喜寿をむかえた男の遊々生活!

喜寿を迎えた老人の日々を日記に・・・

終戦記念日に思う事。

2017-08-15 12:35:45 | 日記
8月15日(火)曇り
 今日は72回目の終戦記念日 終戦の前年に大阪で生まれた私の歳から
1年引けば何年目かが解る。
私が生まれた家が 近畿車両の近くにあり、強制疎開の憂き目に遭い、
そのうえ、家業が活版印刷であった事から 軍に 強制的に供出させられ
父は母方の滋賀県湖東にある高月に行くか、実姉が嫁いでいる西脇へ行くか?
悩んだ末に 実姉を頼った。

 そして食べるものにも事欠き、父は手の器用を活かし 桐下駄を作り
母は伯母と一緒に 芋のツルや 田の田螺を拾い集め 食していたと聞く。

 その後、西脇市の日野地区を転々と住まいを変え 戦争も終わり、父は
街で肖像画を習得し、師匠から”蘇石”と言う名を貰っていた。
終戦後の事で 日本の一般家庭では写真を拡大することなどできず、父の
肖像画の注文は引きも切らず仕事が舞い込んできたようだ。
そこで父は 外交員(営業)を雇う事になる。 
当初は真面目で 肖像画の注文を取ってきて集金をして父に渡していた。
ところがこの男 厄介な男で、外に妾を囲っていて 何時の頃からか
父が身障者である事を好い事に 集金した金を妾に貢ぎ、金を入れなくなった。

 私が3歳の頃、父の自転車の荷台に乗せられ、この外交員の家へ集金に
行った事を思い出す。 先方の奥さんは 旦那が外に妾を作っていることで
機嫌が悪いのだが、それは先方の事情、金が無いと言うので米を代わりに
持って帰ることが有った。

 その頃、父はこの地で知り合った他人から「増田さん 何時までも借家
暮らしでは大変だろう。わしは徳部野と言うところに土地をもっているので
そこに家を建てたら・・・」との助言もあり、当初 父は”何時か大阪へ
帰って”との思いも交差していただろうが、第2子が 母のお腹に身籠って
いたことから 永住を覚悟したのか? この地へ平家を建てたのだった。
(しかし、父は大阪に未練があったのだろうか?小学校高学年まで私は
本籍を大阪府城東区今津町・・・番地と書いていた)。

 その後も この外交員との腐れ縁は切れず 数年続いていたようだが
その頃 写真も普及してきて 肖像画も下火になってきた。

 家は和室6帖、4.5帖の2間、そして炊事場は土間で奥戸さんと言うものが
あり、風呂は五右衛門風呂。
5歳になったころには 母と”コクバカゴ”と言われるカゴを背負って
山へ行き、枯れた松の葉を掻き集め 焚き物にしていた。

 私が日野幼稚園に入園、そして日野小学校へ入学したころには、3歳下の
妹の下に、5歳下の妹、6歳下の弟が生まれた。
その頃 帰ると家事の手伝いばかり、自転車に乗れない母の代わりに
買い物に行ったり、芝刈りに行ったり。
極貧の生活だったので おやつも当然ない。あるとすれば”ハッタイ粉”と
呼んでいたが、豆を粉にしたのを水で溶いたものが時々貰えた。

 小学校時代は銀飯と言ったご飯は皆無。何時も麦飯だった。母は炊きあがった
釜飯の表面に浮き上がっている麦を こそいで麦の少ない個所をアルミの弁当に
入れてくれるのだが、それでも蓋を開けると黒っぽい。
時々 10円ほどだったか金を貰い、小学校東にある 宇野パン屋へ行き、牛乳と
食パン1切れにジャムを塗って貰い 買って帰り、同級生と一緒に食べた。
友達は そんな昼食を羨ましかったのか? 銀飯と交換もした。

 当時、遊ぶと言えば川や山ばかり、裏山には川崎重工か何かが軍需工場を
作ろうとしていたのか? モルタルが張られた箇所があり、
また山奥の灌漑用の野池の近くには ドウサンタイ(学童疎開・童産隊?)と
言われた 朽ち果てようとした建物が残っており その周りで遊んだものだ
5~6月頃には野イチゴ(木イチゴとも呼んでいた)が 赤や黄色の実を付け
それを竹で編んだカゴに一杯採って それを口いっぱいに頬張って食べるのが
至福の幸せだった。
秋には色々な茸が生え、収穫したものだ。

 私が小学校時代、父母は4人の子供を育てるのに大変だっただろう。
周りは殆ど 百姓家ばかり、非農家は数えるほど、封建的な この地で
暮らすのは 過酷なものだった。
小学校4年の終わりごろから 5年生の頃、私は栄養不足によるものか?
当時、校医であった吉田先生から”類似結核”との病名を付けられ 長期間
学校を休むことも有った。 修学旅行も危ぶまれたし、校医に”休むように”と
言われたが 父母の願いで 奈良京都への修学旅行には何とか連れて行って
貰ったが、 しかし行く先々で 担任の森田先生や 吉田先生に背負われて
観光地巡りをしたこと、そして迷惑を掛けた事を思い出す。

 父はよく言っていた。”馬鹿な軍の上部の人間が 勝ち目のない戦を仕掛け、
罪のない 国民を地獄に突き落とした。と、また 軍人ばかりが悲惨な目に
遭ったのではない。 銃後の国民は 何の抵抗もできず、B29の爆撃によって
多くの人間が殺された。
父の弟二人は 南シナに出兵していたが 無事を祈って父は 毎日 影膳と言う
ものを供えていたと言う。
父の 直ぐ弟は 新兵から入隊し、後に曹長にまで昇進。職業軍人だったが
無事 内地へ帰られた。その下の弟も軍曹になり憲兵隊に居たが これも内地
勤務で無事だった。 その叔父も 既にこの世に居ない。

 昭和46年に58歳で病気で亡くなった父、もう2年 いや もう1年生きていて
くれれば、翌年には新居を建て、私が結婚し、孫も見られただろうに、苦労
ばかりして亡くなった父。
 何時だったか? 古い写真を整理していると 若い頃の父の写真があった。
友達と思われる男性4人と、そして着物姿の女性4人と写真を撮っていたもので
あった。裏面を読むと 昭和16年 千日前にてと書いてある。
どうやら 当時 カフエとか言われるところに働いている女給とか言われる
女性と記念写真を撮ったものらしい。
息子の私が言うのも変だが、父は美男子であった。 きっと女性にも持てた
事だろう。 苦労ばかりして亡くなった父だが、若い頃には このような
楽しい 一場面もあったのだと思うと、少し気持ちが和らいできます。