美術の学芸ノート

中村彝などの美術を中心に近代日本美術、印象派などの西洋美術、美術の真贋問題、個人的なつぶやきやメモなどを記します。

3月22日(火)のつぶやき

2016-03-23 03:17:04 | 日々の呟き

中村彝の『藝術の無限感』に収められている書簡は、大正3年頃以前のものは少なく、4年頃からの書簡が多くなる。それはちょうど彼と新宿中村屋・相馬家との間に亀裂が入り、大きな葛藤が生じ始めたころである。 goo.gl/Qc3XYl

1 件 リツイートされました

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中村彝の書簡から見た相馬俊子との恋愛(2)

2016-03-22 20:31:40 | 中村彝
中村彝が相馬俊子を描いた最も早い時期の作品例としては「習作」がある。

これは今日メナード美術館にある「少女像」と言われている作品で、同館では大正2年の作としている。

しかし、この作品は大正2年1月発行の『現代の洋画』(No.10)にカラー図版で掲載されている作品だから、むしろその前年の大正元年(明治45年)の作品である可能性の方が高いのではないか。ちなみに彝が中村屋裏の画室に移ったのは明治44年の12月であり、遅くとも大正元年の10月までには相馬安雄(俊子の弟)を描いている。

おそらく、このころから彝は相馬家の子供たち(俊子の妹の千香、そして俊子)を次々と描き始めたのではないかと思われる。

いずれにせよメナードの「少女像」が、制作年の確認できる最も早い時期の俊子を描いた作品であり、彝はそれ以降、大正3年の文展出品の俊子像である「小女」(新宿・中村屋蔵)まで、10点以上の俊子像を描いたはずである。

(明治44年の作とされる「読書」と呼ばれる作品があるが、制作年に誤りがなければ、これは俊子をモデルにしたものではなかろう。ただし背景の植物文様は、後の幾つかの俊子像にも共通するモティーフである。
してみると、この植物文様のモティーフは、彝が中村屋に移る前から彼のお気に入りのものだったということになる。)

このように大正元年(明治45年)から大正3年にかけて彝は俊子を描いたのだが、大正3年までの残されている彝の書簡は実は少ない。
『藝術の無限感』に収録されている彝の書簡も大正4年以降のものが多い。
すなわち、彝と中村屋相馬家との間に亀裂が入り、すでに葛藤が生じていた時期以降の書簡がこの本に多く収められ、その辺りから彝の書簡を詳しく読んでいくことになる。

大正4年3月、彝が大島に来てから「百日餘になる」ころ、中村春二に出した手紙には、自然(外部)が光に満ち始めた風景と自分のいつも暗い内面とが鮮やかに対比されて、こう語られているのが印象的である。

すべてのものが解放され活気づき、・・・地からは水気をあげて若きグリーンの草を出し、山には桜桃が咲き、鳥は高音をあげ、人も牛も嬉し相に声高く歌ひながら輝く太陽の下へ、外へ、林の中へ、山の中へ出て行く様になつたのですが、・・・自分一人は何時も暗い室の中に、床の中に縛られ、幽閉され、屈辱せられて、描きたくとも、見たくとも、ジッと眼をつむつて辛抱して居なくてはならないのです。室の障子を開けると紺青の海がキラキラ輝いて居ります。大地や樹木が静かに幸福相に沈黙して、日にてり輝いて居るのです。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

3月21日(月)のつぶやき

2016-03-22 03:19:59 | 日々の呟き

中村彝の大島行は本当に自殺のため? goo.gl/LFNmt5


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中村彝の書簡から見た相馬俊子との恋愛(1)

2016-03-21 20:24:09 | 中村彝
中村彝が新宿中村屋の娘相馬俊子と恋愛関係にあったことはよく知られている。

が、この二人の関係をめぐり、彝の大島滞在(大正3年12月から翌年3月まで)以前に相馬家との破局があって、それで彼の大島行となり、大島行は自殺のためとされている解説文を時折見かけるが、これは正確ではない。

確かに相馬俊子との間にというよりも彝と相馬家との間にはすでに大島行以前に葛藤が生じていた。

とはいえ彼は大正3年12月に相馬家の幼児哲子の名付け親となっているし、大島から帰ってきてから哲子を描いてもいるのである(この子は大正4年の12月に亡くなってしまう)。

こうした関係は保たれていたから、おそらく大島行以前にはまだ決定的な破局には至っていなかったと推測される。

もっと重要な破局が訪れたのは明らかに大島行以降の大正4年の8月ごろ、彝が「あの悲惨な爆発」と言っていることが生じてからのことだろう。

もちろん大島行以前にも葛藤があったことは、彝が「一度周囲に敗北して心の安定を失つたものはこんな風に宇宙のどこへ行つても住むべき処がないのでせうか?どこへ行っても駄目なのでせうか」と大島から大正4年3月に支援者の中村春二に書いていることからも確かめ得る。

しかし彼が大島に行ったのは、「死ぬつもりで」と画友に後年洩らしたとしても、それは必ずしも「自殺するため」とか「死ぬため」とまでは言えない。

そもそも彼は大島に行くのに初めから絵具箱を携行していたし、大正4年の元旦に大島から伊藤隆三郎に出した手紙でも、伊藤からの金を受け取り、「絵は今にきつと送ってあげます」と明確にそこで絵を描いて送ることを約束しているのだ。

そして呼吸器患者に大島はよくないと承知の上で彼は行ったのだった。

だから「死ぬつもりで」とは、明確な意図があっての「自殺」のためではなく、「死を覚悟して」、「必死の思いで、病を押して」というほどの意味にも解せる。実際、彼は大島で感冒、発熱、喀血に見舞われてしまった。

それに大島での彼の実際の行動を見ても、自らの死を模索するのではなく、かえって悩める青年を救い、何とか絵を描き、彝の最も早くからの親友多湖実輝にはそこから出した絵葉書に戯言とも読める内容を書き送っている(大正4年3月19日)ほどなのである。

 向かって左に立つてるのが有名な大島の××アンコだ。・・・
(××アンコは)・・・歌にまでうたわれただけあつて中々肉惑的な顔をして居る。風邪がなおつたら三原山は兎に角として片ッ方の方だけにでも上つて置かッと思つて居たのだが病気の方が忙しくてその閑がない。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

3月18日(金)のつぶやき

2016-03-19 03:20:20 | 日々の呟き

「叙勲において保育士や介護職員を積極的に評価していく」との発言が官邸からあったそうだが、なぜ「評価」なのか?今必要なのは、評価や表彰ではなく、プロの労働に見合った報酬。保育や介護を人命救助か何かとはきちがえてないか。保育士や介護職員も資格を持ったプロ。正当な報酬を受けるべきだ

Riki67さんがリツイート | 25 RT

ああ、今日テレビ東京のお昼に『パーフェクト・ワールド』やってたんだ。見たかった。脱獄犯と人質にとられた少年の間に、擬似的な父子関係が生まれてゆく。犯人も子どもも最も飢えていたのが「無償の愛」だったのだろう。22年前に観たきりだが今でも思い出して号泣しそうだ。

Riki67さんがリツイート | 5 RT

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする