かわずの呟き

ヒキガエルになるかアマガエルなるか、それは定かでないが、日々思いついたことを、書きつけてみようと思う

田畑ができるまで。

2016-04-01 | 気ままなる日々の記録

S先輩と雑談する中で、S先輩は舞鶴のご出身であるため、田畑がどのようにできて来たかご存じないように思えてきたので、

 僕が子どもの頃見聞きしたことを交えて江南市北部の田畑の生い立ちを書いてみようと思う。

田畑の生みの親は勿論河川であり、愛知県北部の場合は1級河川の木曽川である。

 この川の生まれ故郷は最近噴火して有名になった木曾の御嶽山であり

 この山一帯に降った雨や雪解け水を集めて流れる川が木曽川である。

 何万年も木曽川が流れて運んだ土や火山灰が伊勢湾を埋め尽くし濃尾平野を造ったことがわかっている。

 この木曽川はよく氾濫する「暴れ川」です。徳川時代御三家筆頭の尾張藩は莫大な予算を投じてお囲い堤を造営して田畑を木曽川の氾濫から守ろうとしました。しかし、数年に一度はこの堤も壊される大洪水が起こり大量の土砂が江南市北部一帯に流れ込みました。

 この地方の農家は自分の家の周りに堤防を築きその土盛りが壊れないように其処へ竹を植えました。

 僕が子どもの頃には近所の家の周りに土盛りの跡や、竹藪の跡が残っていました。竹は百姓にとって大切な建築用材で、自宅の修理や鶏小屋を作るときにも沢山の竹を使ったものです。

ところで、木曾川の氾濫で泥水が溜まりそこの水が引いたところは田圃になり、沢山の土が流れ込んだところは畑になります。

土石が流れ込み畑にも田圃にもならないところは林や竹藪にし、それでも余った所は住宅地になりました。マア地震につよいという意味もあったかもしれません。

 だから、確かに農民は畑や田圃から石を拾い出し石捨て場に捨てましたが、石を拾い出して田畑を造ったわけではありません。

 江戸時代田畑には等級が付けられ1等地の田畑には重い税が掛けられました。収穫量が大きく異なるからです。尾張北部は1等地が多く決して飢饉はおきませんでした。(T)

 


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