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自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

ヒマラヤ聖者エミール大師の奇跡(8)

2013年06月27日 | 健康と直結する”一元論”について

誰にも来る再び生まれる時   平成25年6月27日

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著者はしがきから

わたしは、1894年に極東を訪れた11人の調査団

の一員であった。

3年半にわたる極東滞在中、ヒマラヤの大師たちに

接触した。

大師は私たちが 偉大なる法則の働きを実証されるの

を実際に見るために、大師がたの生活の中に親しく

入り込むことを許してくれた。

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旅は 順調に続けられていた。

ある朝、日の暮れる前に、到着地に着くと、

翌朝、エミール大師が現れた。

その大師の語るお話しである。

 

皆さんに話をする場合、私が皆さんの言葉

(英語)を使うのは、私たちの信念の底にある、

大いなる原理を、少しでも多く、皆さんに

判ってもらおう、という気持ちから出ています。


総ての人が、一様に真理を正しく掴んでおれば、

彼らはその根源を同じくすることになりは

しないでしょうか?

 

 私たちは 普遍心~Universal Mind~、即ち、

神において、一つではないでしょうか?


私たちは、すべて一つの家族ではないでしょうか? 

総ての子らは、この地上に生まれたすべての子供は、

その種族や信条はどうであろうと、この大家族の

一員ではないでしょうか?”

 

さらに、大師は言葉を続ける。


 イエスが ‘我はドアー(須田注: 扉、入り口の意味

ある と言われたのは、各人の魂の中にある 

I AM(神我=われ神なりという実相)こそ、

神の偉大なる 生命 と 力 とに等しく、

各人が、それを、具象化する入口として、

イエスが来て各人が、それに、気が付くことを、

言い表したのです。

 

 

この I AM が、現れ出る方法は ただ一つ

あるだけで、

それは、考え、想念・言葉・行為 による

いうことです。


この I AM、即ち 神なる、実相

(力、本質、智慧)

は 意識 だけによって、形 が与えられている。 


このゆえに、大師キリストは、汝の信ずるが如く 

汝になれ’ と 言い給い、また、

信ずるものには、すべてのことが可能である’ 

と言われたのです。

 

わたしたちは、今や、神が力、本質、智慧として、

霊的な言葉で言い変えれば、智慧、愛、真理 

として魂の中にあり、意識によって、具象化し、

表現されることを知りました。(*1)


さて、意識は神の無限なる心の中にあり、意識

が人間であります。


その意識は 人間の心の中に持ち続けている

観念、あるいは信念によって、決定される。

 

わたしどもの、形体がやがては、老い死滅する

のは、自分が神の霊とは別のものであると 

信じ込んでいるためです。


形体は常に、神の霊とは 別のものであると

信じ込んでいるためです。


神の霊こそ、すべてであり、形体は常に、

の愛が 刻一刻と神自身の心を 表現しつつ

あると分かれば、霊より生まれるもの、

霊より来るものは霊であることわかる

でしょう

 

このような意識を通して、次に啓示される

偉大なる真理は、人間一人ひとりが神の心

の産物である、


したがって、人間一人ひとりが 神の心の中

で完全なる想念として描かれている、という

ことであります


だから、わたしどもは、何も自分のことを 

とやかく考え煩う必要はない。


わたしどもは、すでに神の完全なる心の中で、

完全なる存在として、完全に考えられ、描かれて

いるのです。

 

こう悟ることによって、私たちは 神の心に触れ、

神が私たちのために、既に描かれたことを、

私たちも再び、描くことができるのです。

 

 

これがイエスのいわゆる、再び、生まれる 

ということです。


これは沈黙がもたらす偉大なる贈り物です。

なぜなら、神の心に接することによって、私たち

は神心で考えることができ、間違って’思い込んで

いるイメージ自分’ではなく、’実相の自分自身’ 

知ることができるからです 

 

私たちは正念によって、神の心に接し、真の

すがたを表すことができる。


しかし、イメージが完全であろうと、不完全で

あろうと、その本質は 完全なる神の力、原質、

智慧である


私どもが変えたいと望むのは イメージの実相

ではなく、実相が摂っている姿(イメージ)

なのです

(*2)

 

 

それは、心を 再び新しくすることにより、

または、

不完全な考え方より、完全な考え方への切り替え、

人間的な考え方より、神の考え方に切り替えること

によってできます。

 

沈黙、即ち、我の心を鎮めることが、如何に等しく

重大であることか。

 

 

我の心が静まったとき、初めてわたしたちは

義(正しく使うことrighteousness

=right-use-ness)

太陽が、癒しをその翼にもたらして昇る~こと

を知るでしょう


あたかも、日光が、暗黒に満ちた部屋に充ち

溢れるように、神の心が意識の中に、

充ち溢れます。

 

また、我の心の中に、神の普遍心が滲透

していくのは、ちょうど、締め切られていた 

室内の長く淀み 穢れていた空気の中に、

莫大な量の空気が滲透していくようなもの

です。“(6066

 

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*1) でエミール師が語っているところは、今まで 

出てきた言葉で言えば唯心所現 の法則と言い換える

ことができると思う。


意識によって、具象化し、表現される ということは、

私たちが何を思うか、何をしたいか、何をビジョン化

するかなどの、心の意識行為によって、現実に

それらの状況が造りだされるという法則だ。

*2)

”私たちは正念によって、神の心に接し、真のすがた

を表すことができる。


しかし、イメージが完全であろうと、不完全であろう

と、”私たちの本質は 完全なる神の力、原質、智慧

ある。

私どもが変えたいと望むのは イメージの実相では

なく、実相が摂っている姿(イメージ)なので。”


という師の言葉にイメージの実相 と、この

現実世界に表れている、状態、つまり、実相が

(現象世界に)表すイメージと違いが語られて

いる。 

 

私たちが留意するべき点は、イメージ(像)の

中での曖昧な実相観念ではなく、

神の心に即した我々本来の姿であると

エミール大師はいう。


言い換えれば、

実相をベースにして、それが 顕現するところの 

イメージを心に置くということだろう。

 

それは、私たちのイメージする力の強弱の問題

ではなく、正念、つまり、本気でそれを求めた

ときに、必然的に気が付くものであり、すべて

の人にすでに備わっているからこそ、現実に

顕現されるタイミングを待って

いるだけといえるだろう。

 

 

参考)

 ヒマラヤ聖者の生活研究―自由自在への道 全5巻

S54年6月5日第五版 ベアード・T・スポールディング著 

仲里誠吉訳 霞が関書房

 

 

 

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