サンタフェから帰ると、日本からけさ江ばあちゃんが着いていた。
斉藤けさ江書画集。
先日十八年振りに再会した市毛さんが写真を担当している。
アシスタントの古田さんが送ってくれた。
毎日を小さな畑で野菜作りに過ごすけさ江さんは七十歳になるまで読み書きが出来なかった。
息子さんに字を習って、家族のことを書くうちに、勧められて書を始める。
そして九十歳になって出来た書画集。
「とまと」「ぴーまん」「ぶろっこり」そして「たのしい」。
けさ江さんの書のモチーフもまた、彼女の畑から採れる。
飾りの無い力強い筆致は表現と言うよりも、ばあちゃんの命自体がそこにあるようだ。
古田さんから日本のお土産にと頂いた中野重治の本に、“素樸ということ”と題した小文があった。「だいたい僕は世のなかで素樸というものが一番いいものだと思っている。こいつは一番美しくて立派だ。こいつさえつかまえればと、そう僕は年中考えている。」
頭の中でぼんやりといろいろなことが手を取り合う。
友人のアーミッシュの子供たちが、仕事をいいつけられていやいや働いていたのが、大きくなるにつれて責任感を持つようになり、いつの間にか積極的に働くことを楽しむようになる様を眺めていて、「ああ、これこそが“美”というものか。」と感じ入ったたことがあった。
退屈で長い毎日を、いかに充実した美しいものとして生きることができるようになるか。僕たちは文明に奪われてしまったそれを取り戻さなければならない。
芸術の行き着く先は人間生活の基本である“労働”をどう解釈するかということに重なってくるような気がしていた。
そしていつも心にひっかかっていたことをまた思い巡る。
芸術家の、特に一流とされる人達は、幼少の頃から専門の道に通じて、その生涯を一つの事に捧げる人が多いが、しかし例えば労働を知らぬ芸術家が真に労働を描くことができるものだろうか。もちろん、五嶋みどりに畑仕事をするべきだなどと言うつもりは無いけど、しかしトルストイや宮沢賢治の試みがあり、日本のプロレタリア文学運動にもそうした議論があったらしい。そう言えばゴッホの絵も、彼が実際に労働をしたという話は聞かないにしても、そういった事の尊厳と共感に根ざしているようにも思える。
けさ江ばあちゃんの書の素朴を繰りながら、まるで子供が知らぬ間に母親に育まれて行くように、行くべき道を導かれているような気がした。
そんな素朴で何よりも強いと思える力強さに接する時、伝えたい人やモノへの深い愛情を感じ、今ココに居ることに対する感謝の気持ちで言葉を失って涙が出て来てしまう。
けさ江さん、日々の暮らしの中で家族への伝言やお孫さんへのメモなど、書いているんですが、それがまたいいんです。
もう鉛筆が折れてしまいそうな筆圧で、一文字一文字。
「なべにやさいのにたのがはえっていまし」とかの、たった二行くらいのメモに30分くらいかかっていそうな感じがしました。
そんなちょっとしたメモにかけられたすごいエネルギー。
深い愛情と、伝えたいという気持ちと、伝えることのできる喜びと。
息子さんにこのことを伝えます。
丁度来週、けさ江さんの書画展が表参道のギャラリーで開かれるので、きっと今頃大忙し。元気の素になると思います
ありがとうございました