「天空の里 いもい農場」通信

長野市芋井広瀬の里山で、自然を身近に感じ、環境・農業・食べ物を大切に思う気持ちが育まれる事を目指した活動です。

芋井 戦争と平和資料展 見学報告

2016年08月12日 | 芋井地区の紹介
今回は、天空の里いもい農場が位置する長野市芋井地区で開催されている「芋井 戦争と平和資料展」に、今年、家庭の事情で活動をお休みしている広報担当のクロこと、鋤柄が見学してきたので、その報告をさせて頂きます。

「芋井 戦争と平和資料展」は、天空の里いもい農場の地主である和田さんが中心となり、戦後71年目にして初めて開催されました。内容は、芋井地区の戦争に関わった歴史について振りかえり、平和について考える場です。芋井地区に在住で戦没遺族の方々に資料提供を呼びかけ、、「戦没者の遺影」「名簿」「手紙」「日章旗への寄せ書き」「海軍服」「戦前運行していた善白(ぜんぱく)鉄道に関する資料」などが展示されています。



今回、和田さんから、貴重な歴史のお話をたくさん伺うことができましたので、その内容について報告します。

★和田さんの戦争体験と芋井の歴史
和田さんが鮮明に覚えているのは、終戦の2日前(8月13日)に起きた長野空襲。和田さん在住の芋井広瀬地区は、長野市の市街地をV字に見下ろす景観の良い場所であるが故、米軍の空襲と燃える長野市の光景は忘れられないものだそうです。

日露戦争と十五年戦争(満州事変からポツダム宣言受諾まで)で志願兵と応召(召集に応じて軍務につくこと)で約500人が戦争に行き、112人が戦死。会場にはその全員の名簿に犠牲となった場所、年齢などが、記載されています。年齢は16歳から38歳まで、日露戦争の激戦地となった二百三高地、満州、中国、東南アジアなど、かなり広域です。



戦後、シベリア抑留となった人も7、8人いて、全員が帰国。芋井広瀬地区からも1人いたそうですが、死ぬまで、抑留されたことについて、家族にも一言も喋らなかったと和田さんは話していました。

「口にしたくないほど過酷な体験だったんだろう」と和田さん。

「資料提供の呼びかけでたくさんの資料が集まった。手紙なども記録として残していきたい。そのままにしておくと散逸してしまう」と、記録として残していくことの大切さを語っていました。



★わずか7年の営業だった善白鉄道

資料の中に、長野盆地(別名:善光寺平)と白馬村を結ぼうとした善白鉄道について、当時の写真が展示されています。昭和11年に南長野(長野市中御所)と善光寺温泉東口が開業し、17年に裾花口まで延長したものの、昭和19年1月に、国の事業整理で休業。レール等の資材は鉄の供出でオランダ領インドシナのセレベス島に送られたとされています。

大本営は、敗戦濃厚な中で戦争目的を国体護持に変更しました。その関連で天皇や国の重要機関を、海から遠く、爆撃対して攻めずらいと考えられた長野に移す計画が密かに進められました。天皇やNHK、電電公社(NTT)、軍司令部は、長野市松代にある松代大本営地下壕を中心に移転準備がすすみ、皇太子(現:今上天皇)、皇太后(大正天皇の貞明皇后)を疎開させる施設として、旧・善白鉄道第3トンネルに建設する計画があって、終戦間際、資材は善光寺温泉まで運び込まれていたそうです。

「V字型の狭隘な地形で爆撃も難しかったから、疎開先として選ばれたのだろう」という和田さんの話に、うんうんと納得。

和田さんの話によれば、戦後も駅は残っていたそうで、長野市、白馬村が善白鉄道を復活させる運動を行ったものの、昭和45年に裾花ダムが完成し、路線が水没することになってしまい、善白鉄道復活は幻となってしまいました。

それにしても、長野から、芋井、戸隠、鬼無里を抜けて白馬まで行くという鉄路計画が戦前にあったことには驚きです。 



★65年ぶりにアメリカから帰還した日章旗

出生時の寄せ書きが書きこまれた2つの日章旗。左側のものは、戦後、無事に帰国して持ち帰ったものだけれども、右側のものは、昭和20年4月にレイテ島の激戦で亡くなった方のもので、この日章旗をアメリカ兵が本国に持ち帰って保管していました。

日章旗は本人が帰国したものが残されているのが殆ど。戦死した兵士のものが遺族のもとにあるというのはどういうわけでしょうか。その理由はこういうものでした。

たまたま東京在住の方が、アメリカにホームステイした際、偶然、ホームステイ先に、この日章旗があったことに驚き、存在を確認。ホームステイ先から遺族に返したいとの意向を受け、65年ぶりに返還されることになったそうです。

資料展初日に取材に来た信濃毎日新聞の記者も「これは珍しい」と言っていたそうです。



和田さん曰く、「芋井村と書かれてあったからだよ。名前だけだったら、分からなかっただろう」とも。

貴重な資料が展示されている「芋井 戦争と平和資料展」。今は平和な芋井も、かつては多くの若者が出征し、多くの若者が帰らぬ人となった負の歴史があります。無言で語りかけてくる貴重な資料を前に、平和について考える機会となりました。この場を借りて、取材にお応えいただいた和田さんに御礼を申し上げます。

展示は、8/10~20の9:00~17:00まで。芋井公民館の場所は➡(リンク先)。ナビをお持ちの方は、026-235-5778で検索して頂ければ。

貴重な資料が展示されていますので、是非、お越しください。


最後に、今企画開催趣旨全文を転載します。


「芋井の戦争の遺品、戦没者の遺影から学ぶ」

 戦後70年となる2015年(平成27)、芋井住民自治協議会・地域振興部会は、地域の戦争の記憶を整理し、その記録を後世に残すべく、関連資料を発掘、提供を区民に呼びかけてきました。戦後70年という長い時間の経過と平和が当たり前という社会環境の中で、当時の根本資料は散逸したり無用として処分されたりして、ほとんど収集出来ませんでした。しかし、数は少ないものの、寄せ書きされた日章旗や軍服、満蒙の地からの手紙など遺品などは残されていることが判明しました。これらの遺品は、保持者個人はもとより、地域共有の歴史資産としての価値を内包しています。
 戦没者全員の遺影は揃えられませんでしたが、協力いただきたご遺族の皆さんに心より感謝と御礼を申し上げます。また法学寺様のご協力をえて会場でささやかな法要を営ませていただきました。
 本資料点が、ふるさとへのおもいと地域建設にいささかの寄与ができれば幸いです。

いもいの桜は今が満開です:観光案内も兼ねて

2016年04月16日 | 芋井地区の紹介
 こんばんわ、ブログ担当のクロです。一昨日からの熊本を中心とした地震、大変なことになっていますね。当初の局地的な大きな被害ではなく、余震も続き、先が見通せない状況になっています。

 現地の方に心からのお見舞いを申し上げるとともに、これ以上被害が広がらないことを願っています。各地で募金等の取り組みも始まるようですが、出来るところで支援の輪を広げていきましょう。

 さて、前回の活動日に、今年は季節が進むのが早くて、「23日には葉桜になっちゃうなぁ」とみんなで話してて、事務局がリンゴの下の草刈りをしてきたついでに桜の写真を撮ってきたので、さっそくご紹介。まずは社会会館の桜です。



 その周辺の風景も一枚。



 そしていもいで有名なのが神代桜(じんだいざくら)。こういう写真は僕には撮れません(苦笑)。









 そして看板もパチリ。



 いもい住民自治協議会の紹介している文章をそのまま引用します(リンク先)。

 その昔、スサノオノ尊がこの地で休んだとき手に持っていた桜の杖を池辺にさしたものが大きくなったと伝えられている。根回り約9m目通り周囲11.3m樹齢1200年の巨木。国の天然記念物。

 桜の名所は数あれど(僕は高田公園のある上越市:高田の出身)、本当に見事な桜だと思います。しばしご堪能いただければ。

 さて、23日に話を戻します。9日に調味料関係の棚卸しをし、生協の稲里店で新しい商品を買い揃えてきました。



 これで今年の食育企画の準備はバッチリです。歴史のあるいもいの地で汗をかき、交流を深め、楽しい思い出作りをしましょう。
 
 スタッフ一同、皆さんの参加をお待ちしています。

雪のいもいの写真を撮る筈が・・・それはともかく、皆さん、良いお年を

2015年12月28日 | 芋井地区の紹介
 こんばんは、ブログ担当のクロです。一昨日の予報では、長野県北部の山沿いでは雪の予報。去年に続いて、冬の芋井、雪の芋井を記事にしたかったんですが・・・。



 ダメでした。ちょっとだけ長野市内より、雪は舞っているものの、積雪はゼロ。去年は畑に行く道には、膝まで雪があったのに(去年の記事)。



 せっかく行ったので、今の畑の写真を載せておきますね。





 畑から見た、山の頂上付近には雪が多少降っているようですが、たぶん、今頃は全部溶けてるでしょう。



 ただ、かなり寒かったので温まりに、森林囃子の湯に入りに行きます。もう着いた頃には、かなり天気が回復しています。



 この施設の玄関には、地元の農家さんが新鮮な野菜を持ち込んできていて格安で販売しています。くらかけ豆や小豆が多いですね、この時期は。いもい農場で貰ってきたので買いませんでした(一袋300円くらい)。



 50円で極太のネギが売ってたので、それだけ買ってきましたが、地元の特産品なんでしょうか?名前を控えるのを忘れたんですが、出来たら、来年のマイファームに植えたいなぁ・・・とか思ったり。



 日曜なのに、誰もお風呂にはいませんでした。おかげで広い湯舟を独占してたっぷり温まり、温泉を満喫しました。

 さて、今年度の活動を振り返り、地主の和田さんに報告し、来年度の計画を練っているところです。今年度の要望を反映しつつ、斬新な企画が提案出来るよう準備中です。

 決まった時点でまた報告いたしますので、来年度も、天空の里思い農場をよろしくお願いします。それではみなさん、良いお年を。

<葛山ハイキング>いもいの歴史、史跡を巡る旅

2015年10月18日 | 芋井地区の紹介
 ブログ担当のクロです。先日、芋井自治協議会さんからお誘いを受け、<葛山ハイキング>に行ってきました。

 川中島合戦でも有名な葛山城址の整備事業が去年から始まり、「城址までの遊歩道の整備などを行い、将来的にはイベントの開催など芋井地域の地域振興、観光振興」を10年かけて進めるんですね。



 そのプロジェクトの一環として行われてるハイキングは今年が2回目。一般公募を含めて21人が参加。マイクロバスで、整備されたばかりの登山口の駐車場まで登っていきます。

 ここから葛山城址まで30分ほどって話でしたか。運動不足のクロには結構きついです(苦笑)。



 途中に程よい大きさに育ったクリタケが見つかり、収穫。袋を持って来たり、皆さん準備がいいなぁ。時期的にも絶好だったそうです。

 空堀や、武田方に攻められ、落城の際、多くの女性が身を投げた崖と思しき場所を案内されたり、休憩をはさみながら、葛山城址はもうすぐという感じになってきました。



 山頂は公園になっていて、休憩所と看板がある以外は当時の面影はなにもないものの、武田側として対峙した旭山城跡や、長野市街地を一望出来ます。

 一休みして、頼朝山へ。反対側に降りていきますが、「毎年何人か転げ落ちる人がいるので気を付けて」なんてガイドさんに脅されます。



 「ちょっと、待って!それじゃハイキングじゃないよ」と突っ込みながら、縄に捕まりながら降りていきます。

 そこまで危ない場所じゃありませんが、足元に注意しないとケガをする可能性は十分。慎重に慎重に・・・足を挫いたりしたら大変ですからね。



 これからはずっと下り。ふくらはぎが痛くなり始め、足を引きずり、「あと少し」「あと少し」の声に騙されながら、我慢我慢。

 ようやく上り坂になり、しばらくして頼朝山山頂へ。名前のごとく源頼朝が寄進した山なんですが、読み方は《らいちょうざん》。土地の人は曲がりくねった登山道から<ゲジゲジ山>と呼んでいたとか。



 昔はここに八幡神社があり、春と秋に毎年お祭りがあり、露店でも出て賑わったそうですが、昭和13年に焼失。

 今は社地跡に礎石を残すのみ。ただ、ここからも長野市内の眺望は抜群です。



 さて、ハイキングもいよいよ終盤。山頂を降りて、しばらくすると人家が見えてきます。膝もガクガクしてきたのでホッとしました。

 ここが静松寺(じょうしょうじ)。千年以上の歴史を誇る由緒あるお寺。ここを見学させて貰います。



 お寺を開いた頼朝坊知盛法師が諸国行脚をしていた際に身につけていた三つ足の笈(おい)仏を見せていただきました。

 ここも頼朝ゆかりの場所らしく、善光寺を参詣した際に如来から、前世が頼朝坊知盛と告げられ、ここを礼拝したという話があったりします。



 この辺は、静松寺で頂いた本の受け売りですが、こんな近くに頼朝や川中島合戦にまつわるる史跡があるというのも実に興味深い話です。

 紅葉の季節に葛山のハイキングというのも、お勧め。歴史に触れ、運動不足の解消と一石二鳥ですよ。