戚関係でもある一族との骨肉の戦いとなった。しかし、下野における戦況は次第に北朝方の優位となり、南朝勢力の衰退により益子氏はようやく失地を回復するに至る。そして、戦乱に明け暮れた関東も足利義満の世に南北朝合一がなり、世の平穏を取り戻したことによって、益子氏をとりまく環境も次第に安定したものとなっていったのである。 ウィキペディアより