喜寿をむかえた男の遊々生活!

喜寿を迎えた老人の日々を日記に・・・

そっそっかしさは相変わらず

2018-09-18 08:53:36 | 日記
 先日 投稿する際、一旦プレビューを行ってから”投稿する”を確定して
アップロードするのだが、 ポンポンとワープロを打つようにして プレビューして
確認もせずに 投稿ボタンを押してしまってから ”ひょっとして???”と気になり
ブログを見ると やはり間違っていた。 優良従業員が(有料)となっていた(笑)
 自分で思うに、私は若い頃から そそっかしい所が有る。
例えばの話だが、探している物が見つからない 妻に「ここに置いていた物 
知らないか?」と尋ねるのだ。
 妻は 私の事を知り尽くしているので「もう一度 よく探して・・・」と言う。
しかし一度探したところを もう一度 確認することはなく やはり”無い”と
言い切るのだ。
 妻は もう一度 私が捜したところを 丁寧に探していき「ほら 有った。よく
探しもしないで 人に八つ当たりして・・・」。大概 このような事が多い。
 私は半分照れ、「お前 探すの上手だなぁ~」と言うのだが、 若い頃から この
ような事がよくあった。

 さて篠原縫工所㈱時代は4年と短かったが、どうしても大阪の扇町にある電機
学校に通いたくて 社長の恩を裏切る形で 大阪へ行くことになった。
父は心配して 私にとって伯母である豊中の姉に相談し、”一度は 安定した
会社に籍を置き、その後 考えればどうか?”との提案で 伯母の娘 すなわち
私の従姉だが 従姉と言っても私より15歳も年上、すでに結婚していた。
 一人娘で育ったせいか 父親が教育者と言うこともあったのか?ツンツンして
お高く留まっている女性だった。
その主人の友人が会社を設立していたのが西淀川御幣島に有る”福島工業㈱”であった。
今まで 繊維のような柔らかいものばかりを扱っていたのが 今度は逆に固いもの
ばかりを扱う会社だった。
以前にも投稿していたが、この会社は営業用の機械を扱っていた。 当時 広島の
松田自動車から15000人分のコメが炊ける炊飯器を受注していて、入社早々
広島へ出張させてもらった。 仕事はそれ以外にも 今では珍しくないが店頭に
置く冷凍ボックス。薬局などにリポビタンなどを入れていた小さな冷蔵庫。
 またベルトコンベヤならぬロールコンベヤ、これは今では普及しているが流れ
作業には不可欠なもので 当時はリミットとかセンサーを使って 商品が完成する
まで 各種産業ん合わせて自動に運ぶ装置を作っていた。
 父の体調が悪く、母から”帰ってきてほしい”との事がなく、この会社で働いて
居れば?と考えることがある。
 伯母とも このことが原因で疎遠になった。 ただ その後 昭和46年に父が
亡くなるのだが、その時の葬儀には顔を出していたが・・・
伯父や伯母が亡くなった時、従姉から何ら連絡がなかった。
 大阪での生活、仕事は僅か2年足らずだったが、慰安旅行にも行き、冬になれば
スキーにも行き、充実した時間を過ごしたことを覚えている。 

福島工業㈱の慰安旅行での写真。白浜温泉。

 大阪では友人もできて 滋賀のスキー場へも この年 2回行った。
しかし スキーは その後も 神鍋へ行ったり 鉢伏へも行ったが、リフトを待つ
のが嫌で 小屋で酒を飲んでいたので さっぱり上達はしなかった。

スキー場で 会社の事務員と(昭和40年頃)




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