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東日本で豪雨、磐越東線列車が激流に転落等各地で被害――昭和10年

2006-05-13 01:59:32 | Weblog
磐越東線は福島県を東西に走り、郡山駅と平駅(現いわき駅)を結ぶ路線である。一九三五年(昭和十年)十月二十七日、磐越東線平駅行の旅客・貨物混合列車が、同線川前・小川郷間で脱線、転覆した。原因は、折からの雷雨のため線路の土砂が一二〇メートルにわたり流出したことによる。先頭の機関車、郵便車、客車二両(二・三等客車と三等客車)の計四両は、まず一丈五尺(約三・五メートル)下の県道に墜落、さらに下にある激流の夏井川に突っ込んだ。客車の乗客は、二両で約七十名だった。死者は十名。三十名が重傷、軽傷者は二十名であった。奇跡的に死を免れた機関手と二人の機関助手(ともに重症)、軽傷の車掌(最後部車両に搭乗)が、近くの小野新町駅に辿りつき事故発生を報じた。事故発生は午後六時頃。午後九時になっても豪雨はやまず、救援作業は困難を極めた。
 転落した機関車は夏井川の奔流の中に車体を埋め、半分は土砂に埋まった状態。郵便車と二両の客車は木端微塵(こっぱみじん)となり、これに鮮血が生々しく染まるという惨状である。一方、転落を免れた客車一両は、辛うじて線路に引っかかり危うく転落しそうな状況だった。
 この時代、既に航空機による取材が行われていた。事故の翌日の十月二十八日早朝、羽田空港を出発した小型機プスモスが事故現場に向かった。現地では、八〇〇メートルの谷間から吹き上げる悪気流、やエアポケットに翻弄されながら取材をし、写真撮影を行った。その記事と写真は、十月二十九日付東京朝日新聞の紙面を飾った。「機上から一点凝視」、「死魔躍る山峡」、「北側の崖が無残に崩れ、支離滅裂の鉄路」という見出しとともに事故の惨状を読者に伝えている。

 一方、十月二十七日の“帝都”は、水漬けの状態。市内各所で異変が起きた。関東大震災からは免れた日比谷の帝国ホテルは水に弱い。豪雨のため地下に濁流が流れ込み、ボイラー二基が水没する。職員がバケツで水を掻い出す状態。消防署からポンプ車が駆けつけ排水作業を行ったがかなわず、停電のため蝋燭(ろうそく)で明かりを採る有様だった。地下鉄には大量の水が流れ込み、朝から運転はストップした。必死の作業で、神田・新橋間は午後三時四十五分にようやく開通したが、浅草・上野間は翌朝の始発までストップした。同じ日の夕方、麹町区丸ノ内の日本興行銀行では、同行地下の電気室で大爆音が発生した。次いで黒煙が噴き出す。電気室には三千三百ボルトの電流が流れている。水をかけると危険なので、防火用の砂をかけるなどして三十分後にようやく鎮火した。原因はオイルスイッチの絶縁不良から漏電発火し、その火が配電盤の土台の板と椅子に燃え移ったもの。日本興業銀行から電力供給を受けていたのが同じく丸ノ内にある工業倶楽部。その夜、住友合資会社の晩餐会に集まっていた“紳士たち”は、暗闇のなかで蝋燭を片手に「もたもたやっていたが、とうとうあきらめて、全部逃げ出してしまった」と戯画調の報道がなされていた(十月二十八日付東京朝日新聞)。帝都の中心街丸ノ内、日比谷あたりは混乱の極みだった。東京市では前月も水難に会っている。すなわち、九月二十四日に関東地方は暴風雨に襲われた。雨量は百二十五ミリ。特に被害が大きかった群馬県での死者は一九〇人に達した。