みちのくの放浪子

九州人の東北紀行

出雲神話の語ること

2018年10月20日 | 俳句日記


私は[古事記]の第一巻神話部は、何処にでもある天地創造の神話を参考に、実在し
た日高見国を高天原に見立てて、建国の
実像を語ったものだとの田中説を採る。

東北大の田中英道名誉教授の御説だ。
そこから発想して気儘に物語を書いて来
たが、資料を集めれば集めるほど、読め
ば読むほど遺跡群との整合に驚く。

特に出雲神話の見せ場「国譲り」と出雲
市の荒神谷遺跡からの銅剣の出土は神話
が事実であったことの証拠だと思う。

出土された358本の銅剣

然も、雲南市の加茂岩倉遺跡と抱合せ。
こちらの出土品の特徴は銅鐸である。
学校で教わったように、銅鐸圏は東日本
、銅剣の出土圏は西日本である。

このことから推理すると大和朝廷の確立
はこの時だったのである。
有り体に言えば天孫族と渡来人との手打
がこの時に行われたのだ。

神武東征が樫原での即位で終わって政権
が成ったと思っていたがそうではない。
あれは出雲族に国を譲らせる為に不可欠
な行動であったのである。

十干十二支を辿って行けば、その辺りが
見えてくる。
興味がある人は、干支の記された年表を
開いてみるとよい。

神武天皇即位の辛酉(かのととり)の年と
出雲大社の60年周期の遷宮の年にあたる壬辰(みずのえたつ)を過去に遡って行けばAD121年とAD152年に辿り着く。

私は121年が即位の年、152年が国譲りの
年だとしてこれを書いている。
明確に年代を示した史料には行き当たっ
ていないからだ。

前に書いたことだが、とにかく天武天皇
は渡来人に気を使っておられた。
その事を太安万侶は、見事に神話の中に
閉じ込めたのだと思う。



呉の末裔だと思われる大国主もただの人
では無かった。
二人の息子に国譲りを託した。
子孫の繁栄を担保したのだ。

その事は、のちの倭国の大乱の中で分か
って来る。
そして大国主が条件とした巨大な神殿(出雲大社)の造営もその目的であった。


ひとまず出雲神話の稿は終わります。
明日からは、筑紫の乱に戻りヒコナギの
戦死、邪馬台国の成立、神武東征そして
悲劇の女王卑弥呼と続きます。

(…つづく)


10月21日〔土〕晴れ 秋風寒し
店頭には濃橙色に色付く柿が
出回って来たが、街なかの柿の実は
色付きが悪いようだ。
お店の人に聞くと確かに遅いと言う。

今日のような気温ならば、
急速に色付くのかもしれない。
柿は酒飲みには福音の果実だ。
二日酔いを覚ましてくれる。

なんでも柿のタンニンが酒毒を
消してくれるらしい。
更に良いことには気持ちを素直に
してくれる。
「告る⁈」時には最適だ。

《柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺》子規

素直な気持ちになるから、
実に素直な名句が生まれる。

〈嬉しさは 柿と出会へし 我身哉〉放浪子
季語・柿(秋)



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