百醜千拙草

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平気でうそをつく人

2011-06-21 | Weblog
総理の座にしがみつき、我欲のためにウソをつき、仲間や国民をペテンにかけ、詐欺を働く卑劣漢、史上最低の無能総理で、その異常さが数多の人々、メディアから指摘され続けてなお、『決然と生きる』(どんなに卑怯なことをして他人や国民を傷つけてでも、一秒でも長く総理の座に居続けるという固い決意を持つ、という意味でしょうか)などと平気で言うドアホが世の中におるわけです。この異常な総理の椅子への執着心をみて、数多くの人が、この余りのあさましさにあきれ果てて、もう「感動の閾」だと言い出しました。この異常な生き物には人間としての「尊厳」というものがもはや無い、つまり、人間ではない、そう理解するしかないのではないか、と私は思い始めました。人々は、人間ではなくても外見は人間に見えるので勝手に処分することができないという困難に直面しているのです。「辞める」と言っておきながら、続投に意欲を示し、「内閣改造」まで考えているという話も聞きます。前代未聞の異常行動です。辞めると言った人間が内閣改造を口にする、そんなあり得ないことをやろうとする意図は自己保身しかありません。つまり、党執行部と閣僚でさえ、空きカンを辞めさせようと動きはじめたので、そういう人間を排除するためにやろうとしているのかも知れません。内閣改造を進言したのは亀井氏という話です。私はどうも寝技師と呼ばれる亀井氏の意図が読めませんが、何か深い思惑があるのか、あるいは弱小政党ゆえの単なる生き残り策なのでしょうか。

ともかく、空きカンのようにここまで汚く醜い奴は見た事がありません。私は人間ができておりませんので、この空きカンのように我執をむき出して堪え難い異常さをさらしつづける人間には、ただただおぞましい嫌悪を覚えるばかりで、「感動する」などと言えるほどの包容力はとてもありません。
 しかし、最近、下のような本があることを知りました。要は、空きカンのような邪悪な人間は世の中に少なからず潜んでいるということで、この手の異常な人間は御し難いということのようです。

平気でうそをつく人たち―虚偽と邪悪の心理学 [単行本]
M.スコット ペック (著), M.Scott Peck (原著), 森 英明 (翻訳)

出版社/著者からの内容紹介
自分の非を絶対に認めず、自己正当化のためにうそをついて周囲を傷つける“邪悪な人”の心理とは? 個人から集団まで、人間の悪の本質に迫るスリリングな書!

私も、二年程前から、平気でウソをついて他人を陥れるキチガイのような隣人と関るハメになり、随分ひどいめにあいました。下にもある通り、被害を避けるには、この手の人格障害者をを見分け、かかわり合いにならないようにするぐらいしか有効な手はないようです。

以下、アマゾンのカスタマーレビューから抜き書き:

著者は、邪悪性には、根源的に何か理解不能なものがあるのではないか、と述べ、そして邪悪なものに出会ったときにとるべき 最良の道は、それを避けることである、としている。

「悪というものは、自分自身の罪の意識を拒否することから生じるもの」である。善は自分自身、そして他者に対して、「慎重な配慮」をもって接することから生じるものである。

「邪悪な人間」が、どのような分類に属するのか、精神病理学的障害として分類を試みた場合には「人格障害」というカテゴリーの中のサブカテゴリーにある「自己愛的(ナルシシズム的)人格障害」のひとつの変種であると思われる。

「邪悪な人間」になる原因は良心の欠如ではないと思われ、精神病質者または社会病質者と呼ばれる人たち(要はサイコパスのこと)とは全く異なる。別の書籍でサンディ・ホチキス著「結局、自分のことしか考えられない人たち」に書かれている「自己愛人間」も充分に危険な人間であり、有効な対策が「逃げるしかない」

第5章からは、集団の悪、国家の悪について論が及ぶ。主にベトナム戦争で戦地に赴いた兵士たち、アメリカの政治家達のことが書かれている。ナルシシズムと怠慢、責任転嫁、それが集団で行われることの恐ろしさ。集団の悪、国家の悪の暴走を防ぐため、無力な私たちにできること。結論は極めて抽象的かつ宗教的である。しかし、国は国民で構成されるものである。私たちひとりひとりの心のもちようから始めるしかないではないか。

そのような人たちからは離れるしかない。

邪悪な人に対して「嫌悪感」を抱く事は、人間の自然な感情であり、それが他人に対する判断の根拠で、とても大事な物だという所に納得しました。この認識は、偽善的な判断をシャットアウトし、邪悪な人(詐欺師も含む)を退けるのに効果的です。

厳しいようだけど、現実問題として、《悪人》は確かに存在します。そして、まずたいてい《善人》が、その犠牲になります。やはり、《悪人》から自分を守るための、正統的な《スキル》が必要なのだと思います。


私は、以前は、「善悪」というものは、相対的なものであって、それを判断する主体に依存していると思っておりましたが、最近は、「絶対的な悪」というものが存在するのではないか、と思い出しています。いずれにせよ、残念ながら、唯一有効な手は、危ない人間には近寄らない、なるべく関わらないということぐらいしかありません。
 しかるに、その危ない人間が、総理という椅子にしがみついて、あの手、この手で、詐欺を働き、人々をおとしいれ続けているのだとしたら、どうすればよいのでしょうか。そういう人間といくらかかわり合いになりたくなくても、事実、その邪悪な人間が最高権力のポジションにいて、国民の生活に悪影響を及ぼし続けているというこの状況を如何に脱すればよいのでしょうか。
 これは、福島第一原発の状況と似ています。放射能で極度に汚染されていて、人々はそこには近寄らないのがベストの選択だと知っているのですが、しかし、この状況を放置すれば、被害はますますひどくなって、結局、近寄らなくても被害は及んでくるというジレンマです。危険を押してでも放射性物質を管理下におかなければ、ジリ貧です。ならば、空きカンに対しても同様でしょう。害虫には誰も近寄りたくない、しかし、放置すれば状況はますます悪くなる。危険を侵してでも何とか、害虫を退治することが必要です。

ところで、「反戦な家づくり」(http://sensouhantai.blog25.fc2.com/)に、背筋の寒くなるような話がでていました。このサイトの著者は空きカンを原発推進派とアメリカ、官僚にその権力欲を利用されて操られているというスタンスで見ておられるようです。空きカンがその場限りのウソをつきつづけ、いつわりの「脱原発」姿勢を打ち出して8月に解散総選挙に持ち込み、脱原発で国民をだまして、選挙を生き残り、選挙後の連立政権に大阪府知事を首相に据えるという可能性について書かれています。おぞましい話です。私は、空きカンは「平気でうそをつくひとたち」にある人格障害者であって、ずる賢さは、自己保身のためだけにしか使われないと思っているので、そのような大きな売国スキームの一部として動けるほどの知能はないと思います。とにかく国民は、ウソつきで裏切りの常習犯の空きカンのいうことを絶対信用してはいけません。
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