百醜千拙草

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われわれにできること- 東京新聞社説-

2015-01-06 | Weblog
東京新聞の元日の社説、年のはじめに考える 戦後70年のルネサンスを読みました。
グローバル資本主義の結果としての格差社会が人間性を失わせて、戦争を引き起こす可能性について論じてあります。

 ピケティはグローバル経済を放置すれば百年前の極端な格差社会に逆戻りすると警告し、累進課税や国際協調のグローバル資本税の導入などを提言します。、、、
グローバル経済が労働配分率を削減して資本家に利益を独占させるシステムだとしたら現代は新帝国主義と貧乏物語の時代の色彩を帯びます。三十一歳のフリーターの論文「希望は戦争」が衝撃を与えたのは二〇〇七年でした。今労働状況はさらに厳しく、希望なき社会が極端な排外主義やヘイトスピーチになっているようです。、、、
 資本から人間中心の社会を取り戻さなければなりません。、、、


ここで触れられている2007年の「「丸山眞男」をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。」という文章を私は知らなかったので、探して読んでみました。その文章力に感心しました。気持ちは理解できますが、戦争がおこれば社会が流動的になって底辺に釘付けにされている弱者にチャンスがくる(かもしれない)という考え方には賛同しかねます。戦争になって最初に死ぬのはやはり弱い立場の若者ではないのかなと思うからです。この方も次のように書いておられます。

しかし、それでも、と思う。それでもやはり見ず知らずの他人であっても、我々を見下す連中であっても、彼らが戦争に苦しむさまを見たくはない。だからこうして訴えている。私を戦争に向かわせないでほしいと。 しかし、それでも社会が平和の名の下に、私に対して弱者であることを強制しつづけ、私のささやかな幸せへの願望を嘲笑いつづけるのだとしたら、そのとき私は、「国民全員が苦しみつづける平等」を望み、それを選択することに躊躇しないだろう。


自分のチャンスを得るために他人の犠牲を望む気持ちは、自分の不公平被害者意識をなだめたいというEgoに基づく欲求であり、本来日本人が嫌うところです。しかし、とくに今の若い世代の人々が最初から「カタ」に嵌められてしまっていて、いくらもがいても身動きがとれない状況では、何らかの破壊的なショックがなければ変わらないという気分を持つのは十分理解できます。この文章が出てから8年経ちました。状況は良くなっているどころか悪くなっているだろうと思います。

普通は、このような国民の不満を放っておくことは社会の安定という点で良くないことですから、本来、政府はなんとかすべきことなのです。しかし、戦争したいアベ政権です。国民の不満の焦点をずらせて、溜まった国の借金や消えた年金もチャラにできる万能薬、それが戦争、というわけでしょう。再軍備化のためには、若者の不満は適当に溜まってくれた方が都合が良いとでも思っているかも知れません。正月早々、経団連のお偉方とゴルフ、夜はレストランでフランス料理、というような人に、民の気持ちが解るとは思えませんし。

4日の東京新聞の「真の強者は弱者に優しい」と題する社説では次のようにあります。

 ◆方向違いの三本の矢、、、翻ってアベノミクスです。なぜ行き詰まり、格差拡大などの問題が生じているのでしょうか。、、、アベノミクスに最も欠けている視座は、弱者への配慮であり、再分配政策など格差を縮める努力です。真の強者は弱者に優しい。弱者に冷たいのは、ただの弱い者いじめでしかないのです。、、、
 ◆一番大切なものとは、、、「大切にすべきことをないがしろにすると組織は必ずおかしくなる。一番大切なのは業績でもシェアでもない。それらは経営の結果としての現象です。大切なのは、社員とその家族ら企業に関わるすべての人の幸せづくり。ご指摘の企業は、残念ながらその視点がいつの間にか欠落してしまったのではないでしょうか」
 アベノミクスは一番大切なものをないがしろにしているのです。


5日の社説、「悲しみ」分かち合う時には次にようにあります。

トリクルダウン理論を実践する安倍政権下で、富裕層と低所得層の二極化が進んでいます。、、、
 神野直彦東京大名誉教授は著書「『分かち合い』の経済学」で、スウェーデン語に社会サービスを意味する「オムソーリ」という言葉があるのを紹介しています。オムソーリの原義は「悲しみを分かち合う」ということで、次のように書いています。
 <人間は悲しみや優しさを「分かち合い」ながら生きてきた動物である。人間は孤独で生きることはできず、共同体を形成してこそ生存が可能となる。「分かち合い」によって、他者の生も可能となり、自己の生も可能となる>、、、
 世代間の不公平論が広がる背景に、高齢者と若年者の対立をあおり、給付削減を進めようという財政当局の陰謀があるのではと勘繰ってしまいます。
 私たちには東日本大震災後に神野教授のいう「分かち合い」精神を発揮した経験があります。互いに悲しみを分かち合う制度を何とか支えていくべきだと思います。


年頭の内田樹の研究室では、

国が滅びることまでは望んでいないが、国民資源を個人資産に付け替えることに夢中な人たちが国政の決定機構に蟠踞している以上、彼らがこのまま国を支配し続ける以上、この先わが国が「栄える」可能性はない。

とあります。悲しいことに、一般国民にはまだ広く残っている日本の心、「分かち合い」の精神は、「me first generation」で他人を蹴落として競争に勝ち抜くことばかりを考えてきた日本の政府官僚組織の人々には残っていないのでしょう。

そんな中で、われわれはどうすべきなのかと思います。いつもの話ですが、中央銀行による管理通貨制から自由になるしかありません。生活必需品を賄うために、必要もないモノやサービスを作って売って「カネ」に変えないといけないという資本主義のバカさ加減に大勢の人々が気付きはじめています。カネがないと生きていけないという「刷り込み」が余りに強いために、カネの奴隷にされてきたのです。日本銀行券がなくてもそれなりに生活できるシステム、例えば、自給自足し共産、共有していくイスラエルのキブツのような制度は参考になるかもしれません。現在約270のキブツが存在し、イスラエルの人口の3%がキブツに居住。しかし、イスラエルの農作物の40%がキブツで生産されているようです。生活のためにはまず食料で、食料を自給自足できるというだけで生活の半分以上は支えられます。日本人は戦後そのことを余りに軽視してきたのではないかと思います。
 今の日本は極端なピラミッド型の中央集権です。そのシステムで利益を得ている霞ヶ関官僚は自らそれを変えて地方分権をするはずがありません。ならば、権力のもとになっている中央銀行の「カネ」になるべく依存しなくなれば、力を取り返せます。そんな政府や資本家、支配者層に依存しないコミュニティーレベルでの助け合いのネットワークを構築していくことができたらと思います。いつの世でも、国民をコントロールするのは分断による統治です。国も支配者層も国民がバラバラで「カネ」のためにギリギリのレベルで働いてもらうのが都合がいいわけです。ならば団結して知識とリソースを共有することが力となるはずです。

最後に再び、内田樹の研究室からの言葉、
自分の手元にあって「守れる限りの山河」を守る。それがこれからの「後退戦」で私たちがまずしなければならないことである。
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