蓬莱の島通信ブログ別館

「すでに起こったことは、明らかに可能なことがらである」
在台日本語教師の東アジア時事論評あるいはカサンドラの眼差し

ナチス中国人民解放軍の研究Ⅱ─中国人民解放軍の基本戦術─

2009年01月22日 | 22世紀を迎えるために
1.敵を知り己を知らば百戦危うからず
 讀者大家新年快樂。
 前回のナチス中国人民解放軍の研究Ⅰ─愛国主義と瀋陽軍区演習「連合勇士2008」(上)─のテーマ、現代のナチス中国人民解放軍を述べる前に、中国人民解放軍の戦術の歴史を簡単に見ておきたい。
 国内では、ナチス中国の意向を受けた融和主義者「日本民主党」(日本民主党は中国共産党と定期協議をしている「日中(民主党・中国共産党)「交流協議機構・大長城計画訪中団」(2007年12月6日~12月10日)報告 」)が奸佞邪悪な手法で国会を麻痺させ、日本の対中国国防政策を始めたとした国政運営を徹底的に妨害している。
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民主・石井氏らに批判殺到 首相への「漢字テスト」
1月21日23時40分配信 産経新聞
 20日の参院予算委員会の質問で、民主党の石井一副代表が麻生太郎首相に「漢字テスト」をした直後から、石井氏や同党本部に苦情が相次いだ。
 関係者によると、21日までに電話や電子メールで寄せられた声は「経済が大変なときに税金を使って何をやっている」「何の目的があるのか」といった批判的な内容が大半。民主党支持者と名乗る人からは「そんなことで政権がとれるか」と厳しい注文がつけられたという。
 民主党本部はこの件については「答えられない」としているが、中堅議員は「失敗。党のイメージが悪くなる」と渋い表情だ。
 インターネットでも、ニュースブログサイトの「iZa(イザ)」では21日現在、このニュースに129件の意見が寄せられた。「国会でまともなことを話しなさい」「国会をバラエティー番組にしたのか」などでの内容で、「2ちゃんねる」にも同様の書き込みがあった。
 石井氏は20日の参院予算委で、首相が月刊誌に寄せた手記中から12の漢字・熟語を抜き出し「あなたの漢字力からして、誰かが書いたと思わざるを得ない」などと指摘した。
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 これは典型的な衆愚政治の見本だろう。ただし、今までの「衆愚政治」は日本民主党や社民党、共産党にその典型が見られるように、徹底的に民衆を無知蒙昧な者と軽侮したところに成り立っていたが、21世紀の市民はすでに支配階級よりもずっと健全で未来を見通す力を持っている。なぜなら、みな社会と時代の最前線で働く者だからだ。
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衆愚政治 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
衆愚政治(しゅうぐせいじ、Ochlocracy)とは、多数の愚民による政治の意で、民主政を揶揄して用いられる言葉。有権者の大半が知的訓練を受けずに参政権を得ている状況で、その愚かさゆえに互いに譲り合い(互譲)や合意形成ができず、政策が停滞してしまったり、愚かな合意が得られたりする状況をさす。また有権者がおのおののエゴイズムを追求して意思決定する政治状況を指す。
知的訓練を受けない民が意思決定に参加することで、議論が低廻したり、扇動者の詭弁に誘導されて誤った意思決定をおこない、誤った政策執行に至る場合などをさす。また知的訓練を受けた僭主による利益誘導や、地縁・血縁からくる心理的な同調、刹那的で深い考えにもとづかない怒りや恐怖、嫉妬、見せかけの正しさや大義、あるいは利己的な欲求などさまざまな誘引に導かれ意思決定をおこなうことで、コミュニティ全体が不利益をこうむる政治状況をさす。
プラトンは、民主政は衆愚政治に陥る可能性があるとして、哲人政治の妥当性を主張した。
アドルフ・ヒトラーは、ヴァイマル憲法下おける民主主義が政局や経済混乱を招いているとして、これを衆愚政治と捉え、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)による独裁政を民主的手段と、衆愚政治の弱点である煽動や民族的な怒り、テロルなどに訴えることで樹立した。
イギリスの政治家ウィンストン・チャーチルは独裁政への魅力を戒め、「民主主義は最悪の政治といえる。これまで試みられてきた、民主主義以外の全ての政治体制を除けばだが」と述べた。
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 この定義は、もう時代遅れなので、21世紀の日本の状況で考えれば以下のようになるだろう。
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衆愚政治(しゅうぐせいじ、Ochlocracy)とは、多数の愚かな支配階級による政治の意で、日本では日本民主党など親中国政党を揶揄して用いられる言葉。有権者の大半が知的訓練を受けて参政権を得ている状況では、日本民主党のように民衆を見下す政党は、その蒙昧さのゆえに支配階級内で、互いに譲り合い(互譲)や合意形成ができず、政策が停滞してしまったり、愚かな合意が得られたりする状況をさす。また支配階級がおのおののエゴイズムを追求して意思決定する政治状況を指す。
日本民主党の石井一副代表のように知的訓練を受けない支配階級が意思決定に参加することで、議論が低廻したり、扇動者の詭弁に誘導されて誤った意思決定をおこない、誤った政策執行に至る場合などをさす。また中国からの利益誘導を受けた日本民主党の小沢一郎のような「僭主」による利益誘導や、地縁・血縁からくる心理的な同調、刹那的で深い考えにもとづかない怒りや恐怖、嫉妬、見せかけの正しさや大義、あるいは利己的な欲求などさまざまな誘引に導かれ、支配階級が意思決定をおこなうことで、コミュニティ全体が不利益をこうむる政治状況をさす。
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 プラトンがこの定義をした頃、ギリシア文化の中心だったアテネは、ペロポネソス戦争に敗れ、結局、スパルタ的軍国主義体制に従うはかはなかった。それはギリシア文明の落日だった。21世紀がこの世紀で人類の歴史の終わりになるならば、その原因は、おそらくプラトンが憂慮したのと同じ状況が日本で起こったためだろう。ナチス中国の暴走を止める「門の石」は私達日本の市民の良識である。
 前置きがむやみに長くなって申し訳ないが、良識の第一歩は、現実を見つめることである。「敵を知り己を知らば」で有名な『孫子』は、戦争という現実を人間がおそらく初めて見つめた書物だろう。
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孫子 (書物)全般的特徴
非好戦的
戦争を簡単に起こすことや、長期戦による国力消耗を戒める。この点について 老子思想との類縁性を指摘する研究もある。「百戦百勝は善の善なるものに非ず。戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり」(謀攻篇)
現実主義
緻密な観察眼に基づき、戦争の様々な様相を区別し、それに対応した記述を行う。「彼を知り己を知れば百戦して殆うからず」(謀攻篇)
主導権の重視
「善く攻むる者には、敵、其の守る所を知らず。善く守る者は、敵、其の攻むる所を知らず」(虚実篇)
『孫子』の戦争観
孫子は戦争を極めて深刻なものであると捉えていた。それは「兵は国の大事にして、死生の地、存亡の地なり。察せざるべからず」(戦争は国家の大事であって、国民の生死、国家の存亡がかかっている。良く考えねばならない)と言うように、戦争という一事象の中だけで考察するのではなく、あくまで国家運営と戦争との関係を俯瞰する姿勢から導き出されたものである。それは「国を全うするを上と為し、国を破るは之に次ぐ」、「百戦百勝は善の善なるものに非ず」といったことばからも伺える。
また「兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり」(多少まずいやり方で短期決戦に出る事はあっても、長期戦に持ち込んで成功した例は知らない)ということばも、戦争長期化によって国家に与える経済的負担を憂慮するものである(第二次世界大戦における日本軍の戦いが「巧久」の最たる例であろう)。この費用対効果的な発想も国家と戦争の関係から発せられたものであると言えるだろう。
すなわち『孫子』が単なる兵法解説書の地位を脱し、今日まで普遍的な価値を有し続けているのは、目先の戦闘に勝利することに終始せず、こうした国家との関係から戦争を論ずる書の性格によるといえる。
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 ペロポネソス戦争にギリシア世界没落の徴表を読み取っていた歴史家トゥキディデス同様、孫子も戦争がもたらす悲劇を知悉していたのだろう。『孫子』の原則は、私達日本人が「新しい中世」といわれる21世紀を国際社会で活きるとき、社会の基本方針としてもよいものではないかと思う。一般に戦闘に勝つための戦術を述べていると思われているのと異なり、孫子は「国を全うするを上と為し、国を破るは之に次ぐ」というように、共同体の命運を守ることに第一の課題を見ていた。従って、敵国の兵器の性能や部隊の編成だけを見ていても、安全保障に関しては実はほんの一部分に過ぎないということになる。
 私達日本人が自分の生い育った共同体を「中国人」という世界最悪の脅威から守るには、「中国人」という思想と現実を知ることである。
2.人民解放軍の基本戦術
 では、まず、「中国人」の一代表として「人民解放軍」を取り上げたとき、目立つ「思想」は何だろうか。
 「人民解放軍(以下、中国軍)」の基本思想は、日中戦争時代から受け継がれた「人海戦術」であろう。
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人海戦術
中国軍の山岳浸透戦略
1950年11月に朝鮮戦争に参加した中国の人民志願軍は、北朝鮮軍を追撃して北上する国連軍(アメリカ軍主体)に対し、軽装備の歩兵を山岳丘陵地帯から迂回させる戦術を大規模に適用した。数日分の食糧を携えて山野を越える中国軍の機動は、道路輸送に完全に依存していた国連軍にとって予想外であり、戦略的奇襲となった。各所で側面や後方を脅かされたアメリカ軍は、自分たちが踏み込めない山野が中国兵で埋め尽くされていると感じ、敗走に移った。夜間行軍をともなう山岳機動を大規模に実施して成功したのは、兵士の士気の高さだけでなく、当時の中国軍の指揮官が抗日戦で同様な機動の経験を積んだことにもよっている。
追撃が一段落してから、1951年2月に中国軍は再び攻勢に出て、初期の浸透には成功した。しかし、取り残された防御陣地を潰す際に、歩兵による正面突撃、すなわち文字通りの人海戦術をとるはめになり、機関銃を備えていた国連軍の前に甚大な損害を被って失敗した。
中国軍の伝統的なドクトリンは、国土防衛に重点を置いており、兵力の優位はまず自国の防衛を利するものとしている。近年の軍備近代化は攻撃能力向上を目指しているが、それはもっぱら質の向上に基づくものである。
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 朝鮮戦争で、アメリカ軍を主力とする国連軍を苦戦させたのは、この「人海戦術」だったと言われている。
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朝鮮戦争
38度線越境と中国人民志願軍参戦
10月1日、韓国軍は「祖国統一の好機」と踏み、国連軍の承認を受けて、単独で38度線を突破した。10月2日、韓国軍の進撃に対し北朝鮮は中華人民共和国首脳に参戦を要請。中華人民共和国の国務院総理(首相)の周恩来は「国連軍が38度線を越境すれば参戦する」と警告。だが10月9日には国連軍も38度線を超えて進撃した。
これまで参戦には消極的だった中華人民共和国も、遂に開戦前の北朝鮮との約束に従って人民解放軍を「志願兵」として派遣することを決定する。なお、「志願兵」とは名ばかりで、派兵された中国人民志願軍は彭徳懐を司令官とし、最前線だけで20万人規模、後方待機も含めると100万人規模という大軍だった。
10月20日、国連軍は北朝鮮の臨時首都・平壌(※北朝鮮は、1948年 - 1972年までソウルを首都に定めていた)を制圧、敗走する北朝鮮軍を追い、中国人民志願軍の派遣に気付かずになおも進撃を続けた。先行していた韓国軍は一時中朝国境の鴨緑江に達し、統一間近とまで騒がれた。だが、10月から朝鮮への進入を開始した中国人民志願軍は山間部を移動し、神出鬼没な攻撃と人海戦術により国連軍を圧倒、その山間部を進撃していた韓国第二軍が壊滅すると黄海側、日本海側を進む国連軍も包囲され、38度線近くまで潰走した。
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 しかし、「人海戦術」の基本は人数の多さではなく、実は第一次大戦にその淵源があり、大日本帝国陸軍も基本戦術にしていた「浸透戦術」である。
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浸透戦術
浸透戦術の歴史
第一次世界大戦中盤、ロシアの軍人ブルシロフが初めてこの戦術によって大勝利を収め、彼の名をとってブルシーロフ攻勢と呼ばれている。第一次世界大戦で唯一の攻勢側の「大勝利」である。しかし半年後帝政ロシアが二月革命によって倒れ、臨時政府が戦争を主導するも、再度の攻勢に失敗。逆に敵戦術を学習したドイツ軍が実験的に浸透戦術で反撃に出る。皮肉なことにロシア軍は自国の編み出した戦術により崩壊しはじめ、十月革命によって臨時政府も倒れ、共産政権は休戦を申し出て戦争から離脱する。以後この戦術を積極的に研究し使用したのはドイツで、西部戦線で浸透戦術を指導した将軍フーチェルの名をとってフーチェル戦術とも呼ぶ。またこの戦術はイタリア戦線でも圧倒的な戦果を上げ(カポレットの戦い)、連合国諸国に衝撃を与えた。大戦末期においてはフランス軍の考案した防御戦術である攻勢防御戦術が浸透戦術を打ち破り、フランス軍も攻撃の際には浸透戦術を使用した。
しかし、この浸透戦術は歩兵の戦術として強く生き続けた。列強各国は初等教育の普及を背景にこの戦術を自国に取り込み、最も成功した国が日本であった。同じく浸透戦術を取り入れたフランスは、新たな戦術体系である電撃戦によってドイツに大敗する事となる。
現代歩兵の戦術体系は、やはりこの戦術の発展系が基礎となっている。無線機の普及による連絡手段の発達や機械化歩兵の登場による機動力の確保、軍隊の職業軍人化によって下士官への高度な作戦教育が可能になった事で、この戦術の真価が発揮できるようになっているからである。
肉弾戦術
日本の帝国陸軍が第一次世界大戦の戦訓を元に戦間期の陸軍基本戦術としたのがこの浸透戦術である。旧陸軍はこの戦術を肉弾突撃と名づけた。これは別に戦車に兵が地雷を持って突撃する事ではなく、分隊等の小単位の兵力が相互に援護し合いながら敵陣を突破する戦術である。すなわち、傘型陣形の小隊を「弾丸」に見立てたものである。
分隊レベルを指揮する下士官に戦闘面でかなりの選択を迫る戦術である。彼らは一部隊の指揮官として援護・突破・防御を自由に行う手形が最初から与えられていた。
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 第一次大戦のドイツ軍、およびその後の大日本帝国陸軍にその典型が見られるような小部隊での敵陣地突破が「浸透戦術」で、これはドイツ軍の影響を受けていたソビエト軍で、さらに発展して、機械化兵力の運用と接合されて第二次大戦での対ドイツ戦で威力を発揮した。ソビエト軍の作戦は、以下のように言われている。
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ソ連軍の縦深攻撃
第二次世界大戦におけるソ連軍は、ミハイル・トゥハチェフスキーが理論化した縦深攻撃のドクトリンを持っていた。このドクトリンでは、攻撃正面を広くとり、数波に分け間断なく攻撃することで、防衛軍を全域にわたって拘束する。阻止される箇所がいくつあっても、戦力の優位によってどこかで弱点を突破できる。その後は追撃局面となり、なおも抗戦を続ける防衛軍がいれば、包囲して全滅させる。
このような攻撃にさらされたとき、防衛側の司令部は、予備軍を突破に備えて待機させなければならず、前線は援軍なしで戦わなければならなかった。さらに、前線の部隊は、自分の担当正面からの圧力が弱いときにも安心できず、他の部隊の崩壊を恐れなければならなかった。枢軸国軍は、ソ連軍の数的優位を何倍にも増幅して感じた。
このドクトリンは、大量の砲弾と多数の戦車(および理論上はさらに多数の航空機)を組み合わせ、火力と機動力と物量で敵を圧倒することを中心にしており、人の数だけで押し切ろうとするものではない。攻撃正面を絞り込まないため、不利な戦場をいくつか抱え込むことになったが、ソ連軍の考えでは、それも全体での決定的勝利のために必要な犠牲であった。
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 こうした歩兵を主力とする「浸透戦術」あるいは機械化兵力と接合した「縦深攻撃」は、どのように中国では評価されているだろうか?
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人海戰術(中文版偽Wikipedia百度百科)
 其實這種戰術並非中國獨有和首創,人海戰術實際上就是法蘭西的尼韋爾將軍(羅貝拉 . 尼韋爾)和芒讓(每找到這人資料)在凡爾登使用的集群式散兵戰術,這種散兵戰術改變原來的數道密集散兵線沖鋒的步兵攻擊方法,反對正面的攻擊,強調選擇有利突破點突破,在突破點上集結最大的兵力和火力。但在攻擊時,面對對方火力時,隊形要疏散。所以這種戰術將攻擊的步兵分成多個小集群,一個波次,一個波次的攻擊,散兵線中的步兵間隔加到4~6步,進攻隊形成縱深梯次配置,既保證必要的疏開,要不讓攻擊力消弱,同時波狀的不間斷攻擊也會大量消耗敵人的彈藥和士氣,造成一種攻擊無窮無盡的心理壓力,引發防線動搖,崩潰。朝戰,美軍面對這種攻擊時確實有過士氣受創而崩潰的例子。
  尼韋爾是西方比較重視近戰和夜戰的人,他強調砲兵作用,又很有創意的提出大量砲兵越過陣地抵近直瞄支援,而並非局限於壓制火力。
  尼韋爾將軍在這種戰術中歸納了一些夜戰要素︰
  1 夜戰的部隊必須專門訓練,夜戰中,在攻擊前進時不斷找出目標方位,保持攻擊方向準確性極為重要。
  2 出發陣地要儘可能接近敵人,反對步兵要推進到700M才射擊,400~100M才沖鋒。認為有可能的話,利用夜戰把出發陣地推進到500M以內最好,步兵一躍出陣地,立刻發起沖鋒。
  3 攻擊正面不要太大,兵力要梯次配置,面對較的火線可以減少傷亡,攻擊正面要儘可能集中兵力兵器(火炮等)
  4 衝擊過程中,伴隨火力必須強大,且不間斷的射擊壓制敵人。
  5 小單位滲透之敵後發起輔助攻擊,且大正面上發起佯攻,阻礙敵人兵力掉動。
  這些chc學習了很多,且發揮出極大的作用
  但是近年來,對於人海戰術的曲解往往被某些別有用心的人用來污蔑中共軍隊。中共在武器裝備和兵力總數並不佔優勢的情況下,強調的是利用運動戰,在運動中,分散敵人的兵力,形成局部的優勢,這樣就可以集中優勢兵力殲滅局部弱勢之敵,積小勝為大勝。這和《孫子兵法》中“十則圍之,五則攻之,倍則分之”的思想是不謀而合的。事實上,共軍在近戰中,非常強調分隊戰術。而攻堅時為了彌補火力的不足,更是大規模應用塹壕和爆破戰術來減少傷亡,提升攻擊效率。
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 百度百科はかなり専門的な人物が書いたらしく、典拠にフランス軍のロベール・ニヴェルの強襲夜襲戦術をあげている。
 次回、訳してみたいが、中国軍がこの方法を今も訓練しているのは「共軍在近戰中,非常強調分隊戰術」からも窺える。朝鮮戦争での中国軍歩兵の浸透作戦は今も中国軍歩兵の基本戦略である。
 


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