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平等と公平 (I)

2023-07-04 | Weblog
アメリカの大学では従来から黒人やヒスパニック、ネイティブ アメリカンの学生数を確保するための優遇措置が行われておりますが、先週末、こういった措置が「法の下の平等」を謳う合衆国憲法に違反しているとの訴えを認める判決がありました。またアメリカの私立大学の入学に関しては、こうしたマイノリティー優遇政策の逆ともいえる「家柄」の良さなどを考慮する優遇措置もあります。レガシーと言われますが、アイビーリーグなどの東部エリート校では昔から公然行われているエコ贔屓ます。ちなみに、今朝のTwitterをみたら、下の様なツイートがありました。

さて、日本でもアメリカでも、人種に限らず性、教育、社会地位、経済レベル。さまざまに差別があります。そういう社会で自由競争をさせれば、強者と弱者間の差、金持ちと貧乏人との格差は開く一方になります。生まれながらに子供の教育に価値を認めないような地域、教育を受けたくても金がないという家庭に生まれ育った子供は、そうした環境から抜け出ることができず、格差は固定化し拡大し、極端な富や権力の偏在を引き起こし、現在のような格差社会に至ります。格差の拡大は国民の権利を保障する民主主義国家にとっての脅威であります。一つの国において格差が広がり、国民が持てるものと持たざるものとの間で分断されるのは為政者にとって好ましくないことであり、とくにアメリカのような国では、「多様である」ことと「国家としての纏り」を保つことを両立させていくのは重要な政治的課題です。

バイデンはこの判決に異を唱え、(黒人、ヒスパニック人種の学生が一流大学に一定数含まれることを目的とする制度を通じて)多様性を保つことはこの国の最大の強みである、というようなコメントを出しました。

二大政党制のアメリカで、現在の最高裁所判事は9名中6名が共和党大統領による任命で、3名は民主党大統領による任命ですので、最高裁ではバイデン政策に不利な判決になりがちなのかも知れません。ちなみに、この判決の直後、バイデンの公約の目玉政策の一つであった奨学金返済免除に関する裁判では最高裁判所が6-3で認めないという判決に至りました。

バイデンの民主党では、黒人、ヒスパニック系、都会生活者は大きな支持基盤となっていますから、民主党にとって黒人やヒスパニックの権利が縮小することは望ましくはなく、バイデンの言明も半分は政治的動機からでたものでしょう。ところで、「多様性」は強みであるというのは、思うに、これは生物学的な観察からの推測であって、人間社会で人種的多様性が「強み」であるかどうかはわからないと思います。しかし、アメリカの様な社会で「多様性」を許容しないことは弱みになることは容易に想像できます。日本でも同じだと思います。多様性の許容なしに民主主義国家は成り立ちません。

さて、こうしたAffirmative actionは男女の格差、人種間の格差を是正する目的で導入される特定の属性の人に対する優遇政策ですから、その優遇政策を受けれない者から見れば不公平と思うのは当然であって、その不公平の根拠を憲法の「法のもとでの平等」に求めるのも理解できます。黒人というだけで大学入学で特別扱いするのは不公平だと白人が言うのをもっともだと思う人も多いでしょう。しかし、それは白人であるというだけで得ている数々の特別扱いを無意識または意図的に無視していると言わざるを得ません。

突き詰めていけば、「平等」とは何か、どう言う条件を満たせば「平等」と言えるのか、そしてそもそも「平等」という概念を人々は同じように理解しているのか、という問題があると思います。「公平」、「不公平」といった概念にも同様に恣意的解釈の余地があるでしょう。また、今回の判決の根拠になっている「法の下の平等」という条文も、立ち位置の違いによっては解釈は180度変わりうると思います。

人間ですから、特定の人種や性に生まれ、容姿や頭脳に恵まれる場合もあれば残念な場合もあります。障害をもって生まれた人もいれば、生まれつき何かに秀でたような人もいます。親の名前と地盤を引き継いで国会議員になって国民を不幸にする世襲のボンクラ議員もいれば、学業に励み身を律して国民につくそうと公務員になったのに、そのボンクラの悪行の尻拭いをさせられて自殺に追い込まれた人もおります。そう思えば、生まれた瞬間から人間は基本的に不平等です。この生まれながらの不平等はどうしようもないです。ですから、生まれつき不平等は不問にして、平等を目指すのでは矛盾は避けられません。言葉遊びのようですけど、「平等」ではなくどちらかと言えば「公平さ」を議論する方がまだ良いかも知れません。この法案に反対した人おそらく黒人でもヒスパニックでもない人で、そのために大学入学の優遇措置を受けれないのが「不公平」だと思っているのだと思います。しかし、彼らが黒人やヒスパニックでないことから得てきた数々のメリットは都合よく無視しています。それは「公平」なのでしょうか?

男女がスポーツで競うとした場合、同じ条件で(例えばテニスの)試合をさせるのは平等かも知れないですが、公平ではないでしょう。何らかのハンデが必要です。職場でもそうです。女性やマイノリティー特有の問題を考慮することは不平等ではなく公平さを目指すことです。Affirmative actionは「公平さ」という概念で社会格差を是正していこうという措置だと思います。しかるに、公平さという観点を無視して、どんな背景にあっても同じ条件を一律に課しているから「平等」で問題がない、と平気で言えるのが新自由主義者であり強者の理論だと私は思います。

さて、ここまではマクラで、本題に入ろうと思っていましたが、もうすでに随分、長くなっていますので、続きは次の機会にします。
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