高野山真言宗多門寺の西約50mの位置に金谷公會堂がある。公会堂の脇に石鳥居、背後あたりに小さな社(矢掛町矢掛2030の東辺り)が見えた。

鳥居の扁額には「御祓太神宮」と書かれている。私は太神の文字を見て「伊勢太神楽と書いて、いせだいかぐらと読むから、これはだいじんぐうでいいんだろう」と呟いた。
近所のお婆さんに太神宮の由緒などについて尋ねたところ「よくは知らないのだけど道路拡幅工事が行われた際に鳥居を元あった場所から少し西側に移築したんですよ。昔は境内で子ども相撲などをしていました。今でも年に1度(金谷)地区では祭りのようなものがあります」と教えてくれた。


石灯籠は「安政六年(※1859)己未四月吉日建之」、鳥居の背面には「文久三年(※1863)癸亥五月 高草喜定建之 高草喜巖建之」と刻まれていた。高草氏両名は脇本陣を務めた当主と思われる。太神宮は少なくとも江戸末期には存在していたことになる。

鳥居の扁額には「御祓太神宮」と書かれている。私は太神の文字を見て「伊勢太神楽と書いて、いせだいかぐらと読むから、これはだいじんぐうでいいんだろう」と呟いた。
近所のお婆さんに太神宮の由緒などについて尋ねたところ「よくは知らないのだけど道路拡幅工事が行われた際に鳥居を元あった場所から少し西側に移築したんですよ。昔は境内で子ども相撲などをしていました。今でも年に1度(金谷)地区では祭りのようなものがあります」と教えてくれた。


石灯籠は「安政六年(※1859)己未四月吉日建之」、鳥居の背面には「文久三年(※1863)癸亥五月 高草喜定建之 高草喜巖建之」と刻まれていた。高草氏両名は脇本陣を務めた当主と思われる。太神宮は少なくとも江戸末期には存在していたことになる。
