子育て速報 不況で塾にも通わせられない!教育市場が急縮小 09 Oct 2010
いやまあ教育に携わる者として格差の問題は,ええ。
子育て速報 27の国立大が消える? 交付金減なら「知的基盤破壊」-概算要求に向け、協会試算 25 Jul 2010
なお参照:全国大学高専教職員組合『大学破壊』旬報社
子育て速報 「障害のあるウチの子を普通の学校に通わせたい」 両親の訴え実る 成田市、市立小中校で制度化 18 January 2011
これ:「脳性マヒで自力で水分補給が出来ない子供を普通学校に通わせたい親関連Wiki」の後日譚ということになるが―このWiki,全く更新されてないのね。
上掲『子育て速報』に採用されているレスに『世界子ども通信プラッサ』内,「子どもに関する事件【事例】」のアドレスがある。ここには”保護者によるいじめ”で”障害のある子が転校を強いられた”例が詳述される。
この「プラッサ」の運営側であるらしいTAKEDA氏の所感として
「いつまでも自分が強者の立場でいられるとは限らない。弱者に落とされれば、人間として認められない、親からも、周囲からも愛してもらえなくなるかもしれない。そんな不安のなかで暮らしていくのは辛くはないだろうか」
とあるが,まあ普通,学校って,いつまでも自分が強者の立場でいられるとは限らないことを学ぶ場でもあろう。試験とか体育祭とか文化祭とか諸種競技会とかな。ところがその場に”障害者”がいれば,常に確実に”自分以下”がいる(だって彼/彼女は日常的行為さえ,誰かの善意にすがらなければならないのだ―水を飲む,などから始まって!)―常に強者でありつづけることにもなる。まあそんな揚げ足取りも可能ではある。
「反対にもし、自分が失敗することがあっても、できないことがあっても、そのまま丸ごと周囲から受け入れてもらえる社会であったなら、ひとは常に明るい未来を目指して希望をもって生きていけるだろう」
してみると,”A君が(なんか知らんが法律とかで守られて)丸ごと周囲に受け入れてもらえるように,そのように私Bも勿論丸ごと周囲に受け入れてもらえなければならない。それが平等ってもんでしょう?”とまあ,子供としてはこう考えるかもしれない。でも自分は法律で守ってはもらえない。そこに不平等感をめっちゃ感じるとゆー可能性は大いにあろう。
私にしても,まあなんだ,実は今診断したら何かに引っ掛かる気はせんでもない。匿名で書いていても個性が駄々漏れするらしい―だから「匿名性が高くて属性を隠蔽できるネット上の掲示板ですら「こいつなんかヘン」だと気付かれちゃうような人間の居場所が閉鎖的で固定的な共同体にあるわけないじゃん」(おおやにき「幻想の共同体」2008年7月13日)とも思う。いや一応,そこそこ何とか,地元社会に同調するくらいはできますが,私は。
ともあれ,疑いなく変な人の側であろう私としては,社会の同調圧力はそこそこ緩い方がよろしいとは思うのだが,とはいえそっちのほーを追求しすぎると「「すごくヘン」な人も笑顔で受け入れろという逆方向の圧力を普通の人に強制する社会になってしまうのではないか。「壊れた方が勝ち」という社会もモラルハザード起きまくりで崩壊するんじゃないの」(おおやにき,同上)とも思うのである。
だってさ,個々人の手元の「優しさ」なる資源は,無尽蔵ではない―実現可能性としては疑いなくそう。なのに「その場にいる」って理由だけで,「すごくヘン」な人は,その資源を無限に収奪していくんだよ? しかも反対給付は予定されてないときた。いやこれ,このシステム,早晩崩壊するだろ。
いやまあ教育に携わる者として格差の問題は,ええ。
子育て速報 27の国立大が消える? 交付金減なら「知的基盤破壊」-概算要求に向け、協会試算 25 Jul 2010
なお参照:全国大学高専教職員組合『大学破壊』旬報社
子育て速報 「障害のあるウチの子を普通の学校に通わせたい」 両親の訴え実る 成田市、市立小中校で制度化 18 January 2011
これ:「脳性マヒで自力で水分補給が出来ない子供を普通学校に通わせたい親関連Wiki」の後日譚ということになるが―このWiki,全く更新されてないのね。
上掲『子育て速報』に採用されているレスに『世界子ども通信プラッサ』内,「子どもに関する事件【事例】」のアドレスがある。ここには”保護者によるいじめ”で”障害のある子が転校を強いられた”例が詳述される。
この「プラッサ」の運営側であるらしいTAKEDA氏の所感として
「いつまでも自分が強者の立場でいられるとは限らない。弱者に落とされれば、人間として認められない、親からも、周囲からも愛してもらえなくなるかもしれない。そんな不安のなかで暮らしていくのは辛くはないだろうか」
とあるが,まあ普通,学校って,いつまでも自分が強者の立場でいられるとは限らないことを学ぶ場でもあろう。試験とか体育祭とか文化祭とか諸種競技会とかな。ところがその場に”障害者”がいれば,常に確実に”自分以下”がいる(だって彼/彼女は日常的行為さえ,誰かの善意にすがらなければならないのだ―水を飲む,などから始まって!)―常に強者でありつづけることにもなる。まあそんな揚げ足取りも可能ではある。
「反対にもし、自分が失敗することがあっても、できないことがあっても、そのまま丸ごと周囲から受け入れてもらえる社会であったなら、ひとは常に明るい未来を目指して希望をもって生きていけるだろう」
してみると,”A君が(なんか知らんが法律とかで守られて)丸ごと周囲に受け入れてもらえるように,そのように私Bも勿論丸ごと周囲に受け入れてもらえなければならない。それが平等ってもんでしょう?”とまあ,子供としてはこう考えるかもしれない。でも自分は法律で守ってはもらえない。そこに不平等感をめっちゃ感じるとゆー可能性は大いにあろう。
私にしても,まあなんだ,実は今診断したら何かに引っ掛かる気はせんでもない。匿名で書いていても個性が駄々漏れするらしい―だから「匿名性が高くて属性を隠蔽できるネット上の掲示板ですら「こいつなんかヘン」だと気付かれちゃうような人間の居場所が閉鎖的で固定的な共同体にあるわけないじゃん」(おおやにき「幻想の共同体」2008年7月13日)とも思う。いや一応,そこそこ何とか,地元社会に同調するくらいはできますが,私は。
ともあれ,疑いなく変な人の側であろう私としては,社会の同調圧力はそこそこ緩い方がよろしいとは思うのだが,とはいえそっちのほーを追求しすぎると「「すごくヘン」な人も笑顔で受け入れろという逆方向の圧力を普通の人に強制する社会になってしまうのではないか。「壊れた方が勝ち」という社会もモラルハザード起きまくりで崩壊するんじゃないの」(おおやにき,同上)とも思うのである。
だってさ,個々人の手元の「優しさ」なる資源は,無尽蔵ではない―実現可能性としては疑いなくそう。なのに「その場にいる」って理由だけで,「すごくヘン」な人は,その資源を無限に収奪していくんだよ? しかも反対給付は予定されてないときた。いやこれ,このシステム,早晩崩壊するだろ。
『世の中には善意が足りないのだわ! そして善意を実現する知恵が足りないのだわ!』でしょう,やはり。
善意がそれなりに機能するのは,たとえばそこらをよたよた歩いてるおばーちゃんの荷物を持ってあげたりすることで実証されるわけではあります。『だからこの優しさを全世界に広げれば世界はもっとよくなるはずなのだわ!』でしょう。
で,『世界がこんななのは,悪意に満ちたひとたちの悪意に満ちた行動が世界に満ちているからなのだわ!』。そうして「善意にあふれた自分」を強者に位置づけ,善意を持てない,ないし悪意の人を弱者とし,これで無事に「善意の大事さに気付いている倫理的強者な自分が悪意の倫理的弱者を合理的に排除する」世界の完成です。
または『世界がこんななのは,世界に知恵のたりない人たちが満ちているからなのだわ!』。その知恵と言うのは,『いつまでも自分が強者の立場でいられるとは限らないと知れば優しさに気づくはずだわ! なんでこんな簡単なことに気付けないのかしら!』。そうして,「そんな大事なことを日常から気付き出す真の知恵を知る自分は,世間の似非知識(いやまあ例えばテストだとか何とか)を追求する似非知者=愚者とは質的に異なるのだ」という自己意識の完成。
個々の善意を社会的に有用な方向に組織化する方策を考える知恵がないあたりは不問に付される。これでお花畑完成ですよね。
最近の『ランドセルを贈る伊達直人』の件で気付くべきだと思うんですけどねえ。最初の1,2例は純粋に道徳的美談だけど,そのあとは…。チャーシューを贈ろうとした例とか,山下清のふりして金銭を贈ろうとした例とか。無事に目的地に届くかどうかは不明だ,など,すぐさま問題点にぶち当たる気がするんですが。
…宗教者と実務者との違い,という具合に納得することにしてます,私。
少なくとも日本ほど社会的インフラ(ソフト面を含む)が安定して運用されている国ではそうだろう。
…いや、ジンバブエみたいに凄まじいことになっているのにヒャッハー化していない国でこそそう感じられそうな気もする。
悪意が善意であるかのように巧妙に偽装されているのが先進工業国での問題である―と回答することになるんでしょうねえ。
そういう議論自体は,原則的には私も受け入れますけど…
…けど,たとえば『お年寄りには席を譲りましょう』なんて善意の規則には,実は背後に『老人と言うのは我々生産世代によって保護されねばならない存在である。汝ら老人,然様心得よ』というほとんど悪意じみた支配の欲望が隠れてもいるわけで(だから時々,席を譲られた年寄りが激怒する)。
「巧妙な隠蔽」論は慎重に展開すべきであるなあと思います,ええ。
ジンバブエ辺りについては―悪意にせよ善意にせよ,働かすための資源がない状況でしょうかねー…。
善意と知恵があれば世界は再構築できるし、悪意と知恵があれば世界のすべてを偽装できる、と。
そう考えられるのはある意味尊いことではあるが、やはり傲慢と評すべきなんだろうなあ。
…それが前提になっている雰囲気ですよね。
けれど彼らの圧倒的な無力という現実と,その前提とは,どうも符合しない感じがぬぐえません。
だって,”悪意の者たちの欺瞞”をさくさく摘発できるほどフラワーさんたちは賢明である(ないしは,それほどまでに悪意の者たちは愚劣である)にも関わらず,フラワーさんたちは,この現実を打破する試みを成功させてこなかった。
してみると,可能性としては大雑把にみっつほど考えてみることができるか。フラワーさんがたは,善意の人々であるが,自分の知恵の不足さえ気付かないほど知恵に乏しい。次には,フラワーさんたちは実は悪意の存在であると仮定するもの。三つ目には,フラワーさんたち自身は善意の存在であれ悪意の存在であれ,何れにしても何か他の(悪意の)存在の事実上の手駒である(そしてそうであることを本人は気付かない)。
…あれ,だめだ,もう眠くてすごく悲観的なことを書いている気が。