喜寿をむかえた男の遊々生活!

喜寿を迎えた老人の日々を日記に・・・

歳月の流れは驚くほどに早すぎて・・・

2018-09-15 12:11:06 | 日記
 さて小学校での仕事は 専ら 来週土曜日に運動会が行われるというので
運動場の草刈りに草引き、 しかし余りに広すぎて何処から手を付ければ
よいのか? まぁ出来る範囲で行っていますが、毎日のように天気が愚図つき
シトシト降る秋の長雨 蒸し暑さにはウンザリします。

 日和も悪いので 古い写真の片付けを行い、アルバムも傷んでいるので
スキャナーを使い、パソコンに取り込んで保存を・・・と思い台紙から外して
スキャンしました。 パソコンに保存しても写真は劣化するのですが、場所を
取らずに済む。幼児期から現在に至るまで また子供たちの写真も含めれば
気が遠くなりそうな枚数です。
 最近はデジカメの普及で 直接パソコンンに取り込むようにしていますが
定時制時代、篠原縫工所㈱時代、福島工業㈱時代、東播染工㈱時代、それに
宅建業時代など含めると気が遠くなるほど アルバムに貼っていない写真が
有ります。 まぁ私が生きている間に整理をしようと思っていますが・・・

 私が中学校を卒業し、社会人として働き 夜は定時制に通い始めたのが
昭和33年と記憶しています。
入社した小坂町の篠原縫工㈱は当時 飛ぶ鳥を落とす勢いでした。
 社長は篠原重雄氏、ハンサムで 何時も工場内では日本手ぬぐいで頭を巻き
従業員と一緒に働いておられました。
 また私が夜 定時制を行くのに いくら仕事が忙しくても5時になると
「亨さん。学校へ行けよ」。と言って下さるのでした。
 慰安旅行も春秋と2回有った事もあります。 城崎温泉、有馬温泉、大分の
別府温泉、愛知の豊田自動車見学に三谷温泉、片山津温泉、安芸の宮島、大阪市
内観光、 下の写真は何処へ行ったときか忘れましたが、学生服で参加しました。
篠原社長は私を可愛がってくださいました。きっと私の将来を考えていて
くださっていたように思いますが、定時制卒業後、社長の期待を裏切るようにして
大阪へ行くことに・・・

昭和34年頃、後列真ん中が私、右隣が篠原社長、その右が中西商店社長
中西社長の息子さんは現在、中西良太と言う俳優になっています。
前列左から二人目が小坂町「成田山」笹倉明徳氏の姉、民子さん。



昭和37年4月。篠原縫工所㈱時代、有料従業員として神戸で授賞式に参列。


 下の写真は定時制の秋の運動会。当然のことながら この頃は本当に若い。
仕事に勉学に精を出していた頃。向かって右隣の片岡君は 小沢商事に通っていた。
皆 歳を取り 老いていきましたし、この写真のうち、2名の方が亡くなられました。

昭和36年9月、今のカルチャーセンター場所


 
昭和37年5月。長崎グラバー邸にて、前列座っているのが片岡君。
その後ろは藤井君、その向かって右端が私。



 昭和37年5月。阿蘇山、草千里にて撮影。

 古いアルバムを整理していると 本当に若い頃が懐かしく思い出されました。
当時は まだカラーフイルムが普及していなかったのか? この後、大阪の
御幣島にある 福島工業㈱へ入社するのですが、この頃から カラーフイルムが
普及してきたように思います。

 



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