SABUROU NIKKI

大阪のとあるパイロット訓練所での訓練日記です

植松努専務のエントリー 自信について

2012年09月15日 12時34分56秒 | Weblog
児童虐待をなくすため、宇宙開発に取り組む町工場植松電機。
植松努専務のエントリーです。
今回のテーマは自信です。
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  • 自信は、人が生きて行くために、すごく必要です。
    自信が無いと、不安です。

    その不安の解消のために、安易にしてしまうのは、
    お金で自信を買う、ということです。
    ...
    強力な車に乗ったり、高価なものを身につけたり、
    流行の先端を追ったり、
    いずれにしても、「他者へのじまん」「他者との比較」が生じます
    でも、そんなことしても、自信は得られません。
    むしろ、お金がなくなってさらに不安になるか、
    他人からどう見られるかが心配になったり、
    そして、それを正当化するために、
    こんどは、そう言うことにお金を使う人を見下して、
    バカにするようになったりします。

    自信をお金で買う、の次のステップは、
    自分以下を作る、です。

    自分と違う他人を見下し、バカにし、評論します。
    自分の知らないことは、「知る必要も無いくだらないこと」
    自分のやったことがないことは、「やる必要も無い無駄なこと」
    と、否定します。
    だれかが頑張っていても、他のもっと優れたものと比較して、
    くだらないとか、レベルが低いとか、評論します。

    でも、こんなことしても、自信は得られません。
    またしても、自分が評論されることを恐れて、
    自分の何も表現できなくなります。
    こういう人は、自分のことでは猫のように大人しいのに、
    自分の仲間や友人にふりかかる問題に関しては、
    ライオンのように挑みかかります。
    大義が必要です。自分の意志ではなく、世間の常識と言う
    味方を身につけたとき、一般論を主張することが出来るから、
    居丈高に攻撃します。

    自信を得るための最後の方法は、
    他人の努力をやめさせるです。
    他の人が頑張るのが怖いのです。
    だから、先述の「自分以下を作る」と重複する部分もありますが、他の人がやっていることを、見下し、否定します。

    他の人が何かを表現したり、何かを発表したり、したとき、
    「意味なくね?」「なにそれじまん?」
    「余裕あるやつはいいよねえ」と、陰口を叩くだけではすまず、
    同意者があつまって強くなった気がしたら、
    「いい気になるなよ」と、直接的に指導しはじめます。
    「そこまでする必要あるの?」も常套句です。
    誰かが頑張る精一杯のことを、「そんなこと1人でやっても、世界は変わらないよ。」と、やけにマクロな視点で否定することもあります。(これは民主主義的な考え方ではありません。世界があって個人がいるのではなく、個人のあつまりが世界です。)
    他人の夢を「夢が大きいのもいいんだけどさ、現実を見なさい。」と言ってしまうケースもあります。
    現実は大事です。足場です。でもそれは、未来ではありません。
    現実を見ろ、という言葉は、未来に成長する可能性を否定することになってしまうことが多いです。
    現実を見た上で、「だったらこうしてみたら?」が必要なのですが、「現実を見ろ!」だけで終わってしまう人が多いです。
    しかもその現実とは、自分が経験した過去に過ぎないのに。

    スタート地点は、自信を失う。です。

    自信を失う原因は、他者に上記のようにされることも
    大きな要因です。
    すなわち、自信剥奪は、連鎖するということです。

    また、もうひとつの要因は、謙遜です。
    他人に対しても謙遜は、日本特有な感じもしますが、
    まあ、そんなに悪いこととは思いません。
    でも、当たり障り無い関係においては、まあいいですが、
    仕事などで力をあわせる関係においては、謙遜されると、
    信頼できなくなることがあります。
    だって、本当に能力が低いのならば、関わり方を考えないと
    いけません。
    会社の入社面接で謙遜しまくったらどうなるか考えてみたら
    謙遜のマイナス面は明確になります。

    謙遜の中で、特に気をつけなければいけないのは、
    自分対する謙遜です。これは、自信を殺します。
    自分一人で物事を考えるとき、なんで自分に謙遜するの?
    自分、なにさま?
    なんで、そんなに他人行儀に自分と距離をおくの?
    自分だよ。何でも話せる最良の仲間です。
    そんな自分に、遠慮したり、謙遜したりしてはいけません。

    自信があると、受容できます。
    本当の自信があると、じまんなんかしません。
    じまんする人は、自信がなくて不安な人です。
    自信があれば、決めつけないです。
    自信があれば、一般論を振りかざしません。
    自信があれば、自分を守るために、まわりを攻撃しないですむのです。

    そして、自信とは、自分を信じる、ということです。
    自分1人でできることです。

    まだまだ足りない自分を好きになること。
    不完全な自分を愛すること。
    人からどう思われる、とか、他人と比べて自分なんて・・・
    じゃなくて、自分を愛すること。

    愛って、本当は評価とか成績とか関係ないです。
    例えば、異性を愛するとき、
    もしも見た目や、スタイルや、肌のつやなどで
    愛を決めてしまえば、それは、老いとともにさめる愛です。
    そんな愛は、終生の愛ではないですね。
    我が子を愛するとき、成績で愛したら大変です。
    だって、社会人になったら、成績なんてだれもつけてくれない。
    自分の子どもを愛するための基準を失うことになります。

    自分を愛するために、もしかしたら有効なのは、
    成績などが関係のない頃の、他者と比べられなかった頃の、
    自分の物心ついたくらいの年齢の時代の写真を見るってことかもしれません。
    覚えていることもあるでしょう。
    その頃に読んだ絵本や、好きだった音楽や映像なども
    なにかを思い出させてくれると思います。

    無条件な愛の中で生きていた記憶が、
    もしかしたら自分を愛するきっかけになるかもしれません。

    だから、子ども達のことは、無条件に愛してあげてほしいです。
    よくしようと思って、子どもを比較し、否定する人は多いです。
    重要なのは「よく」の基準を自分で持つということです。
    他者評価を鵜呑みにしないで、自分だったらどういう状態がいいのかを考えるのです。
    現状fが、理想とする状態に届かないのは当たり前です。
    届いていないから、理想とする状態があります。
    その届いていない現状を「だめ」と否定してはいけません。
    だったらこうしてみたら?が大事です。

    だから現在の、リトライのチャンスが少ない学校のテストというう方法は、子ども達が自分を愛せなくなる要因だと思います。
    否が応でも、ところてんのように押し出される、
    量産型教育システム。義務教育。
    これは、明治期に一般人を短期間で軍人にするための教練由来の教育システムだから、しょうがないのかもしれません。
    でも、そのシステムは、現在の日本にはあっていない気がします。

    6年+3年で学校を卒業する。が目的ではなく、
    日本人として基本的に必要な能力を身につける、が義務教育の目的のはず。
    だったら、十分な日数登校していなくても卒業証書がもらえちゃう、なんてのは、おかしいですよね。

    できるようになるまで、リトライできるチャンスと。
    時間がかかったってバカにされない社会の常識が、
    いまの日本の教育に必要な気がします。

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