みちのくの放浪子

九州人の東北紀行

五・一五事件と九段会館

2018年05月15日 | 俳句日記


千代田区九段下の九段会館が、八十四年
の役割を終える。
戦前は「軍人会館」と呼ばれていた。
70年安保当時、よく足を運んだ。

歴史に詳しい人は、九段会館は二・二六
事件の時に戒厳司令部が置かれた所じゃ
ないか、なぜ五・一五事件なんだ⁉︎ と訝
るかも知れない。

九州生まれで当時19歳の私にとって、至
る所に歴史の足跡が残る東京は、眩しい
ほどに憧れの場所であった。
そして、この会館で歴史上の人に会う。

五・一五事件で犬養首相を撃った張本人、
海軍中尉三上卓氏である。
羽織を着た小柄なご老人であった。
軍人であられただけに姿勢が良かった。



「こんな良い国になったのに、何故左翼
はあんなに騒ぐのかねぇ」
七十年当時の世相を嘆かれた言葉だ。
私は時代の重みを感じていた。

氏がお生まれになったのは明治38年3月
、日露戦争最大の山場、奉天の大会戦が
戦われている最中である。
そんな時代の空気の中で海軍兵学校へ。

ここで私が仄聞したエピソードをご紹介
しておきたい。
私がお世話になった実業家の母上の話で
ある。

当時、陸軍士官学校、海軍兵学校という
と地方の町や村では、数年に一人出るか
出ないかの秀才が目指す難関であった。
母上は四人兄妹の末っ子だった。

上の二人は、陸士に進み第二次大戦で戦
死、直ぐ上の兄は九州帝国大学を卒業、
のち大手企業の重役となる。
母上は女子師範を出て教師でらした。

その母上の、晩年の言葉が奮っている。
「戦争はいかん!頭と性格の良い者から
死んで行く。頭の悪かもんが生き残る」
こう言われると私なんぞ立つ瀬が無い。

三上卓先生はそんな中のお一人だった。
五・一五や二・二六の青年将校も、皆、
将来を嘱望された駿猷である。
そんな彼らが、なぜ決起したのか?

当時の年表を紐解けばそれが分かる。
世界恐慌のさ中、労働争議は頻発し、農
村では娘の身売りが日常であった。
政府内は大臣の罷免が続いて混迷し、政
党は財閥と癒着して支離滅裂だった。

『権門(政府行政)上に奢れども国を憂う
る誠なし、財閥富を誇れども社稷(土地
の神と穀物=クニ)を思う心なし』
と青年将校の眼には映った。

軍人は国を守る為に存在する。
政治の乱れは内からの崩壊と理解する。
その想いの純粋なるが故に血気に逸る。
国民生活が安定していれば決起などする
訳は無いのだ。

的を得た経済政策の選択と富の再配分が
行われていれば、国民は納得する。
そんな時に偏った思想で政治を混乱させ
る者があれば、それが標的となる。

そこで、三上氏の先の言葉が、思い起こ
されるのだ。
三上氏の時代には、年金制度も国民皆保
険も、児童手当も生活補助も無かった。

その当時、議員の務めも果たさず、歳費
と政党助成金を詐取するような政党があ
れば、立ち所に潰されたであろう。
今の国民は実に優しい。

〈とつくにの 嵐も知らず 皐月風〉放浪子
季語・皐月風(初夏)

5月15日〔火〕晴れ
二千年の時を超えて危機が蘇る。
どうにもアーリア人種という奴は荒っぽ
くていけない。

ドクダミの花が美しく咲いていた。


日本人が、ドクダミ茶を持って世界を周
れば平和な地球になるのかも知れない。

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