近藤芳美
歌人で、現代歌人協会理事長(一九七七年就任)の近藤芳美(こんどう・よしみ)。本名はよしみ芽美、一九一三年(大正二年)に日本占領下の朝鮮の港町馬山生まれた。父は朝鮮に本店を置く慶尚農工銀行に勤務し、任地を転々としていた。広島県の山間部にある世羅郡世羅町の農家の次男に生まれた父は、一九一〇年(明治四十三年)に神戸高等商業学校(現神戸大学)を出て、朝鮮半島へ赴任した。それは「生活の理由だけであったのだろう」と、息子である近藤芳美は推定している(『歌と生 歌と旅』一九八七年・六法出版社)。馬山で生まれた後、父の転勤で各地を転々とし、小学校入学の翌年に再び馬山に住んだ。一九二五年、小学校五年のとき、母の実家がある広島市の小学校に転校、祖母とともに暮らす。祖母は、旧広島藩士の妻だったが零落して寡婦となり産婆をして生計をたてていた。広島にきた翌々年、新設されたばかりの広島第二中学(現**高校)に入学する。この中学で、国学院を卒業したばかりの国語の教師稲毛先生とであう。稲毛先生の影響で短歌を作るようになった(「ひとりの国語教師」、『歌と生 歌と旅』所収)。稲毛先生は、国学院在学中に釈超空(折口信夫)の教えを受けていた。近藤芳美は一九三一年、旧制広島高校(現広島大学)理科甲類に入学した。漠然と、天文学か生物学をやりたかったからだ。入学の年、同校短歌会に所属、更に同年に「アララギ」に入会する。広島県出身の歌人中村憲吉(「アララギ」初期同人)の訪問したこともあった(一九三二年)。このとき中村憲吉は広島郊外五日市で療養中。憲吉没後、近藤芳美は土屋文明に師事、同門の俊秀たちと競う。一九三四年、広島高校を卒業するが受験に失敗。翌年、東京工大に進学する。中学時代から大学卒業まで、休暇の度に下関港から船に乗って両親の住む朝鮮に帰るという生活だった。
落ちて来し羽虫をつぶせる製図紙のよごれを麺*(漢字でパン)で拭く明くる朝(あした)に
この作品は東京工大建築科の時代のもの。一九三六年一月の「アララギ」に掲載され、更に戦後になって刊行された第一歌集『早春歌』(一九四八年)に入っている。一九三八年(昭和十三年)に東京工大建築学科を卒業して、清水組に就職した。この会社は一九四八年(昭和二十三年)に清水建設と社名変更し現在に至っている。江戸時代の文化元年(一八〇四年)、大工清水喜助(初代)が神田鍛冶町で創業。これが清水建設のルーツだ。清水建設は、二〇〇三年には創業二〇〇年史を出したという長い歴史と伝統を誇る会社である。清水建設に職を得た翌々年、近藤芳美は中村年子と結婚する。中村年子とは大学卒業の前年、両親のもとへ帰省中に金剛山歌会に出席してしりあう。このとき、金剛山歌会では東京から土屋文明を招いて会をひらいたのだった。「長い苦しい恋愛を経て結婚」(「手旗」、『歌と生 歌と旅』所収)したのが一九四〇年七月。同じ年の九月には召集令状を受け船舶工兵として華中の前線に発った。
次の文章は『歌い来しかた』(一九八六年・岩波新書)からの引用。建設会社の設計技師から戦争に駆り出され、病をえて帰り再び職場に復帰した当時の体験が描かれている。
○
太平洋戦争開戦の前後、一病兵として大陸前線から生きて還り得たわたしは、しばらく、京城-今のソウルの父母の家で病床についた後、翌年、四三年の秋に東京に出、当時郊外であった西武鉄道沿線の東伏見でガレージを改造した小さな家を借りて住み、そこから都心の、京橋にある一建設会社に通って半ば病身をかばいながら再び設計技師として働いていた。
(中略)
わたしの職場は都心のビルの、六階の製図室であり、その窓べに図版をおき、毎日与えられた仕事の設計図面を引いた。当時、戦局の急転につれ生産を急がれていた軍用機工場の増設の図面であったが、現実には、にわかに欠乏する資材に実現も危ぶまれる情況であった。
○
終戦の年の秋から翌年にかけて、近藤芳美は羽田の米軍キャンプの建設のために働いた。設計図を引くのが仕事だった。
ストーブの煙は部屋に吹き入りてdraftsmanとよばるる夕べ
灰皿に残る彼等の吸殻を三人は吸ふ唯だまりつつ
これらの作品はアメリカ軍兵士らと一緒に働いたときのもの。米兵からDraftsman(製図手)と呼ばれ、働く日々。彼等(米兵)が部屋を去ることがあると、日本人たちはいっせいに彼等が残した灰皿のなかの吸殻を奪い合う。今日から見れば情けない風景である。しかし、終戦直後は全くありふれたものであった。仕事場には米兵が南方の島で拾ってきた駄犬を飼っている。その犬の名はトージョー。もちろん、東条秀樹からとったネーミングだ。米兵たちはトージョーを足蹴にする。煙草の火を犬の鼻面に押し付け、悲鳴を聞いて故国へ帰りたい気を紛らせる。そんな情景も活写されている。現在では殆ど「死語」といってよい「モク拾い」という言葉があったことを思い出す。『歌い来しかた』は、終戦直後から六〇年安保時代の回想録である。米兵とパンパンガール、PX、闇市、二・一スト、「鉄のカーテン」、カストリ、民主主義文学といったキーワード(二一世紀初頭の今日、注釈が必要かもしれないが省略する)が飛び交った時代を背景に、サラリーマンとして、そして歌人として生きてきた近藤芳美の同時代史である。仕事が終わってから、宮冬二、香川進、前田透らの歌人との交流。こちらは日本短歌史の興味深い史料となろう。
清水建設)には一九七三年(昭和四十八年)まで勤務した。この年、神奈川大学工学部教授となり一九八四年に退職している。
大学卒業後勤務した清水組(後の
同じ年、第二歌集『埃吹く街』も刊行された。『埃吹く街』では、戦後の荒廃した風俗を凝視するとともに、歴史的現実と鋭く対峙する知識人のありかたを問うた歌がめだつ。「世をあげし思想の中にまもり来て今こそ戦争を憎む心よ」は、いかにも「時代」を感じさせる。評論活動にも積極的で、一九五二年に『新しき短歌の規定』を刊行。一九四六年末、歌壇の同世代者と新歌人集団を結成し、そのリーダーシップをとる。一九五一年に『アララギ』の新人とともに『未来』を創刊し、責任者となる。同年の第4歌集『歴史』は、朝鮮戦争を迎えた危機意識をあらわした問題作。『黒豹』(68年)で迢空賞。この頃から内的な苦悶が調べにあらわれ、きっくつ佶屈した文体をともなうようになる。55年4月より宮柊ニ、五島美代子とともに『朝日新聞』の歌壇選者に就任、『無名者の歌』(74年)を執筆する契機となる。現代歌人協会理事長。『定本近藤芳美歌集』(78年、短歌新聞社)がある。
歌人で、現代歌人協会理事長(一九七七年就任)の近藤芳美(こんどう・よしみ)。本名はよしみ芽美、一九一三年(大正二年)に日本占領下の朝鮮の港町馬山生まれた。父は朝鮮に本店を置く慶尚農工銀行に勤務し、任地を転々としていた。広島県の山間部にある世羅郡世羅町の農家の次男に生まれた父は、一九一〇年(明治四十三年)に神戸高等商業学校(現神戸大学)を出て、朝鮮半島へ赴任した。それは「生活の理由だけであったのだろう」と、息子である近藤芳美は推定している(『歌と生 歌と旅』一九八七年・六法出版社)。馬山で生まれた後、父の転勤で各地を転々とし、小学校入学の翌年に再び馬山に住んだ。一九二五年、小学校五年のとき、母の実家がある広島市の小学校に転校、祖母とともに暮らす。祖母は、旧広島藩士の妻だったが零落して寡婦となり産婆をして生計をたてていた。広島にきた翌々年、新設されたばかりの広島第二中学(現**高校)に入学する。この中学で、国学院を卒業したばかりの国語の教師稲毛先生とであう。稲毛先生の影響で短歌を作るようになった(「ひとりの国語教師」、『歌と生 歌と旅』所収)。稲毛先生は、国学院在学中に釈超空(折口信夫)の教えを受けていた。近藤芳美は一九三一年、旧制広島高校(現広島大学)理科甲類に入学した。漠然と、天文学か生物学をやりたかったからだ。入学の年、同校短歌会に所属、更に同年に「アララギ」に入会する。広島県出身の歌人中村憲吉(「アララギ」初期同人)の訪問したこともあった(一九三二年)。このとき中村憲吉は広島郊外五日市で療養中。憲吉没後、近藤芳美は土屋文明に師事、同門の俊秀たちと競う。一九三四年、広島高校を卒業するが受験に失敗。翌年、東京工大に進学する。中学時代から大学卒業まで、休暇の度に下関港から船に乗って両親の住む朝鮮に帰るという生活だった。
落ちて来し羽虫をつぶせる製図紙のよごれを麺*(漢字でパン)で拭く明くる朝(あした)に
この作品は東京工大建築科の時代のもの。一九三六年一月の「アララギ」に掲載され、更に戦後になって刊行された第一歌集『早春歌』(一九四八年)に入っている。一九三八年(昭和十三年)に東京工大建築学科を卒業して、清水組に就職した。この会社は一九四八年(昭和二十三年)に清水建設と社名変更し現在に至っている。江戸時代の文化元年(一八〇四年)、大工清水喜助(初代)が神田鍛冶町で創業。これが清水建設のルーツだ。清水建設は、二〇〇三年には創業二〇〇年史を出したという長い歴史と伝統を誇る会社である。清水建設に職を得た翌々年、近藤芳美は中村年子と結婚する。中村年子とは大学卒業の前年、両親のもとへ帰省中に金剛山歌会に出席してしりあう。このとき、金剛山歌会では東京から土屋文明を招いて会をひらいたのだった。「長い苦しい恋愛を経て結婚」(「手旗」、『歌と生 歌と旅』所収)したのが一九四〇年七月。同じ年の九月には召集令状を受け船舶工兵として華中の前線に発った。
次の文章は『歌い来しかた』(一九八六年・岩波新書)からの引用。建設会社の設計技師から戦争に駆り出され、病をえて帰り再び職場に復帰した当時の体験が描かれている。
○
太平洋戦争開戦の前後、一病兵として大陸前線から生きて還り得たわたしは、しばらく、京城-今のソウルの父母の家で病床についた後、翌年、四三年の秋に東京に出、当時郊外であった西武鉄道沿線の東伏見でガレージを改造した小さな家を借りて住み、そこから都心の、京橋にある一建設会社に通って半ば病身をかばいながら再び設計技師として働いていた。
(中略)
わたしの職場は都心のビルの、六階の製図室であり、その窓べに図版をおき、毎日与えられた仕事の設計図面を引いた。当時、戦局の急転につれ生産を急がれていた軍用機工場の増設の図面であったが、現実には、にわかに欠乏する資材に実現も危ぶまれる情況であった。
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終戦の年の秋から翌年にかけて、近藤芳美は羽田の米軍キャンプの建設のために働いた。設計図を引くのが仕事だった。
ストーブの煙は部屋に吹き入りてdraftsmanとよばるる夕べ
灰皿に残る彼等の吸殻を三人は吸ふ唯だまりつつ
これらの作品はアメリカ軍兵士らと一緒に働いたときのもの。米兵からDraftsman(製図手)と呼ばれ、働く日々。彼等(米兵)が部屋を去ることがあると、日本人たちはいっせいに彼等が残した灰皿のなかの吸殻を奪い合う。今日から見れば情けない風景である。しかし、終戦直後は全くありふれたものであった。仕事場には米兵が南方の島で拾ってきた駄犬を飼っている。その犬の名はトージョー。もちろん、東条秀樹からとったネーミングだ。米兵たちはトージョーを足蹴にする。煙草の火を犬の鼻面に押し付け、悲鳴を聞いて故国へ帰りたい気を紛らせる。そんな情景も活写されている。現在では殆ど「死語」といってよい「モク拾い」という言葉があったことを思い出す。『歌い来しかた』は、終戦直後から六〇年安保時代の回想録である。米兵とパンパンガール、PX、闇市、二・一スト、「鉄のカーテン」、カストリ、民主主義文学といったキーワード(二一世紀初頭の今日、注釈が必要かもしれないが省略する)が飛び交った時代を背景に、サラリーマンとして、そして歌人として生きてきた近藤芳美の同時代史である。仕事が終わってから、宮冬二、香川進、前田透らの歌人との交流。こちらは日本短歌史の興味深い史料となろう。
清水建設)には一九七三年(昭和四十八年)まで勤務した。この年、神奈川大学工学部教授となり一九八四年に退職している。
大学卒業後勤務した清水組(後の
同じ年、第二歌集『埃吹く街』も刊行された。『埃吹く街』では、戦後の荒廃した風俗を凝視するとともに、歴史的現実と鋭く対峙する知識人のありかたを問うた歌がめだつ。「世をあげし思想の中にまもり来て今こそ戦争を憎む心よ」は、いかにも「時代」を感じさせる。評論活動にも積極的で、一九五二年に『新しき短歌の規定』を刊行。一九四六年末、歌壇の同世代者と新歌人集団を結成し、そのリーダーシップをとる。一九五一年に『アララギ』の新人とともに『未来』を創刊し、責任者となる。同年の第4歌集『歴史』は、朝鮮戦争を迎えた危機意識をあらわした問題作。『黒豹』(68年)で迢空賞。この頃から内的な苦悶が調べにあらわれ、きっくつ佶屈した文体をともなうようになる。55年4月より宮柊ニ、五島美代子とともに『朝日新聞』の歌壇選者に就任、『無名者の歌』(74年)を執筆する契機となる。現代歌人協会理事長。『定本近藤芳美歌集』(78年、短歌新聞社)がある。