百醜千拙草

何とかやっています

一殺多生の屁理屈

2009-12-15 | Weblog
先週、オバマがノーベル平和賞の授賞式でスピーチを行いました。アフガニスタン戦闘への兵員の増員を決めた後での平和賞受賞式という皮肉なものとなりました。オバマは自分にとって、アメリカ大統領としての職務が何より優先であることを述べて、戦争大統領でありながら平和賞の受賞を受ける立場の理解を求めたように思います。オバマの立場からすれば当たり前ですけど、世界の人々は多少失望したかも知れません。オバマはアメリカの国益のために働いているのだと明言し、アフガニスタンのアルカイーダは、アメリカの(そして世界の)脅威であり、放置できないと述べました。
ロイターのニュースでは、

(オバマは)武力行使は人道主義的理由に基づく場合など正当化されることもあるとし、武装組織アルカイダに対しては交渉は武力放棄につながらないと指摘した。 また、国際法を順守しない国に対し「実質的な代償を強いる」厳しい措置が必要と主張した。核問題をめぐって欧米と対立するイランと北朝鮮について、交渉引き延ばしなどの外交戦術に触れ、国際社会とゲームすることは許されないと述べた。

とあります。
 平和賞でのこのスピーチの内容を知って、私は勧進帳での山伏問答を思い出しました。 富樫に、仏徒の身でありながら山伏はどうしていかめしい格好をしているのか、と聞かれて弁慶はこう答えます。
 「それ修験の法といっぱ、胎蔵、金剛の両部を旨とし、嶮山悪所を踏み開き、世に害をなす悪獣毒蛇を退治して、現世愛民の慈愍を垂れ、あるいは難行苦行の功を積み、悪霊亡魂を成仏得脱させ、日月清明、天下太平の祈祷を修す。かかるがゆえに、内には慈悲の徳をおさめ、表に降魔《ごうま》の相を顯わし、悪鬼外道を威服せり。これ神仏の両部にして、百八の数珠に仏道の利益を顯わす」
 更に弁慶は、太刀を持っている理由については、
「仏法王法に害をなす、悪獣毒蛇はいうに及ばず、たとわば人間なればとて、世を妨げ、仏法王法に敵する悪徒は、一殺多生の理によって、ただちに切って捨つるなり」と答えます。
 つまり、山伏は「善い」人々に害をなす「悪い」獣や人をやっつけるのだ、と言っているわけです。オバマの理屈もこれに近いものがあります。人間であっても悪いヤツは、「一殺多生」のことわりのもとに殺すべきだ、そうすることによって、もっと大勢の善良な人々が救われるのだから、そして、世界平和のためにはアフガニスタンでの戦争もやむを得ない、という理屈です。しかし立場を転じてみれば、アルカイーダもおそらく同様の理屈でテロを行っているのだろうと想像するのは難くありません。彼らにとっては、自分たちこそが正義の味方、アッラーの神のしもべであって、世界に害を及ぼすアメリカや西洋に天誅を加えているのだと思っていることでしょう。ですので、「一殺多生の理」などというものは最初から身勝手でおかしい理屈なわけです。
 戦争によって平和を実現する」というのは「核抑止力」と同じ理屈です。これは、自分が正しく、相手が悪いという前提がひっくり返れば、成り立ちません。ところが、誰もが自分は正しいと思っていますし、もちろん、自分が間違っていると信じていながら相手を攻撃する者などいません。
 だからこそ、オバマはここで、自分はアメリカ大統領であってアメリカの国益のために働いているという断りを言う必要があったのです。正しい間違っている、良い悪いという主観的な基準ではなく、アメリカの国益という比較的客観的な物指しを導入することによって、「一殺多生の理」は戦争の口実になります。他の国々と同様にアメリカはその国益を追求する権利があり、その代表たるオバマはそれを守るという職務を全うせねばならない、ということをあらためて言う必要があったということです。
 この辺りが、「テロリストは敵で、敵は殲滅しなければならない」と頭ごなしに決めつけ、胎生幹細胞技術を指して「悪魔の行だ」と言った低能独善家のブッシュと違うところです。
 アメリカ国民の安全と平和は世界の平和に優先するというアメリカ大統領としては当たり前のことと、北ヨーロッパの賞であるノーベル平和賞の意図とおこすコンフリクトのために、あのような内容のスピーチになったのだと思います。これが、現職を退いた後であれば、もっと違った話をしたでしょう(ジミーカーターの言動を思い起こすまでもなく、現職でなければ、責任はもっと軽いはずですから)。
 そう考えると、オバマの平和賞受賞スピーチは世界平和を呼びかけるものではなく、アメリカの行動に対する言い訳に終始したということになるでしょう。そして、現役のアメリカ大統領としては、たとえ、心の中で「戦争は絶対悪だ」と思っていても、それを口に出すことはできませんし、このスピーチでも言い訳以上のことをしゃべることはできなかったのであろうと思います。
 賞はくれと言ってもらったのではなく、向こうが勝手にやると言って来たのです。それでは、その賞を辞退するという選択があったであろうか、と考えれば、それもあり得なかったと思わざるを得ません。オバマはおそらく辞退を真剣に考えた筈です。しかし、世界のリーダーという立場を貫き通さなければならないアメリカの大統領に、ノーベル平和賞を辞退する、という選択は許されないでしょう。それではアメリカの国益を損ないます。
 ノーベル賞委員会は、オバマにアメリカ大統領という立場を超越して世界平和に協力して欲しかったでしょう。しかし、オバマは現職大統領という立場を離れるわけにはいかなかった、その釈明となった受賞スピーチでした。あいにく、ノーベル賞委員会が引き出したかった言質をオバマは与えることをしませんでした 。勝負は引き分けですね。
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