山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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岐阜城

2017-09-30 19:04:43 | 岐阜の山城
岐阜城は岐阜県岐阜市槻谷にある金華山頂にあります。


ホテルでもらったパンフ、今回は護国神社の右手にある(神社は左手中央)金華山トンネルの左(水手道)から登りました。2kmもあり。苦労して登った割には、尾根に着くまでの遺構はありませんでした。おすすめは右手の百曲り登山道で、途中、曲輪が沢山あったと記憶しています。

金華山トンネルの北側にある水手道

馬の背登山道の分岐点





尾根に着き、南先端部

岐阜市街

北に進むと500mくらいで、この曲輪があります。

石垣でできた北虎口

それを登ると、祠があり城内です。

この通路を北に向かって

天守閣となります。

天守、北虎口

西下に曲輪

説明版(三)

次回 本丸周辺から、麓にある館跡へ

岐阜城の沿革

鎌倉・室町時代

1201年(建仁元年) - 二階堂行政が稲葉山に砦を築いたのが始まりとされる。続いて行政の娘婿・佐藤朝光、その子伊賀光宗、光宗の弟・稲葉光資が砦の主となり支配。二階堂行藤の死後、廃城となる。
15世紀中頃 - 美濃守護代・斎藤利永が、この城を修復して居城とする。
戦国時代[編集]
1525年(大永5年) - 斎藤氏家臣の長井長弘と長井新左衛門尉が謀反を起こして稲葉山城を攻撃。長井氏の支配下となる。
1533年(天文2年) - 新左衛門尉が没すると、その子、長井新九郎規秀(斎藤利政、後の斎藤道三)が後を継ぎ、城主となる。
1539年(天文8年) - 守護代になっていた斎藤利政が、稲葉山山頂に城作りを始める。
1541年(天文10年) - 利政が守護の土岐頼芸を追放。
1547年(天文16年) - 織田信秀、頼芸派の家臣と稲葉山城下まで攻め入るも大敗(加納口の戦い)。
1554年(天文23年) - 利政、城と家督を嫡子の斎藤義龍に譲り剃髪、道三と号する。
1556年(弘治2年)4月 - 義龍、長良川の戦いにより道三を討ち取る。
1561年(永禄4年)5月 - 義龍の急死により、斎藤龍興が13歳で家督を継ぎ、城主となる。
同年6月 - 十四条の戦いに勝利した織田信長が稲葉山城を攻めるも敗退。
1564年(永禄7年)2月 - 斎藤氏の家臣であった竹中重治と安藤守就が造反して挙兵。稲葉山城を攻める。龍興らは城を捨て鵜飼山城へ逃げ、竹中らが城を半年間占拠する。
1567年(永禄10年)9月 - かねてから美濃攻略を狙っていた織田信長が西美濃三人衆の内応により稲葉山城下に進攻(稲葉山城の戦い)。龍興は城を捨てて長良川を舟で下り、伊勢長島へ逃亡した。
同年 - 信長は、本拠地を小牧山城から稲葉山に移転し、古代中国で周王朝の文王が岐山によって天下を平定したのに因んで城と町の名を「岐阜」と改めた。この頃から信長は「天下布武」の朱印を用いるようになり、本格的に天下統一を目指すようになった。ウィキペディアより


司馬遼太郎の小説では京都の油商人であった斎藤道三が、土岐氏に取り入り重臣となって稲葉城主(岐阜城の前身)の道を開いたとありますが、実際は父、長井新左衛門尉が城を奪い、子の長井新九郎規秀(道三)が後を継いだと伝えられています。やはり、油商人ではいくら才覚があっても重臣にはなれなかったと思います