喜寿をむかえた男の遊々生活!

喜寿を迎えた老人の日々を日記に・・・

釣りの予約も不意に、思いつくままに追憶その13

2018-08-27 10:04:41 | 日記
 さて 台風19号、20号の影響で 金曜日24日タコ釣りを予約していましたが波が荒く
取りやめになりました。
20号の直撃を心配していましたが 夜中に吹く風は強かったものの豪雨の心配もなく
あくる日の土曜日 アジア大会を観ていると携帯が・・・出ると 釣友のT君、「お茶でも」
との誘いに上野の喫茶明日香へ、 T君は先日 福井の九頭竜川へ鮎釣りに行っているので
しばらく鮎釣りの話に、私も鮎釣りは18歳頃から始めましたが、当時は近場では神崎郡
(現在の神河町)の落谷へ、また少し足を延ばし、揖保川、千草川へと行っていました。
6月の終わりごろに解禁になり、この三つの川の年権を毎年買って鮎釣りをしていました。

 当時は年権も落谷が6000円、揖保川、千草が8000円と安かったのですが年々
漁業組合は上げていき、最後は1万円を超していたと思いますが、それでも60歳頃までは
鮎釣りに行っていました。だが、ナイロンの道糸0.4から0.6号使っていたのが、竿が
グラスロッドからカーボンに代わり、10m超えの竿も扱えるようになったことにより
道糸もナイロンから メタル(金属糸)に代わり、0.1とか0.2と細くなり、老眼も
加わり川でトラブルを起こすと 結ぶのさえ至難の業となり、還暦を機にやめましたが、
T君は私より5歳下。70前だというのに続けていることに感心しています。

 さて喫茶店へは 東播染工㈱に勤めている頃は 毎日お茶を飲むことが慣例でした。
特に野村の沙織、市役所前の根来、北本町の波などは毎日9時頃になれば産元商社の方と
お茶を飲みに行っていました。 繊維関係の者が毎日通っているので喫茶店は潤っていた
と思います。 その後 沙織は廃業し、根来は最近になり廃業、波も早くに廃業して
います。 昨今 年寄りが増えたので さぞかし喫茶店は流行っているかに思うのですが
フランチャイズ店と言うのか 野村の明日香や上野の明日香などは朝になれば賑わって
いますが、これはおそらくモーニング目当てではないか?と思う次第。
昔はトーストかゆで卵が定番でしたが、今日の明日香などへ行くと モーニングは様々な
ものが付いています。サラダにサンドウィッチ、ゼリー、トースト、ゆで卵、握り飯などと
よほど客数が多くないと 家族だけで行っているような昔ながらの喫茶店はついて行けない
だろうと推察。
 さて、喫茶店へ入ると 此処では昔馴染みの顔ぶれが・・・高龍商店の社長も見えてい
たので挨拶をすると「増田さん、身体のお加減は如何?」と言うので、私は「ピンピン
しています」。と答えると、「私が人づてに聞いたのだが まっさん体調を崩されていた
のでは」と怪訝そう。 笑って答えていましたが、長らく人前に顔を出さないと、病人に
されたり、挙句の果てに噂話で 亡くなったとも言われかねません。

 さて私の思いつくままにパート13ですが、大阪に居る期間は18歳から19歳と
僅か2年でしたが、福島工業の休日の際には 豊中の伯母の家に行かずに済むときには
寮仲間と大阪の心斎橋などへ遊びに行っていました。
御幣島から路線電車にのり、淀川大橋を超え野里から阪神野田駅 そして梅田へ出て
地下鉄に乗り 心斎橋筋をあるいていました。 道頓堀川の橋のたもとには今でもグリコ
の万歳をしたポーズの看板があり、絶えず音楽がなっていましたが、思い出に残って
いるのは フランスの歌手、シルヴイ・バルタンの”アイドルを探せ”と言う歌です。
今でも思い出せば頭の中で歌が聞こえてきます。 また当時、ツィーギーとかイギリスの
モデルかが脚光を浴びていた時代でした。

 いつだったか? 友達と一緒に心斎橋へ遊びに行っていて ”富士”とか言う大きな
ダンスホールが有って、好奇心からか入場料を払って入りました。
ダンスホールは初めてではなく、篠原縫工所時代に西脇に有った”扇屋”と言うダンス
ホールへ何度か行った事が有り、ブルースやワルツなど 事象 元タカラジェンヌとか
言う小母さんに基本を教わった事が有りました。
だけど この富士と言うダンスホールは西脇のそれと比べものにならない大きなホール
でした。場内は薄暗くミラーボールが天井に数個廻っていて、そしてドレスで着飾った
女性がダンスを舞っていて 別世界へ来たようでした。
友達とコーヒーを頼んで しばらく眺めていましたが、どうも田舎のようにパートナーに
なる人を探す余裕もない。 友達がトイレかで席を離れて 一人でいると 見るからに
不良ぽい女性が何人かで傍にやってきて「兄さん 遊ばない?」。と声を掛けてくる。
 女性から声を掛けられるのは初めてで、男から女性に声を掛けるものと思っていた
私は面食らい、とっさにどすればよいのか? 焦った。 
とにかく 撒かねばならない。そう思い、”お手洗いに行く”とかの口実で撒こうと
思うのだがついてくる。
 さすがに気味が悪くなり、ホール内に入り、人込みをかき分けて 何とか逃れたが
あのような思いは 私の人生の中で初めての体験であった。
 帰りはどうして帰ったか 今では覚えていないが、所持金も余り持ち合わせがなく
歩いて梅田新道まで辿り着く、裏道ではポン引きと言うのか 女性が火を焚いて
あたりながら客引きを行っていた。
 野田から とことこ歩いて 来た道野里や淀川大橋を渡り、御幣島の福島寮へついた
のが確か夜中の1時だっただろう。 門限が10時と言われていたので大幅遅刻。
門が締まっているので 飛び越えて寮に入った。
 あくる日、寮母から小言を食らったのは言うまでもない。

 あのころは昭和38年ないし39年、日本は復興し、内閣が替わるごと、日本の
景気は上向いていった。
でも西脇の自宅へ戻ってくると 相変わらずの貧乏暮らしだった。
家で遊んでいると、 前述のように遠藤春子氏が家に来て 中央工業と言う加工場に
入り、そして東播染工の傘下にはいり東播加工となり、そして数年後には東播染工に
統合されることになり、 現場で加工品の柄組と言う仕事に携わっていたころに
当時の酒井社長から”営業にまわるように”との命令を受け、東播染工と合併した
時には 東播染工㈱の事務所内に席を置くことになる。
 上月部長の元、竹中氏、吉中氏、それに私が加わり3人体制で産元商社から仕事を
受注してくるのだった。

 私の遊び好きは 誰に似たのか? ラジオなどに興味を持っていた気持ちは失せ
代わりに猟銃を持つようになり、ヤマメなどの渓流釣り、鮎釣り、白ハエ釣り(学名
オイカワ)、そのうえ、産元商社の社長の中には西村商店などの社長が海の磯釣りが
趣味で有ることから磯釣りも行うことになる。
そのうえ、西脇蝶理の社長 藤田氏が、「まっさん。営業するならゴルフ位覚えないと
ワシ、今度クラブ買い替えるので ワシの使っているジュピターのゴルフセットを
プレゼントする」。などと言われ、無償で貰えないので1万円を支払って譲ってもらい
ゴルフもし始めた。 それ以前にも定時制仲間の大木の片岡君と、西田の藤井君と山陰
へ旅行、日和山公園で遊んだり その夜は湯村温泉のニシマホテルと言う旅館に泊まった
そこのホテルが管理しているゴルフ場が有ると言うことで あくる日 ゴルフ場へ行く
のだが、そこは起伏の激しいところで、何処をめがけて打っていいのか分からない、
 後にも先にも あのころから日本人のゴルフブームが始まったのだろうと思う。

 営業の合間に野村町の大池打ちっ放し場へ通った。 最初は どのように打っても
野球打ちになるのかスライスボールばかり出る。 負けず嫌いな所がある私は 毎日
仕事の合間を見ては、また仕事が終わってからは練習に行った。
当時、練習場の息子である大橋君に教えてもらい、そして菊楽染工の 菊楽君も練習に
来ていたので教わることになり、2~3カ月後には そこそこになった。
大橋君(プロ)も菊楽君も 当時山陽カントリー(今は加西インターCC)を持っていた
ので、蝶理の横山氏と 4人で一緒に回った。
大橋君も菊楽君も 当時 ドライバーはパーシモン(柿木)だったが、良く飛ばして
いた。300ヤードは飛んでいただろう。 私はそんなに飛ばず、250ヤードくらい
だから産元商社などのコンペで、菊楽君が居れば まずドラコンは取れなかったが、
 しかし飛ばし屋は曲がるもの、フェアウェイに置かなければならないので 私にも
チャンスが有った。
 
 毎日練習し、土日になれば接待と言って産元の人を招待し、そのうえ、上司が氷上
カントリーや旭国際、それに産元商社の社長たちが小野カカントリーや加古川カントリー
東条カントリーなどを持っていたので 隈なく県下のゴルフ場のほとんどは廻った
だろう。 旭国際の登場コースなどは距離が長いので80前後のスコアしか出なかったが
氷上カントリーではパープレーも2度有った。

 そのうち、産元商社の仕入れ担当などとビリヤードも行くようになり、アーチェリーも
行うが、遊ぶことが多かったので上達もしないし 長続きはしなかった。
そうしていると、西田の藤井君が「詩吟をやらないか?」と誘いがあり、詩吟もやりだす。
そして幸洋綿業の会計部長の在田さんが「増田さん。長唄をやらないか?」との誘いが
有り、長唄もやりだす。 師匠は お婆さんだったが 神戸製鋼の社員なども教えていると
言い、杵屋某とかの名前も持っておられたので その道では有名な人だったのだろう。
 しかし、同級生の女性も居たが 殆どが小母さんばかりで 車に乗れるのは私だけなので
どこかで長唄の披露を行うときには 道具を運んだり、小母さん連中を会場に連れて
行ったりで、 なんだか利用されているように思い、”まだまだ他の事もやりたいし”と
長唄を諦めた。 ”都踊り”や”黒髪”など教わり、お師匠さんにはある程度期待されて
いたので後ろめたいところが有ったが、辞めてしまった。
 指の本数が足りないほど 趣味を多く持った私だが、続けていてこそ立派なものだが
これと言って上手なものは一つもない。 広く浅くがモットーと負け惜しみをしているが
一芸に秀でたものは一つもない。


 



 

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