太陽系インド王朝所縁ある人達の話 2015・5・26
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先回、ブログで 太陽系インド王朝(SOLAR DYNASTY )
の始祖に,クリヤヨガが伝えられたという話をご紹介した。
この太陽系の王族のいわれは 日本の古神道に通じる太陽
を天照大神として、崇める信仰に基づくと聞いたことがある。
日本の太陽信仰が大元で世界に広まったという観方である。
今でも 印度では 太陽神を拝み、ガンジス河に日の出に
登ってきた太陽に,聖水を注ぐしきたりは,古代から受け
継がれている。
クリヤヨガは インドの有史以前から存在していると
考えられている。
紀元前数千年前に存在したクリシュナの 魂の前身が
聖者ヴィヴァスヴァッドに クリヤヨガを伝え、次に
マヌに伝えられ、さらに、(SOLAR DYNASTY)の武家王朝
の始祖イ クシュヴァクに伝えられたということが
バカヴァッドギータに 明記されている。
もう少し詳しく言えば、最初に伝えられた、
ヴィヴァスヴァッドVaivasvata Manuは,第七代の
マヌ家の子孫という学者がいる。
私たちの馴染みの深いところでは仏教所縁の、
釈迦族が 太陽系王朝の一つに入っている。
ここで生まれた皇子’Siddhartha Shakya’ シッダルタ
=釈迦 がのちの仏陀として仏教の開祖となる。
イン古代叙事詩で東南アジア諸国の文学や芸術に影響
を与えているラーマヤーナの主人公であるラーマ王子も、
太陽系王朝にゆかりが深い。
ラーマ王子は、ヴィシュヌ神の生まれ変わりとされている。
ラーマ皇子の弟 Bharata(バハラッタ)は ガンダーラ
地方を治める。
現在インド国と同意義語とされる Bharata(バハラッタ)
はラーマ王子に忠実な弟の名前から来ているという意見
もある。
一方 ラーマ王子はAyodhya.(アヨダヤ地方)を治め、
ラーマヤーナに書かれているように,スリランカの王
ランカを倒して 幽閉されていた自分の妻、シータを
奪い返し、故国に凱旋した。
その日を祝して、インド国民はディパワリと称し、
いわゆるディワリの祭りの由来となった。
この日は、古代から、人々は、家々の門にろうそくを
ともし、ラーマ王子の一隊が迷わず、故郷まで帰還
できるよう明るく道路を飾った。
この日は 現代の印度でも 一番華やかな国民的最大
の祝日の一つになっている。
盆と正月が一緒に来たような盛大さかもしれない。
家々からは、打ち上げ花火や隅田川の花火のような
仕掛け花火など 華々しくあげられ、音と煙で、
”まるで戦争が起こったよう” と この日には呟かざる
得ない。
花火を上げる、パンパンとした音と 窓ガラスの外
には、催涙弾のような煙が広がり暗い森や塒(ねぐら)
から、鳥たちがそのたびに怖がって 舞い上がる
シルエットがわかる。
昼日のような明るさが瞬間的に目を覆う。
老若男女、富んでいる者も、貧者もこの祭りには心を
籠めて楽しみ祝う光景を 私は、屋根の上に登って、
見るのが通例だった。
その時ほど、異国人であるという実感と、インドの大地で
たった、一人だという一抹の寂しさと共に、ディワリの
光景を 眺めていたのも懐かしい思い出だ。
家々の階段や門には ラーマを迎え入れた古代の名残を
とどめるかのように、様々な蝋燭(ろうそく)や燭台
を並べて、風流に、しかも 暖かな歓迎と喜びに満ちた
一夜を迎えるのである。
話しがそれたが 日本の太陽系王朝といえば 天照大神を
祖先とする天皇家に匹敵するだろう。
秀真伝え(超古代史)では天照大神は男神である。
イザナギ・イザナミの大神を御両親とし、日本の国
の乱れを治められるアマキミのご誕生を心から願い、
禊ぎをし、祈りを捧げて授かった御子であった。
天照大神は、生まれたとき、”私は、ひうるぎのミコという
名前だ”と 自ら口を動かして、叔母にあたるキクキリ姫
に伝える。
’ひうるぎ’とは、太陽のことだ。
ご誕生は フジ山の麓にある宮殿、そして、成人すると
仙台の宮にいらした、叔父上にあたる、トヨウケの神様
のもとで天の道、国を正しく収める道、人の道といわれた、
’天成神道(あまなるかみのみち)’ を学んだ。
お日様の魂の分身こそ、自分であると 誕生して
第一声を発するのは、仏様が”天上天下唯我独尊”と生まれた
ときに指をたてて、宣言したという逸話を 彷彿とさせる。
以後、天照大神の子孫が天皇(あまきみ)となられて
大和の国民(たみ)=(そうせい)を天成神道を外れに
治めていく。
私たちの国の国旗が太陽、日の丸であっても不思議
ではないし、日の出ずる国 と古代から呼ばれて
いたのも不思議ではない。
そして、日本(日の元)と呼ばれるこの国の由来は、
アマテラス大神の”無私・無我・無欲”の 等しく
民を想う 聡明な心に重なり合って、太陽を拝する
国民性として引き継がれてきたように感じる。