かわずの呟き

ヒキガエルになるかアマガエルなるか、それは定かでないが、日々思いついたことを、書きつけてみようと思う

地名に残る大昔の様子

2016-04-03 | 気ままなる日々の記録

   田圃の生い立ちや灌漑用水[五条川]のお話の続きで奈良時代頃までさかのぼって江南市北部を見てみます《以下の話しは江南市市史に出ています》

 私の自宅の住所は後飛保(うしろひぼ)ですが、すぐ南に前飛保もあります。

 隣に村久野と云うところもありまして、この村久野が一番先に人々が住み着き村(大きな集落)が出来ていました。あとは、堤防のない暴れ川としての木曽川の流域でいつもは、葦が生い茂りタヌキやキツネや野兎が駆け回っていて、ところどころに大きな水たまり《池》があるような河川敷でした。

 日本の歴史資料に最初に登場するのは「村久野」です。

 奈良の東大寺が造られるとき「村久野」が米を寄付したということが東大寺の記録にのこっているそうです。どのようにして米を奈良まで運びそれを東大寺建立への寄付としたか興味がありますが、天皇が国分寺の総本山として大仏殿の建立を思い立ち、全国に寄付を呼びかけたのではないかとおもいます。

 貨幣の流通が不十分だったなかで、各地から馬の背に米袋を乗せ中央に御幣を立てそこに「大仏殿建立寄付」とかなんとか書いて、その馬を奈良まで引いて行っただろうと話されていたことを思い出します。また「保」と云うのは中国では小さな集落を意味するそうで、

 後ろ飛び保、前飛び保、が語源でそれは村久野から見てのことだそうです。このようにして、地名から当時の人々の暮らしや集落の存在が良くわかります。

 また、奈良時代には日本では鉄で作った農機具が存在したと考えられています。

 天皇の全国統一と鉄の普及は密接な関係があるそうです。

 このようにして、奈良・飛鳥・平安の頃の農村《東北地方を除く)の様子はおおよそ歴史的に推定できています。以上S先輩の農村の生い立ちに関するコメントにお答えして。(T)

 


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