みちのくの放浪子

九州人の東北紀行

福岡市の四十七士の墓

2017年12月14日 | 俳句日記

よほどご縁があったのであろう、冬日和
の真っ青に晴れ渡った空の下を、バスを
乗り継いで、福岡市南区寺塚にある曹洞
宗のお寺、興宗寺(通称穴観音)に行った。

実は昨日のことである。
今日14日が福岡義士会のお祭り日なのだ
が、予定があったので前日お詣りした。

山門をくぐり抜け、右手の奥がそこだ。

泉岳寺と同じ配置の赤穂義士の墓所。
内匠頭の墓石、

奥方のもの、

そして、大石内蔵助、

大石主税、享年16歳のもの、

が奥に祀られ、手前に義士それぞれの墓
石が、縦四列、横二列に並んでいる。

全ての墓石の戒名の頭に「刃」の文字と
信士の上に「劔」の文字が入っている。
これは、切腹したことを表わしていると
いうことなのだそうだ。

冬木立の木漏れ日の中で、足を踏み入れ
ることがためらわれるほどに、静謐な時
が流れていた。

ところで討入りの日だが。どうも講談と
は違うようだ。
長くなるから年表の形で列挙してみる。

[元禄14年]
⒊月14日 松の廊下刃傷事件
同月15日 内匠頭切腹
同月26日 吉良上野介お役を解かれる

[元禄15年]
12月15日 前日夜半集合、未明討入り

[元禄16年]
2月 4日 義士、預かり先で各々切腹

河出書房詳述日本史年表によると、こと
の顛末は、こう言うことであった。

ただ、この後が興味深い。
義士切腹の年の11月22日、関東に大地震
がおこる。
同月29日には江戸の大火、しかも幕府にゆかりのある湯島天神、昌平黌、神田明
神等が全焼、大名屋敷も被害甚大。
幕府の御用学者、室鳩巣が「赤穂義人録」を表わしたのはそのせいか?
巷では、義士の祟りと噂される。

翌年も、余震が続き「宝永」と改元。
宝永2年、綱吉はみたび「生類憐みの令」を出す。

宝永3年、近松門左衛門「碁盤太平記」
(赤穂義士を脚色した)を舞台に掛ける。

宝永4年、富士山宝永の大噴火、諸国大
地震か連発、幕府の財政は大打撃を受け
ることになる。
これ以降、明治になるまで幕府の財政が
元禄期まで回復することはなかった。

寺塚のこのお寺は地名が示すように、古
代古墳が数多く存在した地域であった。
穴観音の通称も横穴式石室が寺内にある
ことによる。

昭和十年に、早良区の木原善太郎さんが
私財を投入して四十七士の墓を建立され
たのも、県内の八幡や津屋崎に同様の墓
所が祀られたのも、風雲急を告げるあの
時代の御霊鎮めの意味合いがあったので
は⁈と思ってしまう。

八幡は製鉄所のある所、津屋崎は日本海
海戦に縁の深いところだ。
してみると、年末に「忠臣蔵」が演じら
れるのは鎮めの儀式なのかも知れない。

〈真面目さを 讃えてゆかし 義士の墓〉
放浪子 季語・義士の墓(冬)

12月14日〔木〕曇り 時々 晴れ
一日中江戸を勉強した。
試験は無いので気楽なものだ。
それにしても江戸時代というものは
上から下まで、真面目と言ったら切り
がない。
都市計画から、建築基準から、金融相場
農地法、地方自治、道路計画、商法民法
芸術文化、あらゆる分野に幕府は目配せ をして、国体を維持しようと皆んなが汗
をながせるように気配りをしている。
甚だしきは、享保2年(1717年)に幕府は
庶民に昌平黌の聴講を許した。
伝統的格式はあるにしても、すでに心の
内では四民平等の世があったのである。
戦後の歴史の先生は、嘘を教えてきたこ
とがよくわかった。










最新の画像もっと見る

コメントを投稿