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★ 琉球新報・沖縄タイムスの4・28特集

2013-04-26 17:31:14 | インポート

4月24日 琉球新報
4・28「主権」を問う特集      
 
1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約の発効により、沖縄、奄美を含む南西諸島は日本から切り離され、米国の統治下に置かれた。日本は主権を回復する一方で、沖縄統治を米国に委ねた。日本の独立と引き換えに始まった米国統治によって沖縄は軍事要塞と化し、住民の命や人権、財産は脅かされた。

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4月25日沖縄タイムス
4・28あの時紙面では

講和と街の表情 疑問や願望秘め(1951年9月10日)
       

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1951年9月10日の紙面。奄美大島の状況も書かれている

海のはるか彼方で「講和條約」が調印された。これは戰争國が仲直りする平和回復の條約であり、今まで尾を曳いてつゞいた戰争状態に終止符を打つものである。われわれの頭上から砲弾のさく裂する音が消えて早や七年、國際的怪しい雲行の中にではあるが、今度こそわれわれの前に本格的平和の幕が展かれようとしている。

きのうの那覇の街は、講和條約が調印されたことにも表面無感動なとらえどころのない表情だ、と見うけられた戦火がおさまつて六年もの間、政府の施策や日常生活にも「暫定措置」だとか「仮建築」など、何かしらおちつかぬものを感じつゝ講和條約さえすめば、はつきりした目標のもとに復興の歩みが一段とすゝめられるだろうといわれ、こゝ数ヵ月は特に帰属問題の論議が盛んで、ひそうなまでに日本復帰運動がなされていた。

こうして迎えた一九五一年九月九日、であつたのだが「講和條約調印さる」といち早く貼られた街の速報ビラに立ち止る人はごく僅かなものだ、おヒル過ぎ開南附近では数人の若者が、速報に見入っていたが、國際劇場前は電柱に貼られたビラがだらりとさがつて、今にも風に吹き剥がされそうだつた。

バス停留所の速報にだつて視線を長く止める人は少い、バスに乗り降りする人ごみや道いく人この那覇の顔も動きも一見しただけではいつもと變りなく、國際間の微妙な空氣の間から生まれた「信託統治」という複雑な様相が、そのまゝ沖縄人の間にもちこまれたのか、すつきりしたモメントを〓することは難しいと思われた。この理由はいろいろあるだろうが。

連日の報道で信託統治は既定の事實として受けとられ、いまも米國の占領治下だから、大きな変化はないだろう、というもの、また、この結果が、身近に表われてくるのは、日米信託協定後で、いまのところ、雲を掴むようなものだから、もちまえの樂天性でお茶をにごすのだという見方等々がある。きのう、那覇のある圖書會社で居合せた書店主や教育者、劇場主に信託統治の話をもちかけたら。「主権は日本にある、と明示されたゞけでもホッとしますよ、教育面でも“従前通り”になりそうですから、戰前と殆んど變りないわけでしょうね」。「通称貿易をもつと自由にして貰わぬと、本の返本がきかないから滞蔵するばかりで!」。「そうですよ、私の商賣だつて、日本へ注文しても、船の積み荷に手間どつて、時期おくれになつたりする」。「一体金は弗を使わせるのですかねー」。いつまでたつても結論の出ない問題だけに、いつしか税の話に變つていつた。無感動にさえ見える人々の心の底にいは、こういつた疑問や願望が、まだまだ尾をひいてたたえられているのは拭いきれないものだといえよう

平良知事聲明 米琉の理解を深め 所期の目的達成へ

琉球人の運命を託する對日講和條約は昨暁午前三時五十五分歴史的調印終了によつてこゝに沖縄は信託統治と決定されたがこれについて平良沖縄群島知事はきのう次のような聲明を發し、全住民に對しその所信を瞭らかにした。

對日講和条約は大体に於て日本に好意的のものであると思われるが、琉球を信託統治に置くようにしたことは、日本國民としても遺憾に思うているだろうと察するが、とくに日本復帰を熱望してやまない大多数の琉球住民を失望させた事と思う。

しかしアメリカが、かゝる措置を採るに至つたのは専ら現下の國際情勢にかんがみ戰略的見地より出たものと思われる、されば信託統治下に置かれるにしても、これが實施面に於て日本復帰の要因をなしている住民の希望は最大限度に取り入れられるであろう事を期待するものである、琉球に對して日本が形式的の主権を持つということがダレス大使の演説で確認されたということであるが、これは琉球の將来に大きな示唆を與えたものだと思う。今後は益々米琉相互の理解を深め充分なる強力の下にわれわれの希望が達成せられるよう努力しなければならないと思う。

※平良知事 当時の沖縄群島政府知事の平良辰雄氏

信託統治と琉球 講和調印後の観測と希望(1951年9月10日)

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1951年9月10日の紙面

對日講和條約の調印に伴い一應琉球諸島がアメリカの信託統治下におかれる予想が確定的となつたが、信託統治下におかれた場合、琉球の將来はどう動いてゆくかに住民の關心も向けられている、一般的に「信託統治は國連の承認が必要で、たといこの提案がソ連により拒否されて正式に信託が成立しない場合でも當分アメリカの主権行使が認められ、行政、立法、司法ともにアメリカの行うところとなる、そしてその後に來る情勢に應じて新たなる協定の下に琉球と日本側との妥當な關係が考案されるだろう」と観測されているが何れにしてもアメリカの統治下におかれるだろうことは予想される、それでは、この講和を機として琉球はどう動いてゆくか、そしてどう云つた政策が要請されるか……こゝに次の問題点を拾つてみた

[政治]姿が判然とするのは米日間の信託協定 目前の關心 參議選挙
現在琉球統治の根本原則は昨年十二月五日付でスキャップより副長官宛送られた指令に述べられている琉球が米國の信託統治下におかれることが最終的に決定された場合新たに結ばれる信託協定によつて琉球の統治が行われることになるがこの協定がどう云つた性格をもち、右の指令内容がどう改廃されてゆくかに問題の焦点がある、右の指令の内容をなすものは國連憲章第十二章(国連信託統治制度)の第七十六條の精神に沿うたものであり、それ故に信託協定も、またそれからくる指令の改廃も基本方針においてこの線を出ないだろうとの見方が一般には強い

この想定の下に立つとき、さしあたつて中央政府の組織がどうなつてゆくかに政界の關心も寄せられているが、右指令では「民主々義の原理に基き立法行政、司法の三機關による自治」と明記され「能う限り速やかに中央政府樹立に關する規定を設けねばならぬ」と指示されている、即ち中央政府は立法、行政、司法の分立した三権を行使する機關を有し、これが民主々義の原則によつて設立されるわけで、近く立法院参議を公選するのもこの方針のあらわれとみられている

主席の公選? 二つの見方がある
こゝで問題となるのは主席の公選があるかどうかであるが、これには二ツの見方があるようだ、その一ツは三権分立の原則から主席も當然公選されるだろうとの見方で、これに對し、他の見方は他の民主國例えば英國や日本は議會が首相を選擧しているし、一方、米國が現在統治している地域即ちハワイ、アラスカ、グワム、ポリトリコでは統治國の任命となつている、更に軍は参議の公選を明示しているが、主席については差し控えている關係から、公選はないか或はあつても相當期間遅れるとの見方をとるものである

右に關連して一應関心がもたれているのは、群島政府の將来はどうなるかと云うことであるが、スキャップ指令では市町村單位の自治機構、地方単位の自治機構、及び中央政府の三段階となつている、こゝで今問題とされているのはこの地方的段階の自治機構と云う語であるが、地方必ずしも群島ではないという見方があることは一應注目されよう、こう云つた点は今後、論議の集中される問題だとみられるが、とにかく中央政府の権限が想像以上に大巾な自治へと擴大されてゆくことは、間違いないと見て差しつかえあるまい

何れにしても近く参議の公選が行われることは既定の事実となつている、社大黨ではこの参議選擧を相當重視し、人民黨またこれに對する對策を眞剣に講じているようであるが各黨とも参議選には全力を傾けることが予想され、日を経つに従い、その動きも活発にしてくることは充分予想される

[貿易]今後の復興には日本との自由交易
信託協約による正式決定を見る迄は合衆国議會は統治に關する基本的な法律をつくることは出來ないであろうから幣制等の面からの貿易の變化は當分ないと見てよかろう

信託決定後と雖も對外決済には米弗が用いられようが國内用としては米弗爲替にリンクした獨特な通貨を採用する見通しが強いようだ。そうなれば琉球は米國の國内經済に包含同化されることなく對米取引も外國貿易の型態をとることになろう對日取引が米弗を介して行われるとこは現在と同じで仮りに一部円建が併用されることがあつてもそれは何らかの方便として補助的一時的な意義しかもちえないであろう。講和後重要なことは日本が自主性を回復すること並に琉球が一應正式に日本から切離されることである。この二つの要素は我々の貿易の上に相反する見透しを与える。

孤立自足の昔はいざ知らず琉球の日本へのつながりには經済的必然的なものがあり琉球經済の日本への依存度は講和後と雖も何ら變りはない。必需品の大部分は日本に仰がなければならないし我々の物産も日本に市場の限られたものが断然多くそれを買つて貰わないことには産業の復興はあり得ない。日本と水いらずの經済關係を回復することは自立経済の前提条件である。それなくしては幾ら貴重な弗の援助を受けても軍作業で弗を稼いでもその場限りの喰潰しになり自立に向つての前進は案外捗らない。戰後ガリオアと軍労務のお陰で我々は飢餓から免れたばかりでなく生活を或る程度豊かにしさえしたのであるが自立經済の復興という面から見た場合未だ道遠しの感が深い。資本蓄積の貧困、消費經済の盛行、農村の疲弊、離農の続出等の現象は弗が單にそれだけでは万能薬ではないことを示している。この点米國の援助を返上し耐乏し生産し輸出して破産状態から立上つた英國人に感服せざるをえない

戰前全生産高の六割餘を日本に出すことによつて經済を維持していた琉球であつてみれば今後の基礎的復興も恒久的繁榮も日本との自由な拘束のない交易によつてのみ可能であることは明らかである我々の最大の懸案は採算がとれ実需がある限りはいつても何でも日本と賣り買いが出來る戰前同様の關係にもつていくことである。

日本から切離されることによつて關税の免除その他の特恵的な措置が取止められ外國並の扱いをされることになっては大變である。そんなことはありえないと私は信じている。むしろ講和により日本が自主性を回復することは日琉の不可分な經済関係を回復する上に欠くことの出來ない大きな基盤が出來ることを意味する。これは我々の久しく待望していたことであつた。終戰以來日琉間を隔てゝいた柵を取り拂う努力には講和を機として大きな進展があるものと期待してよかろうと思う。(瀬長浩氏談)

[金融]どうなるB円の整理 発券銀行誕生か「ドル」の自主運營が鍵
講和條約の調印によつて米國を唯一の施政権者とする信託統治下に置かれた場合經済界に如何なる變動を齎らすか、以下消息筋の観測……

信託統治と決定しても直ちに急激な變動は予想されない、各國の批准を経て條約が発効するのは明春の予想でありそれまでに日米間に信託統治協定が締結されることも考えられるので相當の時間的餘裕がある、併し現在既に米軍の統治方針によつて信託統治の形態が整えられつゝあることは周知の通りで條約調印によつて政策具体化のテンポが促進されることは間違いないだろうと見られている

經済界の大きな變動は先ずB軍票が如何に整理されるかということである、現在のB軍票は戰時中の暫定通貨でこれを對外価値のある通貨に切り替えねばならない、米國の信託統治下ではドルの裏付のある通貨が採用される可能性が大きいとされている、この場合最も関心を惹くのは通貨価値がどう變化するかと言う点であるがB円価値の切下げ、日本円との三對一の比率はもっと縮まるだろうとの見方が強い

通貨整理に伴つて中央銀行制度が確立され今まで軍が握つている發行権の民移譲が考えられる、最近問題となつている市中銀行の創設が講和と關連した措置であるかは明らかでないが、民間では琉銀を中央銀行に新銀行を市中銀行として金融分野の確立を圖れとの聲もある、經済政策の中枢をなすのは金融政策であり經済復興を軌道に乗せて推進するためには通貨發行権の民移譲が實現されねばならないとしている、現況の下では金融委員會の設立も大きな意義はないとされている

次に實現が要望され叉強力な統合政府が発足した場合可能性が強いのは見返資金と商業ドル資金の管理運営を移譲することである この問題はこれまで再々陳情もされているが實現していない、これは現政治機構の下では時機が熟していないとの見方も成立するが、中央政府の發足とともに漸次移管され自主的な運営に委されると見ている、これまでの民の經済政策に總合性がなくこれと言つた成果をあげていないのは單に頭脳の貧困に起因するのではなく以上の三権限にタツチ出來ない制度上の大きな欠陥であると指摘しており信託統治がその住民の自治能力を尊重し、自主的に經済復興を指導促進するよう要望している

軍用地の地代、對日債権の決濟等
次に具体的に解決されていく大きな經済問題として豫想されるのは軍用地の地代支拂、國際水準を勘案した軍勞働賃金の設定、不在地主の土地管理を中央政府に移管して適正な地代を徴収し適正な地租を課して財源に充當する、恩給保險貯金予金などの對日債権の早急な決済などである

[人口と勞力]移民送出の時至る
戰前、勞働力の七十四パーセント以上が農業に投下されていたが、戰後の今日では農民は約五十パーセントに減り軍作業、土建、商業、運輸等の従業者が増えたが、これは米軍の駐屯によつて發生する經済事情を背景として産業が發展し、職業構造が組み變えられたことを意味する、従つて今後はかゝる現象の中から政策の要素が生れることを念頭におくべきであると思う

勞働經済雇用の面から先ず次のことが要請される。現在の軍労務者の賃銀は平均時給九セント(十一円)で米人最低給の十分の一以下、比島人最低給の四分の一以下、日本の三分の一以下と推定される、かゝる低賃銀は社會政策的見地からも早急に修正されることを望む

更に大きいのは労力と人口の問題であろう、既に報じられたように沖縄の人口構成は二十才以下の占める割が高く正常の形に復しかつてない繁榮型を示している、職業は前述のように恒常性のない軍労務に依存している、これは時勢の變動で失業人口を続出させる休火山的要因を孕んでいるとも云える

移民問題は民政府當時から叫ばれてきたが國際問題ともから實現出來なかつたが、講和調印を機として、經済力とバランスしない労力の移出即ち移民問題こそ今後の最大の政策としてとりあげることが強く要請されねばならぬと思う(座間味眞氏談=群島政府勞働課職員)

講和條約調印さる(1951年9月10日社説)

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1951年9月10日の社説

大波乱を豫想されて居た桑港講和會議はソ連側の反撃的態度が思つた程の反響もなく議事は豫定のプログラムを追うて進行し、八日講話條約の調印が行われた、まさに世界史の轉換である。

過去六ヵ年間敗戰國として連合國の管理下におかれ、その指導のもとに民主化への新しい道を歩いてきた日本は條約の発効と共に獨立の主権國家としてアジアの一角に新生の輝かしい日を迎えるのである。が、日本の占めて居る政治的戰略的地位と強靭なる工業潜存力と八千三百餘万の人的資源は敗戰から起ちあがつたばかりとは言え優にアジアの大國たるの資格を失わしめるものではない。日本と提携することによつてアジアに安定勢力を築くことが出來るという事実が日本に“和解と理解”の講話を與えたのである。

講和後の日本が經済的に幾多の困難が予想され叉過剰人口の處理には深刻なる苦悩を内包して居るに拘わらず、その前途は光明に満たされて居るのも國際情勢の一大變化によつて齎されたるものであつて誠に幸運に惠ぐまれて居たと言えよう。

講和會議に於ても米ソの對立は鋭い様相を以て現われ、講和即ち平和とは言えない甚だ遺憾極まる印象を與えられたのであるが、開會式劈頭の演説に於てトルーマン大統領は“あらゆる國の國民は今何ものにもまして「たゞ一つのもの」を切望して居り、これをあくまで獲得する決意を固めて居る。かれらが望んで居るただ一つのもの、それは「平和な世界」である。すべての人すべての國にとつて正義と自由の通用する世界である。此處にこの會議に代表を送つた國々の國民はいずれも吾々がこの目標に到達するため出來る限りの手段をとることを要求して居るのである”と平和の實現を唯一の目標として居ることを指摘して居る。

これは日本との講和條約の成立によつて平和を回復するというだけのことを意味して居るのではない。日本との講和が成立することによつて世界の平和を築きあげて行く、即ち「ただ一つのもの」平和への一歩前進を意味するものであることを強調したのである。

朝鮮事變は國連軍側も共産軍側も自説を固執して停戰交渉は難航し前途は予断を許さないものがあるが、しかし双方とも和平妥結の望みは捨てゝ居ないのであるから最惡の事態を豫想することは當を得たものではないであろう。

自由諸國間の利害調整にも錯綜があり、これが調整にも多くの困難がある上に米ソ両陣営の對立は容易に解けそうもない世界の現状に於て平和を「ただ一つのもの」としてその實現に努力することの如何に困難なるものであるかは言を俟たないのであるが、そうかと言うてこれに對する努力が緩められるようなことがあつてはならない。世界人類の幸福は平和と自由の中に於てのみ與えられるものであり、平和と自由を確保するのが政治である。謙虚なる忍耐心と戰争を絶滅するの確信こそ平和を齏來する要素であり、世界の政治家に期待するのも此の点である。

講和條約は日本に新しい道を開いてくれるのみでなく、世界人類の幸福を増進するために偉大なる貢献をなすものでなければならぬ。此の意味に於て吾々は桑港の歴史的會議が人類の進歩發展に大きな足跡を残してくれることを信じ、この會議を成功裡に終らしめた米國の努力に對し感謝せずには居れない。

講和條約の發効と琉球(1952年4月28日)

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1952年4月28日の紙面。「逐次日琉一体の実を」の見出しで、琉球政府の比嘉秀平主席のメッセージも掲載された。

講和發効後の日琉の関係は、琉球政府設立式典に於けるリツジウェイ大将の挨拶や日本政府が初代駐日大使として二十八日着任予定のマーフィ大使との交渉内容に示されている通り、軍事的に必要でない旅行、通信、通商などの自由が大巾に認められる気運にあるが、政策面で具体的に現われてくるまでには、相当の時間的余裕があり、発効後直ちに急激な変化は予想されていない

日琉間の制限が取除かれた場合、様々大きな影響を与えるのは經済面であり、特に経済復興に必要な輸出の伸長およびそれに伴う基本産業の復興が期待されている

五十一年九月に条約が締結されて以来、関心の的となつているのは通貨がどう変るかの点であるが、今までの所民政府あたりでも何らかの準備もないもようである。日本の行政権がどの程度およぼされるかによつて、日本通貨との切換えも考えられるが、当分の間は従来通りB円が流通し、対外決済はすべてドルを仲介として行われるとの見方が強い。貿易面の内国扱いは近く実現するとの見通しがついているが、これはあくまで貿易手続の簡易化が主体となつている。恩給、金融機関の債権の解決など沖繩事務所の設置によつて促進され経済界に好影響を及ぼすものと期待されている

人民の幸福は日本復歸
(人民党書記長瀬長亀次郎氏) 外国の統治下におかれることは、そのナマエが如何に近代的味覚をそゝるような代物でも、所謂植民地である。琉球人を愛し、日本に復帰することによつてのみ、人民の幸福が得られることを信じているあらゆる層の力を組織し、われわれはこの島の反植民地闘争への先頭に立つて、闘うことを、対日平和条約発効の今日、全日本の人民に誓うものである

米琉相互の理解 信頼
(社大党委員長平良辰雄氏) リツジウェイ長官は軍事的必要以外は日琉の旅行、通信および通称上の不要な制限を取り除くことを明らかにしている、これはわれわれが率直に意志を表明に米国がこれを理解してきたからである対日講和条約が発効した今日われわれは琉球がおかれている国際的地位を充分の認識し米琉相互の理解と信頼を深めわれわれの希望を達成せしめるよう努力することが大事である

歴史の峠に立ちて(1952年4月29日社説)

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講和条約が発効した翌日、1952年4月29日の社説

講和条約が発効して国際社会へ復帰した祖国日本の慶事を、われわれ琉球住民は無量の感慨をこめて祝福したい。

それにしても取残された嘆息が深く、もがいたところでどうともならぬ諦めがわれわれの胸を締めつける。しかし感傷に浸つてばかりもおれぬ厳しい境位におかれたわれわれ琉球住民だ。祖国日本の独立を契機として、われわれも亦心機一転、住民総起ち上りの誓いを固めなくてはならぬ。講和発効後果してわが琉球に如何なる変化がもたらされるかの関心が真つ先に抱かれる。

アメリカが望めば信託統治になる訳だが、このところそんな気配はない。そこで「琉球諸島の領域および住民に対して、行政、立法、司法の権力の全部及び一部を行使する権利を有する」として現在通りの統治方針が続くかも知れぬ。処が例の軍事基地以外の制限撤廃が、米、日、琉三者の理解と友愛によって、どの程度大幅に認められ、日・琉の関係を一体化しうるが今後の努力点である。残存主権が日本にあるから、将来日本へ復帰することは既定の事実であり、その線に沿うて日・琉の関係が一層近づきはしても、遠のく恐れはあるまい。そこにわれわれの明るい希望がある。旅行通信及び通商上の不必要な制限が一つ一つ取のぞかれること自体が、日本復帰に近づく前進過程である。そうした日・琉の関係を効顕して、われわれ琉球住民の恒久的生活向上に役立てる政治、経済、文化の運営が、琉球の指導者層並に全住民に負わされた使命と思われる。

が然し、祖国日本への過大評価は禁物である。完全復帰後ならとにかく、過渡時代における日本依存の行過ぎは、恐らくわれわれに失望を与えるのみであろう。占領すでにおわり、輝かしい国際社会へ復帰したとはいうものの、今後の日本の前途は手放しの楽観を許さない。国土の大半を失い、経済は米国その他の援助にまつ状態にあり、軍事力はおろか、国土の防衛さえ、日米安全保障条約に依つて米国の力に頼る有様であるといわれている。だから日本復帰は嫌だという事大主義を唱えるわけではない。日本の厳しい現状を直視して、日本への依存心を自戒すべきだと言いたいのである。日本独立の朗報にすつかり気をよくして、今後の日・琉関係の好転が、琉球の復興を一際目立つて促進するかも知れぬという、楽観がいささかでも抱かれたら、悔を将来に残す恐れなしとしない。勿論米国への依存も自戒しなくてはならぬ。米国当局から自立経済の努力を要請されたことを改めて銘記すべきである。と言うても、戦災地琉球が自力のみで起ち上れぬことは自明である。米・日両国の援助を待つ実情にあることは誰もが認める通りだ。が然し琉球住民にとつて「天は自らを助くる者を助く」の信条が第一である。その信条に生きてこそ、日本の厳しい現実に和すことが出来、日本復帰への前進を早めもする。

さらに、当分どつちつかずの境位におかれる過渡時代に対処するわれわれ琉球住民の在り方を自覚すべきだろう。米国は琉球住民に対し行政、立法、司法の権力の全部或はその一部を行使する権利をもつが、米国の統治方針が、民主々義の育成にあることは周知の通りである。琉球政府並に立法院の発足がそのことを如実に証左する。

琉球の政治、経済、文化の総てが民主主義を指向して住民自体の意志に基いて運営されることを米国は強力に勧奨している。有難いことだと思う。琉球のそれは、国際的孤児としてのよちよち歩きではあるが、それにしてもわれわれは希望の灯をかかげて真の民主々義を学びとる誠心と自負を持つべきである。将来日本へ復帰するにしても、琉球住民の民主々義的成長が何よりの先決だと言えよう。琉球住民の在り方をその一点に集中し、殊に精神の拠り処をそこに求むべきである。その努力さえあれば、当分の国際孤児時代も決して無駄にはならぬ。而して民主々義は個人の完成に究極の目標がおかれ、その完成した個々の集団社会或は国家への到達が理想である。

そこで、われわれ琉球住民の個々が、或は琉球全体が健かな民主的成長を遂げる為には、徒らな孤児意識を捨て、国際社会人としての成長を念願しなくてはならない。われわれの視野を世界にひろげ、世界平和のなかに生きる琉球たらしめる望みを抱いて、われわれの政治、経済、文化を創造する高まいな理想をもつべきである。米国にしろ、日本にしろ、その他民主々義諸国にしても、そうした理想を目標に、個の完成と国家の民主々義的完成に努力し、延いては国家と国家の繋りを親近させて、世界の恒久平和を希求している。そのための過渡的現象としての、いまのけわしい国際情勢と解すべきである。とにかく明るい希望を失わずに、平和と自由を求めて、祖国日本とわが琉球の健やかな民主的成長を祈りつつ、日本の独立復帰を祝福することにしたいものである。

講和発効から10年(1962年4月28日社説)

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1962年4月28日の社説

講和条約が発効して、ちょうど十年になる。条約の発効で祖国である日本は、国際社会復帰の第一歩を踏み出したわけだが、沖縄はその喜びから取り残されてしまった。一方においては日本の独立を祝福し、他方では諦めともつかぬ気持ちを訴えたものである。しかし、感傷にひたってばかりいたのではない。本土から分離はされたものの、潜在主権がある以上、復帰を既定の事実として受け取り、本土との接近を促進し、民主的成長に努力すべきことを主張してきた。

十年後の現在、わたくしたちの希望や主張は、曲折したコースではあったけれども、たゆまざる努力によって、しだいに実現しつつある感じを受ける。しかし、施政権は依然として米国がにぎり、究極の目標である復帰には、いっそうの努力とねばり強い折衝が要請されているのが実情である。

過去十年間には、とにかく、いろいろのことがあった。土地問題はそのさいたるものであったし、基地の存在から派生する人権などの諸問題は、本土でもかなりの反響をよんだ。それはすべて、講和条約第三条が根源になっていたといえるのである。土地接収が相次いで強行されていたころ、立法院では、そういう権利まで米国に与えているのか、という第三条問題がくりかえし論議された。しかし、第三条後段には絶対に近い権限が規定されていたのである。第三条の目的はむろん、沖縄の信託統治にあった。が、米国は信託統治を提案する意思のないことを表明している。沖縄が信託統治の対象になるかどうかも疑問であるし、基地との関連もあって、いろいろ


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