海賊日記

子育てと趣味の日記

枯れない涙 その日

2011年07月26日 23時39分33秒 | Weblog
あたしが家に着いた時には、丁度先生が帰る所でした。
母、妹、弟、姪、長男が嗚咽するなか、茫然と見つめる。父は元気な時とさほど変わりのない穏やかな顔でした。
まだ暖かいままの父に触れ、抱き起こして抱きしめ。なんで待っててくれなかったのか、と。
それを言ったら、なんでおまえは帰ったんだと父は言いたかったでしょう。

でも、父の最後は誰も見てなかったんです。
妹は朝食の支度で台所に、弟と長男はリビングで寝ていて。
姪たちは父の傍で寝そべって絵を描いてたそうです。
父の枕の方にいた母が、「ゴボ」っと言う音に驚いて父を見たら、口から血を吐いていて、そのまま。

妹は悲しみの中にも父の最後の世話をしてくれています。そういう時どうしたらいいのか知ってるのでしょう。顔をキレイに拭いて、胸の上で指を組んで。ヒゲも剃ってくれました。
あたしは固まったまま何もできず。
まるで生きているようです。見ていたら息を吹き返してくれるんじゃないかと思えるくらい。
でも、戻って来て欲しいけど今のままで戻るのは可哀想。弱って行く姿をずっと見てきたので・・・やっと言えた「お疲れ様」と「ありがとう」。息のある内には言えなかった。言ったらそのまま生きるのを諦めてしまいそうだったから。

葬儀屋さんがじきにきて、まだ暖かい父の胸にドライアイスを乗せて行きました。季節柄当然なのでしょうけど、あまりに冷たそうで切なかったです。

それからは儀式の為に大変慌ただしかった。悼む間もなく。
翌日が通夜で、父の兄弟が一緒に寝たい、と言うことだったので、父と過ごせる夜は亡くなったその日が最後。母と兄弟三人で、ビールを飲みながら一晩過ごしました。
手が空く度に、父の傍に行って腕を摩っていたのですが、夜にはもう氷のように冷たくなっていて。それでも触らずにはいられなかった。明後日には、もう触れる体がなくなってしまうのだから。

想像していた通り、一番辛かったのはお棺に納められようとした時。
言うまいと思っていましたが「やめて」と言ってしまいました。・・小さい声だけど。立ちあがれないのを旦那が引き起こしてくれました。
体があるうちは、一見「寝ている」ようなのでまだ良かったんです。心がそこにもうなくても、形があるだけでも救われてたのに。

生まれて初めて骨を拾いました。・・父はそこにいるのでしょうか。

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枯れない涙 前の日 19日

2011年07月26日 23時13分25秒 | Weblog
誕生会の翌日は学校も仕事もあるので、次の土日も集まるってことで一旦みんな帰りました。
弟が横浜に帰る時。
父に「おやじ、諦めんなよ、また来るからな!諦めるなよ」と繰り返すと、「ありがとう、大丈夫」と答えていました。父にとって弟は、たった一人の息子。あまり上手く付き合えない二人でしたが、年老いて心の拠り所にしていたことでしょう。
その息子の力強い励ましに、父はきっとすごく嬉しかったと思うんです。柔らかい表情で、嬉しそうな声でした。

弟を送った後あたしたちも帰ったんですが、母の疲れが心配で夜中看護を代わろうと思って23時頃もう一度一人で戻りました。
朝まで代わるから、と母を隣で寝かせ。
父は落ち着いていましたが呼吸が少し荒い。寝がえりを度々打つのですが、うまく返れずベッドサイドの枠にぶつかるので気が気ではありません。
皮膚が薄くなって、ちょっと擦っただけで剥けてしまいます。その傷が炎症を起こしていて、おまけに皮下に水が浸出してしまって腕がむくんで熱を持っています。とても痛そう・・保冷剤で冷やしたり、ただ摩ったり。体温も8度を超えてしまいました。
仕事があるので朝の4時まで看護して母にバトンタッチ。
でもこれは母にはあまりにキツイな・・・と思ったのでその夜も代わらなきゃだな;と思っていたのですが。

仕事が終わって母に電話を入れたら、お昼に往診に来た先生が、胸に水が溜まっているし、血圧も低い。今日明日かもしれない、と言われたそうで。
母の食事と父のスイカを買ってすぐに実家に行きました。
その時の父の状態が今思い出せません。ただ、危ないと思ったので、すぐに妹と弟に連絡をしました。
夜にはみんな揃いましたが・・・父の呼吸は普通の倍から三倍の速さ。溜まった水が肺を圧迫しているのでしょう。妹が言うには、全力疾走してるようなものだ、と。
どう見ても、最後の時が近づいてる様子に、あたしたちも孫も、胸が一杯です。
先生から「耳は聞こえてるから話し掛けてあげて」と言われていたので、みんなで一所懸命話し掛けました。
泣きながら、肌に触れながら。
父に反応して欲しくて「ジージ分かる?○○だよ!」最初のうちはそちらを向いて頷いていてくれましたが、そのうち目が開かなくなり。頷くのも出来なくなって。
もう寝がえりも打てず、ただ両方の手だけが万歳をするように上がったり、まぶしい時にする仕草のように額に腕を当てたりしていました。それを見た子ども達が「眩しいかも」と電灯をタオルで遮ってあげたりしていました。
何かを訴えたいように思えて仕方ないその様子。それが何なのか知りたくて、口元を凝視するのですが分かりません。分かって貰えないのは辛いでしょう。
「お父さん、伝えたいことがあるんだよね」・・こういう時に父が言いたいであろう言葉。
「ありがとう・・って言いたいんだよね?」みんなの見てる前で、父は微かに頷いてくれました。「こっちこそありがとうだよ、お父さん」と妹。みんなも涙ながらに頷いていました。

深夜を周り、荒い呼吸だけが聞こえるなかで、みんなで寝ました。父の布団の周りにみんなで布団を敷いて。
孫たちはすぐに寝てしまいましたが、母とあたしたち兄弟は代わる代わる父を摩ったり声を掛けたり。

状態は変わらないまま、朝を迎える頃にはみんな寝てしまっていました。
その日は台風。学校が休みになれば丁度いいな、と思っていたのに、警報が一つしか出てなくて通常通り、の連絡。
迷ったけど、きっと今日くらいは大丈夫、と思って長女と次男を学校に行かせる為に6時半に帰宅。
子どもたちを送り出して帰る車の中で父を死を知りました。




お悔やみをありがとうございます、お返事待っててくださいね
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枯れない涙 食事会 16・18日

2011年07月25日 23時20分00秒 | Weblog
輸血した翌日は、丁度三連休。翌日には妹家族も来ました。
少し前に、父の誕生会はみんなでバーベキューしようね、と話してたんです。
父は毎年夏になると孫を集めて庭でバーベキューをするのが楽しみで。必ず一度はやってたんです。
いつもはりきって用意してくれてたんですが、去年はもう焼くのは大変で、娘婿にお任せでしたが、みんなが集まって焼いたり食べたりする様子を嬉しそうに見ていました。

父に「もうすぐお父さんの誕生日だから、今年はバーベキューやろうね」と言ったら、表情の乏しくなった顔で、頷いてくれました。
父の誕生日は7月24日。
その日のつもりでいたのですが、急に容体が悪くなったので前倒しで16日に誕生会をやろう、と言うことになったのですが、天気が悪くてバーベキューは無理。
・・それに、誕生日前なのに前倒しする、なんて父には「もう時間がない」と知らせるようなものなので、誕生日のお祝いとも言えず、とにかく「みんなで集まって食事v」な感じにしました。
二間続きの和室、父はベッドの上半分を起こしてみんなが食事をするのを見ながら一緒におかゆを食べました。
子ども達が言うには「あの時のジージ、嬉しそうだった」って。
あたしと娘はその日は泊まり、次の日がスポ少の試合があった妹家族と、部活のある息子と旦那は帰宅。賑やかさが収まった頃父の傍にいくと、「嬉しかったね」と。
みんなが集まって、賑やかな孫たちを見て。細い声でそう言ってくれました。その声をよく覚えてます。

翌日は妹家族が泊まってくれることになっていたのであたしはその日は帰宅。帰る前に父の所に行くと「バーベキューは?」と聞く。
・・やっぱり食事会じゃ納得しないか・・
「誕生日早くやろう」父の方から言って来ました。
素人目にもあと一週間、今の状態を保つのは難しい感じがしたので「じゃあ明日祝日だし、やろうか!」ということで月曜日再び全員集まる事になりました。

お昼頃からみんなで用意して夕方前には焼き始め。父は「車椅子に乗る」と言いました。
あんなに乗り気でなかった車椅子に自分から乗るなんて・・。
庭の様子を窓から眺めて。それからいつも座っていたリビングのソファに座ると言いました。少しの間でしたが、父なりにもう最後になる、と思っていたのでしょう。
いつもの場所に座っている父、表情はなかった。きっと座位を保つのに必死だったのだと思います。どんなことを考えていたのか・・

それからリビングで横になる、というので布団を敷いて。誕生日ケーキを切りました。
背中合わせで妹が座って父の半身を起し、孫たち子ども達がみんなでハッピーバースディを歌いました。
「おめでとう!」の声に、ロウソクの火を吹き消してくれました。こんなに大勢に祝われた誕生日は初めてだったでしょう。ケーキを口にすることはなかったですが、喜んでいてくれたと信じています。


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枯れない涙 輸血 15日

2011年07月25日 22時45分32秒 | Weblog
長い間病と闘ってきた父ですが、先週水曜日、20日に逝去しました。
7年前に前立腺がんと告知された時は、余命2年と言われ。それから、全摘手術、放射線治療、抗がん剤治療と、様々な治療に耐えてきた父。
去年の暮れに発熱して再度入院してから半年。度々様子を見に行ってくれてた妹の話では、入院中3度の開腹手術を受け、それでも良くならない病状に、父は鬱状態になったそうです。どうしても家に帰りたい。先生に強く希望して退院させて貰いました。
先月中ごろに退院して来てから、街医者の往診を受けながら療養していたのですが、行く度にレベルが落ちて行くのが目に見えて分かりました。
退院した日にはかろうじて杖で室内を歩けて、これからリハビリしていこうね、って話してたのに、歩けたのは最初の数日。喉の違和感の為に食事が満足に取れない状態では体力も続かないようで。
すぐに寝たきりの状態になってしまいました。意欲もなくなり、うつろな表情で過ごしている父を見ているのは辛かった。甘えてるんじゃないか、とも思ったりして、「頑張ってみようよ!」と半ば無理やり車椅子に座らせたこともありました。

良くなる事を信じて、でも今思うと父の本当の病状には目を向けてなかったのかもしれない・・そう分かったのは、15日に往診にきた先生に大きな病院で輸血をするように言われてから。
あたしは仕事だったので救急車で病院に運んで貰って、輸血が始まってから母から連絡を受けました。
その時に色んな検査をして、愕然と。
救急の先生に言われたのは

多臓器不全でいつ亡くなってもおかしくない
骨にも肝臓にも転移していて、輸血してもザルに注ぐように漏れてしまうだけ

もう、打つ手がない


そこまで終りに近づいてるとは母もあたしも思ってなかった。
かなり悪いとは思っていたけど、まだ希望を持ってたんです。今年くらいは、夏くらいは、頑張ってくれるんじゃないか、と。
もしもの事があったら・・後で後悔するよりは、と横浜にいる弟に連絡。すぐに帰る、と返信。

輸血している間、父の意識ははっきりしていて、まだちゃんと話も出来ていました。
常にあたしに気遣って「さっちゃん、もういいよ、帰っても。ありがとね」と何度も言っていました。
落ち着いてるし、一回帰ろうかな、と「じゃあまた来るよ」というあたしに、いつものように手を挙げてタッチしたのが思い出されます。

一度は帰ろうと思ったものの、父はどうしても入院したくないというので、介護タクシーをお願いして、ストレッチャーで家まで運んで貰いました。もう車椅子での移動は無理でした。

母に食事をさせ、もう少ししたら弟も到着しそうだったのでその日は深夜に帰宅しました。


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たまには笑おう!

2011年07月14日 23時08分37秒 | Weblog
某所で見つけた、可愛いハプニング。




「「「「「あ~~~~~っ;;」」」」」」ってコガモの叫びが聞こえてきそうじゃない?(笑)
何事もなかったように行進する野生の逞しさに乾杯。
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夏の大会

2011年07月11日 23時36分19秒 | Weblog
早々に終了(涙)
一回戦で散ってしまいました・・・
「夏は魔物がいる」と高校野球を知ってる人たちはマニアぶって言うそうですが(こら)居ましたよ魔物。
両チーム無得点のまま5回まで来て、6回にうちのチーム(先攻)が一挙5得点!
裏を0点に押さえ、次の7回も2点上げて、これで裏押さえれば7回コールドで勝ち!だったのに。もうすっかりその気だったのに。
7回裏、まさかの5失点。
その後も2点入れられて、延長戦。野球は先攻不利、なんだよね・・・こうなると。
で、結局延長2回の裏にさよなら~でした。

二年後、あの緊張の舞台に、次男は立てるでしょうか。舞台に立てないまま終わる三年生も何人もいるのが野球です。解散式の時に、少しでもユニフォームが汚れている事を切に願います。

ちなみに、長男の母校は逆転勝ちしました。長男は他のうちに相乗りさせて貰って応援に行きましたが(ここも遠かった;)あたしも行きたかったなー。お母さん方とは卒業式のランチ以来会ってないし。大学生活ってのがどんなもんか聞いてみたかった。


父の容体が下降の一途なので、心配な毎日です。
今日も仕事休んで行って来ましたが、少し痴呆のような言動も見られて・・それもどこまでなのか分からないけど。
口がうまく回らなくなって、言葉を聞きとるのがちょっと大変になってきました。
自力で立つのが難しいので、全介助(首につかまって貰って抱っこして立たせる)でないと車椅子に乗れません。こうなると母では無理です。

「何か食べたい?」と聞いたら「ビール飲みたいなぁ・・」と小さな声で。
切なかったです。すぐ買いに行ってあげてみました。少量だけどよく飲んでくれました。
スプーン持つのにも手を添えないと零してしまうようにもなりました。でも、手伝いながらなるべく自分で食べて貰うようにしてます。

・・・ということが、毎日一緒にいないあたしなら根気よく出来るのですが、それを母に要求するのは可哀想。
なので、あたしがしょっちゅう行くしかないなー・・・って思うのですが。
自分も大勢介助(?)の居る家族がいるので、毎日は行けません。
その辺が悩みでもあるんですが・・とにかくやれる限りはやらなきゃな、と、思ってます。

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ごーや

2011年07月07日 21時46分11秒 | Weblog
雨続きで洗濯物は困るけど、涼しいのはいいですね~♪夜もアイスノンなしで寝られます。(エアコンは嫌い)
画像は我が家のグリーンカーテン。去年同様、今年もごーやです。種から育てました。発芽は良好だったんだけど、芽を鳥に食べられて残ったのは3分の1ほどでした・・・(><)
この花と葉のコントラストが何とも涼しげでキレイでしょ?実も食べられるし一石二鳥。
肥料っ食いだって去年聞いたんで、今年は切らさないように気を付けなきゃ。

またしてもこんな風に植物に逃げてます(笑)だって日常には気に病む事が山ほどあるんですもん・・・

テスト範囲も満足に把握しないままの次男の期末テスト(涙)まぁそれでも中間よりはやってはいましたが・・普段が普段なので悲しい結果です。

土曜日は高校野球の開会式。こっちは他の用事があるので欠席です。だって我が子が行進しないんじゃ、興味ないし(おい)
日曜日はその1回戦。めっちゃ遠い球場です。第3試合(開始2時)なのに朝8時集合です。何するんだか・・・(溜息)
受付係(大会はOBがご祝儀持ってくるんで球場の外に各学校の受付があるんです)やるんですが、2年生2人と一緒に行動するんで気が重い・・・なんか変な人なんだよね。1年生と一緒が良かった;;

一人暮らししたい、と言いだした長男。毎日1時間の通学時間が負担なんだそう。贅沢な。
周りの子も一人暮らし始めた子が多く、「出遅れてる気がする・・・スキルが上がらないし」
自分も旦那も下宿組だったんで、一人で暮らしてみたい気持ちは十分分かります。でも今の子は贅沢だから・・・あたしなんて、トイレバスキッチン共同な、廊下で部屋が繋がってるみたいな下宿だったけど、今はそんなの存在しないでしょうね;
大学の寮も沢山あるけど、そこは眼中にないそうで・・・
とりあえず、今の4年生が出る頃にいい物件を先に押さえられるように先輩たちにリサーチしておいて、軍資金をバイトで貯める計画をしてるようで。
どうなるか分かりませんが、お金が掛る相談は気が重いです。ケチなんで。

あとは、父の事。
結局治験(ガンの治療)は打ち切られて、今後はターミナルケア、ということになりました。
覚悟はしてたんで、そこはともかく、父が色んな事を諦めてしまっているのが悩みなんです。
退院してきた頃は杖で歩く練習をしてたのに、今は1日ベッドです。何かしたいことないの?と聞いても、何もない、何もしたくない。
でも折角生きているのだから、楽しい、とか心地いい、とか、そういう思いをして欲しいんですよ。
食事すらも、食欲がなく、唯一食べたがるのはスイカとかき氷とコーラ。
味覚も鈍くなってしまってるんでしょうか・・・
アレコレ情報仕入れて考えてはいるんですが、本人がどう感じるかがやっぱり分からないので;でも躊躇してる時間はないと思うので色々やってみようと思ってます。
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若葉マーク

2011年07月05日 22時49分05秒 | Weblog
先日教習所をめでたく卒業した長男が、今日免許を交付して貰いに行って来ました。
夕方帰って来て早速あたしの車で初乗りですv
教習もまじめに受けてたし、慎重派なので心配はしてないんですが、なかなか上手な運転でした。
自分の息子が車を運転出来るようになるなんて・・・・軽く感無量。あたしも年を取るはずです。


画像は、父の車。
奇しくも同じ日に、廃車になりました。義理の弟の知人がそういう仕事してて、今日取りに来る予定になってて。

確かにもう乗れないけど、何も今処分しなくてもいいのに、とあたしは思ってました。
「いつかはクラウン」苦労して子ども三人育てあげ、ようやく出来た贅沢です。
クラウンばかり、三台新車で乗り継いで、この車に10年乗りました。父は度々この車で、まだ小さな娘を妹の家まで連れて行ってくれて。その間息抜きが出来て、随分助かった。あたしが子育てで大変だった時期を支えてくれてた車でもあるので、思い入れも深いんですが。
もうなくなってしまったんだよね・・・とても寂しいです。

車って生活に密着してるから、愛着も強いよね。
父はどう思ってるのかな。
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呼び出し

2011年07月04日 23時57分20秒 | Weblog
夜8時頃、実家の父の携帯から着信。
父は今はもう自力で歩くことが出来ず、一日ベッドで過ごしてます。大きな声もあまり出せないので、何かの時の為に常に手元に携帯をおいてあるんですね。
で、電話。夜に来るのは珍しく、何事かと思って出たら、か細い声で「お母さんと喧嘩した・・もう世話してくれないって。どうしたらいいか分からない。○ちゃん(あたし)来てくれない?」

あー・・・・そろそろかなぁとは思ったけど。
元々仲のいい夫婦ではありません。自由の効かない身になったから、母も色々我慢して父の言うなりに献身的に世話をしてきたんですが、父の方もそれに甘え過ぎてしまって、つい言い過ぎてしまった、と。
堪忍袋の緒が切れた母が「もう世話しない!」と啖呵切って二階に上がってしまったそうで。

まー2人の性格は分かってるのでとりあえず行きましたよ。介護疲れの場合は2人を離した方がいいと思うので、父をうちに一時引き取ることも考えたんですが。

父の一通りの世話(夕食、清拭、シーツの取り換え)をしたあと、母の話を聞きました。
父はとにかく母の一日を全て自分に奉仕するように使って欲しいらしい。ちょっと離れると、急ぎでもないようで母を呼び、遅いと文句を言うらしく、それが積み重なって母が爆発した、と。
でも、父には母を縛ってる自覚がないようです。自分は自分なりに母に気を使ってる、って言うんですから。2人の言う事が違ってる部分が多かった。思えば昔から会話のない夫婦でした。素直に気持ちを言いあえなければ、分かってあげよう、という気持ちで聞かなければ、伝わるもんじゃないですよね。人の気持ちなんて。

それ以上に人の身体的な痛みというのは、理解出来ないもんだなぁと思います。見た目や訴えで判断するしかなく、どれが本当なのか、甘えなのか、我慢してるのかすら、本当のところは分かりません。
父にもっと出来る機能を使って頑張って欲しいと思う反面、もしかしたら我慢してるだけで、もうギリギリに大変なのかもしれない。

色々話してるうちに母も落ち着いたようなので、引き取らずに帰ってきましたが。

これからどうしたもんかなぁ、と・・・うーん。

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