虚空蔵山城は長野県でも山城は幾つかあり、山も数か所あるため、旧四賀村(現 松本市)とつけておきます。
虚空蔵山城地図
地図の通り、虚空蔵山は筑北村と松本市との境にあります。
今回は松本市側から登りました。筑北村風越峠を南に県道303号線南に進み、四賀有機センターから林道に入ります。
有機センターを越えて、害獣柵を開き500mくらいに、この林道があります。
林道の途中で、この登り口があります。大きなカーブからわき道です。これを見逃すと大変です。
松本市(旧四賀村)を俯瞰し
尾根を登ってゆきます。
第一堀切
第一曲輪
第二堀切、各堀切の間は細尾根で曲輪とは言い難いものです。また薮で写真になりませんでした。
第三堀切
第四堀切
東曲輪
次回 峰の城から西尾根へ
歴史「川中島の戦い 長野市信州 風林火山特設サイト」
鎌倉初期、小県(ちいさがた)郡の海野(うんの)氏を祖とする会田(あいだ)氏の城。会田氏は、麓の会田殿村に居館を置き、虚空蔵山(こくぞうさん・標高1,136m)の中腹に中の陣(本城)や秋吉砦などを配し、山頂には物見の砦などを設け、要害城とした。
天文22年(1553)4月、武田軍は虚空蔵山城の中の陣を放火し、城主の会田氏は降服する。同年9月、第1次川中島の戦いで、更級郡布施と八幡で武田軍を破った上杉軍は、筑摩郡にも侵攻し、武田方の青柳城(あおやぎじょう)に放火。会田の虚空蔵山城も攻め落とした。これに対し、武田軍は麻績(おみ)城、荒砥(あらと)城に放火するなど、一帯は武田・上杉軍の激しいせめぎあいが繰り返された。
武田氏滅亡後、残存した会田氏の一族は、上杉氏の支援を得て小笠原氏に抗したが、深志城を回復した小笠原定慶(おがさわらさだよし)により天正10(1582)年に亡ぼされたという。なお、現在まで系統を継ぐ埼玉県越谷市・川越市の会田氏、新潟県柏崎市の会田氏、安曇野市穂高の会田氏は、武田氏に追われて現住地に移った一族と伝えられている。
虚空蔵山城地図
地図の通り、虚空蔵山は筑北村と松本市との境にあります。
今回は松本市側から登りました。筑北村風越峠を南に県道303号線南に進み、四賀有機センターから林道に入ります。
有機センターを越えて、害獣柵を開き500mくらいに、この林道があります。
林道の途中で、この登り口があります。大きなカーブからわき道です。これを見逃すと大変です。
松本市(旧四賀村)を俯瞰し
尾根を登ってゆきます。
第一堀切
第一曲輪
第二堀切、各堀切の間は細尾根で曲輪とは言い難いものです。また薮で写真になりませんでした。
第三堀切
第四堀切
東曲輪
次回 峰の城から西尾根へ
歴史「川中島の戦い 長野市信州 風林火山特設サイト」
鎌倉初期、小県(ちいさがた)郡の海野(うんの)氏を祖とする会田(あいだ)氏の城。会田氏は、麓の会田殿村に居館を置き、虚空蔵山(こくぞうさん・標高1,136m)の中腹に中の陣(本城)や秋吉砦などを配し、山頂には物見の砦などを設け、要害城とした。
天文22年(1553)4月、武田軍は虚空蔵山城の中の陣を放火し、城主の会田氏は降服する。同年9月、第1次川中島の戦いで、更級郡布施と八幡で武田軍を破った上杉軍は、筑摩郡にも侵攻し、武田方の青柳城(あおやぎじょう)に放火。会田の虚空蔵山城も攻め落とした。これに対し、武田軍は麻績(おみ)城、荒砥(あらと)城に放火するなど、一帯は武田・上杉軍の激しいせめぎあいが繰り返された。
武田氏滅亡後、残存した会田氏の一族は、上杉氏の支援を得て小笠原氏に抗したが、深志城を回復した小笠原定慶(おがさわらさだよし)により天正10(1582)年に亡ぼされたという。なお、現在まで系統を継ぐ埼玉県越谷市・川越市の会田氏、新潟県柏崎市の会田氏、安曇野市穂高の会田氏は、武田氏に追われて現住地に移った一族と伝えられている。