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寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

別冊歴史読本特別増刊・実録『鬼平犯科帳のすべて』(新人物往来社 1994年)

2013年10月21日 | 書籍
フジテレビ制作の時代劇・鬼平犯科帳(中村吉右衛門主演)第1シリーズは平成元年(1989)7月にスタートした。私が僻地に流刑となって半年以上が過ぎていたが、出来ることなら文化都市広島へ戻りたいという気持ちに変わりは無かった。退屈という責め苦にもだえていた大学3年生を救ってくれたのが、このテレビドラマであった。名作と言われる第二話・本所桜屋敷から見始めたと記憶する。

若き長谷川平蔵と道場で腕を磨いていた岸井左馬之助(江守徹)が淡い恋心を抱いたおふさ(マンキュウ)が何と悪女に変わっていたという話で、時の流れの残酷さが主題であった。平蔵の密偵(お上の犬と蔑まれた元盗人達)へのさり気ないやさしさやエンディングテーマがジプシー・キングスの「インスピレーション」だった(原作者の池波さんもこの曲は気に入っていたらしい)こともあり、鬼平シリーズにどっぷりとはまった。

傑作時代劇を更に楽しむために出版された実録『鬼平犯科帳のすべて』には罪人の捕縛・取調・仕置について詳しい記述がある。中でも黒木喬氏の小論文は凶悪火付け犯を例にとって江戸の治安維持の仕組みを丁寧に説明しており資料的価値が非常に高い。

火災都市 江戸の放火と火刑 *火盗改の取り締まりにもかかわらず頻繁に起きた江戸の火災と火刑の実態は? / 黒木 喬

 明和九年(一七七二)の江戸。…二月二十九日…目黒村行人坂の大円寺で出火があったのは午後一時すぎである。…大火が終息したのは翌三十日の午後一時ごろである。

 この大火で焼失した町は九百三十四、大名屋敷百六十九、橋百七十、寺院三百八十二、死者一万四千七百人、行方不明四千六百人、明暦三年(一六五七)の振袖火事以来の大火といわれた。
 四月二十二日に放火犯が逮捕された。…武州熊谷長五郎坊主真秀という悪党であった。幼少から武家奉公をしていたが、十四歳の時、屋敷の塀に放火し、衣類を盗んで在所に逃げ帰ったが、勘当されて江戸に出た。願人坊主…になったが、ほどなく破門されて無宿人の群に入った。無宿仲間と追はぎ・強盗など悪のかぎりを尽くしたという凶悪犯である。長谷川平蔵は吟味がむずかしいので、町奉行所に引き渡したいと上申した。だが、老中松平右近将監武元は、…重々不届至極に付、町内引廻し、五ヶ所に科書捨札を建て火罪を申付ける…と言い渡した。町内引廻しは牢屋敷を出て、きまった順路で江戸の町々をめぐり、牢屋敷にもどるのだが、火罪の場合は牢屋敷にもどらず処刑場に行くのである。そのさい、日本橋・筋違橋・両国橋・赤坂御門・四谷御門を必ず通る。この五ヶ所に罪状を記した捨札を建てた。八百屋お七を例にとると、…此しちと申女、火を付候とがによって町内引廻し、所々にさらし、火あぶりに行ふもの也…という文言である。火罪とは火あぶりのことで、真秀は浅草(実際には千住小塚原)で処刑されたから、捨札は小塚原にも建てられた。ちなみにお七の処刑は品川(鈴ヶ森)でおこなわれた。
…焼死体はそのまま三日間さらされた。真秀の火あぶりは六月二十一日で、二十六歳で生涯を終えた。

 明暦三年(一六五七)から明治十四年(一八八一)まで、江戸・東京は九十三回も大火に見舞われたといわれる。三年に一度の発生率である。この頻発ぶりに着目した西山松之助氏は、江戸を〝火災都市〟と規定された。異常なのは火災の原因に放火が多かったことである。…火をつけて燃え上がった家の人々があわてふためいているすきに金品を盗むという放火の方がはるかに多かった…
 江戸は武家政権の所在地であるから、大火後、放置しておくわけにはいかない。ただちに復旧工事が始まり、建築資材を扱う商人、大工・石工・屋根ふき・畳屋・建具屋・庭師などの職人、さらには長屋住まいの下層民に至るまで、景気の恩恵を受けるのである。江戸は大火のたびごとに不死鳥のようによみがえり拡大した。…西山松之助氏は…火事だ、というと、やれ助かった、と思った人が少なからずいたのであると考えられる。したがって、江戸の大火は、こういう人々の間から、かなり広く巧みに火付けをした者がいたと思われる。わからないように火を付けて大きな火事にしたものがいたと考えられるのである(『江戸町人の研究・第五巻』)。と指摘されているが、この見解は正鵠を得ていると思う。

…お七が放火したのは『天和笑委集』によると、…天和三年三月二日の夜のことで、本郷森川宿にあった生家の八百屋近くの商店の軒板のすきまに、綿くずをわらに包んで炭火といっしょにさし込んだだけで、近所の人々がかけつけ、たちまち消してしまった。…実害のないボヤであったからこそ、人々に大きな感動を与えたのではないだろうか。
 第一、当時の刑罰をまとめている『元禄御法式』にも、…火を付る者之類、火罪…とあって、たとえばボヤであろうが自分の意志で火をつけた以上は、火あぶりなのである。…女性でも少年でも、けっして容赦はしなかったのである。

凶悪犯の仕置の過程はあまりにもエグイので割愛したが、興味のある人はネットで古本を探されるとよい。罪と罰、世の中の表と裏を小説の中にサラリと描いた池波作品は今も色あせていない。徴兵経験皆無・団塊世代の(自称)歴史研究家とやらが可哀想な者(罪人)の視点のみから過去の出来事を恣意的に評価するのとは大違いである。彼らの低質な作文が読み継がれないのは当たり前なのだ(笑)

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週刊JR全駅・全車両基地№49福山駅・宇部新川駅・忠海駅ほか(朝日新聞出版)

2013年10月13日 | 書籍
今年購入した雑誌のナンバー1である。朝日新聞出版は鉄道開業140周年特別企画として全60冊を刊行する予定で49番目にJR福山駅の特集が組まれた。表紙の写真のほぼ中央に位置するのが福山城の伏見櫓(重文)で(おそらく)福山ニューキャッスルホテルの客室から撮影したものと思われる。

福山市街地を望む

4~5ページの大写真は山手方面から市街地を望んだもので福山港・JFFスチール(前身は福山市飛躍の原動力となった日本鋼管)までもが入っており、この一枚で戦後広島県第二の都市へと昇格した理由が分かる。広大な干拓地及び埋立地は住宅と工場で埋め尽くされているのだ。

厳選!ターミナル駅福山
人口47万を擁する、広島県第二の都市・福山の玄関駅は、明治時代、福山城の堀を埋めて建設され、新幹線開業時には、日本初となる三層構造の駅舎に大改築された。近年は「のぞみ」「さくら」など新幹線の停車本数が増え、四国への連絡も視野に、ターミナルとしての存在感を高めている。
写真=牧野和人(写真家) 文=谷崎竜(旅行ライター)

7ページに掲載された新幹線駅誘致の裏話は初耳だった。福山市が威信をかけて根回しを行い誘致合戦で旧深安郡神辺町に勝利したという。

 現在の駅舎は、75(昭和50)年3月の山陽新幹線開業に合わせた大改築によるものだ。城郭や市街地に接し、新幹線敷設のための用地拡張は困難だったため、北隣の神辺町(のちに福山市に編入)に新幹線を通し、福塩線の湯田村駅付近に「新福山駅」を設置する構想もあった。しかし、福山市の誘致運動もあり、在来線の高架化事業を同時進行させ、駅の1階をコンコース、2階を在来線、3階を新幹線とする日本初の三層構造駅となった。
 2003(平成15)年10月、福山は東海道・山陽新幹線「のぞみ」の停車駅に昇格する。請願を続けた地元にとっては開通以来の宿願達成だった。

福山駅クロニクル

10ページには福山駅クロニクルと題した年表を入れて福塩線の前身・両備軽便鉄道の果たした重要な役割に言及しているのは流石プロの仕事だ(開業当初の路線図も掲載)。呉線、福塩線の全駅解説が鉄道ファンには嬉しいところ。竹原市の忠海駅に光を当てたセンスを私は高く評価する。黒滝山山頂からジャム製造工場周辺(塩田跡)を望む写真は珍しい。定価が580円なので福山の歴史に興味がある方は永久保存版としてぜひ購入して欲しい。

竹原市忠海中町周辺

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黒い雨 内部被曝の告発 / 広島県「黒い雨」原爆被害者の会連絡協議会 (2012年7月30日発行)

2013年02月12日 | 書籍
黒い雨のような残留放射線による内部被曝でガン死亡のリスクは増加するのか。放射線影響研究所と一部の研究者との見解は異なっている。確かに時間の経過で多くのデータが失われており「わからない」という部分は多かろう。しかし、黒い雨を浴びたことで健康被害が出た人(未だに国費で健康診断を受診できる手帳を交付されていない人)がやるせない思いを抱いていることもまた事実だ。

黒い雨降雨地域図

黒い雨の降雨範囲は聞き取りによって従来の(宇田降雨図の)約4倍となったのは驚くべきことである。黒い雨降雨地域図の赤線が宇田大雨地域、黄線が宇田小雨地域、青線が原爆体験者など健康意識調査で判明した降雨地域である(私が着色した)。北は旧山県郡都谷村(現山県郡北広島町)の一部、東は旧安芸郡中野村(現安芸区中野)の一部、西は旧佐伯郡吉和村(現廿日市市吉和)の一部にまで及んでいる。

断っておくが私は団塊ブサヨクのように反原発・卒原発を唱える者ではない。不測の事態による健康被害リスクを軽減するためには詳細な日々の記録を残しておくことが重要と言いたいのだ。3年以上に亘って無能政権は(確信犯的に)国益を損ねてきた。中でも最悪だったのは原発事故で放射性物質の飛散状況を把握していたにもかかわらず被災者に嘘の情報を流し被曝させたことである。既存の報道機関がまったくの役立たずであったことは双葉郡浪江町長の数々の発言から明らかである。

広島の被爆者の意見を聞いた上で馬場有さんがやろうとしていることは今後大きな意味を持つと思う。安倍首相をはじめ良心ある科学者が必要なデータを公開し不安を抱える人達の支援にあたって欲しい、最悪の状態からは必ず抜け出すことができると信じて。

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廣高と原爆‐被爆55年・回想と追悼‐ / 廣島高等学校同窓有志の会(平成十二年)

2012年08月08日 | 書籍
原爆投下と福山空襲の惨状を間接的に見た内海健寿さん(旧制広島高等学校・昭和23文甲)による回想。敗戦間際の広島・向洋・福山が一点で繋がる点で非常に重要な証言だと思う。幅広い世代が戦争と平和について考えるきっかけになれば幸いである。個人的な感情を一度取り払って史実を直視することが最も重要だ。

一九四五年八月六日 ‐オダネルとの出会い‐ 内海健寿

 一九四五年(昭和二十年)八月六日八時ごろ、私は学徒動員で広島の東隣、向洋にある日本製鋼所報国寮の二階の一室の南の窓から外を眺めていた。バスは何台も広島に向かって走っていった。私は最近習い始めたドイツ語のテキストを見ていたとき、突然、すさまじい閃光のひらめき。驚いて私は寮生たちと北側の窓から見ると、西の上空に灼熱の光の塊がもくもくと動転しているではないか!その直後、猛烈な轟音と爆風、ガラスの破片の散乱する廊下を一目散に走り。庭の防空壕の中に逃げ込んだ。…しばらく待機したが後は沈黙。おそるおそる壕から出てみるとさっきの火の塊は消え、夏の白い積雲が空にそびえ立っていた。廣高生たちが、「火山の噴火か」「ガスタンクの爆発か」という中に、「原子爆弾だ」と一人の理科生が叫んだ。…
 私は一九四四年、広島県福山誠之館中学校(現福山誠之館高校)五年生のとき、学徒動員で広島県の因島の占部造船所田熊で勤労に従事していた。その中学校から廣高(現「広島大学」に統合)に一緒に入学した三人の友人についての想い出は深い。入学したのは七月下旬、入学式には向洋から広島市の南の廣高まで歩いて行った。…
 広島は疎開が始まっていたけれども、空襲はまだ一度も受けてはいなかった。静かな町であった。この年の四月、入試のとき、私は母と二人で広島の町をあちこち散歩したものだ。私の母はかつて広島に住んだという。運命の八月六日、その日は工場は電休日で作業は休日であった。…当分の間、休みはないだろうというので、多くの学生たちはこの休みの日に早朝から広島へ外出していたのだった。
 私は前日の夕方、工場の作業を終えての帰り道、橋の穴にわらじばきの足が落ちこんで傷を受けていたので、外出をひかえて寮にいた。このことを一昨年オダネル氏(元米従軍カメラマン)に話したら、彼は即座に“You are lucky.”と喜んでくれた。
 原爆投下後、私たち残留の寮生たちは二班に分かれた。第一班はトラックに乗って被爆した広島の町へ行き、罹災した廣高生たちを探し出し寮へ運んで帰る。第二班は寮に泊まり連れ帰った被災した寮生の看病にあたる。私は第二班所属となった。…誠中から進学した杉原卓之君は、連れて帰る途中のトラックの中で息絶えた。…
 同じく誠中から進学した中島昭あきら君と安原克まさる君は、広島の練兵場に横たわっているところを発見され連れ帰られた。中島君はピアノが上手で、誠中の二階の音楽教室で、貴重な時間をつくってしばしば彼の名演を聴かせてもらった。…田熊造船所でも「現図」という同じ職場で苦楽を共にした。…美少年の彼が被爆から連れ帰られて寝かされた姿は、なんと目を蔽う惨状。黒い服を着ていたためか顔も真っ黒で焼けただれ、ほとんどしゃべることもできない。足の指にはうじがわいていた。手の施しようもなかった。
 安原克君は、この三人の中では一番体力があった。意識もしっかりしていた。彼は田熊時代は造船所のドリル班にいた。「わしゃ、広島へ行きとうにゃのう」(私は広島へ行きたくない)。彼のこの発言は今も私の耳に鮮やかに残る。自己の運命を洞察したのか。…いま彼が被爆して寮に連れて帰られて、私が尋ねたとき彼は言った。「内海、おまえは広島へ行かなんでよかったのお。わしはうっぴゃ悪いですなあ」(私は調子が悪い)。彼の会話には危機に直面しても、なおユーモアがあった。
 それから薬とて何ひとつない寮。先輩の佐藤氏(寮長)から私は、「おまえ、福山へ帰って彼の薬局に行って薬を持ってきてくれないか」と依頼された。そこで私はただちに九日、汽車に乗り福山へ急ぐ。その車中には兵隊さんがいっぱい乗っていた。その会話でソ連の参戦を聞いた。ところがその前日の八日夜には福山は焼夷弾の空襲を受けた。実は彼の父はリュックサックに薬を一杯詰めこんで八日の夜、向洋の息子のところへ行く準備をして福山駅の待合室にいた。そのとき突如、空襲が始まり、リュックサックをぶん投げて命からがら逃げたという。九日の夕刻、私が福山駅に下車し焼跡を歩いたとき、まだ火が燃えていたところもあり、熱気を感じた。彼の薬局も焼かれていたが、私は彼の家族に連絡ができて彼の弟(のち東大農学部助手)が翌日私に薬を持ってきてくれた。私はこの薬を持って気をはずませ向洋の寮に急いだ。寮の前で出迎えてくれた栂野氏(副総務)から聞いた。「中島君と安原君は亡くなりました」
 後から聞いた安原君の最後の言葉「みなさん、どうもお世話になりました。ありがとう」。…

 八月六日の夜日本製鋼所の第三報国寮で負傷者の看護のとき、広島の上空に敵機が現れた。「焼け残ったところをまた攻撃する」といって、人びとはいそいで近くの山に逃げた。おそらく被害状況撮影のために飛来したのであろう。被爆直後、爆心地では泥の黒い雨が降ったという。焼け残りにさらに油をまいたとか、これは高熱直後の反応の降雨のことだったのか、恐怖からのさまざまなうわさが飛んだ。
 小さい山に避難したとき、上野教授(物理)のお母さんがおられた。「倒壊した家屋から逃げ出すとき、娘が『お母さん 助けて!』と泣き叫んでいたが、火がまわってくる家屋の下敷きの娘をどうすることもできないで、ひとり逃げてきました。あの娘の悲鳴が、いまも耳から決して離れない」。

※著者註
 昭和11年頃の福山市街地図を参考にすると安原薬局は現在の大黒町1‐25辺りにあったことになる。

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青春風土記 旧制高校物語3(週刊朝日編 朝日新聞社 1979年)

2012年08月05日 | 書籍
岡山に第六高等学校が誕生したのが明治33年(1900)。それから24年後の大正13年(1924)に広島高等学校が開校した。街の規模から考えるとこの順番は極めて不思議であるが、実は誘致合戦で岡山に敗れた経緯があったのである。久々に旧制高校物語を読んでみたところ、参考になる記述があるので紹介しようと思う。

広島高小史
 広高が設立される前の広島市には、高等師範と高等工業があったせいか、高校の誘致運動はあまり盛んでなかった。第五師団司令部があり、むしろ、軍都としての色彩が濃かった。日清、日露、第一次世界大戦から満州事変へ至る間、広島の外港宇品は兵員輸送の重要な拠点になっていた。…
 大正十三年春、広高は姫路高とともに大正時代最後のネームスクールとして発足する。…
 市の南郊皆実に校舎が建てられ、文甲八十、同乙四十、理科の甲乙がそれぞれ四十人ずつの二百人が入学した。広島県下を中心に中国筋、四国、関西などの出身者が大部分を占めた。昭和二年、第一回卒業生百五十四人が巣立つ。四十六人が落第または中退した計算になる。気候が温暖で、山の幸、海の幸にも恵まれていたので、校風はおとなしく、中都市型の秀才が雲集した。…
 文化界で名を成した人が数多い…国際的な建築家丹下健三、作家阿川弘之(昭15・東大文)、東映社長岡田茂(昭19・東大経)…
 官僚になった者…文部事務次官木田宏(昭16・京大法)や前通産事務次官小松勇五郎(同・東大法)らは、広高時代、ともに哲学青年だった。卒業生の数は昭和二十四年修を入れて四千八百人足らず。

昭和20年(1945)夏、広高の新入生は学び舎を離れて日本製鋼社の向洋(むかいなだ)工場に学徒動員されていた(また戦局悪化により高校2年で繰り上げ卒業となっていた)ことがわかる。歴史にもしもは禁物であるが、8月6日(月曜日)に工場が稼動していればと考えずにはいられない。2年生の厚意が結局は仇となってしまったことを誰が責められようか。生死を分けたのは運であった。

光と風
 広高を語るとき、忘れてはならないのは「原爆」との関係だろう。広高同窓会名簿をひもとくと、逝去者の欄に「原爆死」という活字がいくつも目にとび込んでくる。数えてみたら、四十一人もの被害者がいた。
 広高の場合は第一回生の新延誉一(昭2・京大経)から昭和二十年夏の入学者までを含んでいる。ただし、卒業していない人たちの名前は、同窓会名簿には載っていない。四十一人の犠牲者というのはあくまでも卒業生に限っての話である。広高同窓会の常任理事・大同物産社長土井田登(昭10・京大法)は、こう説明する。
 「昭和二十年の広高入学者は、工場動員などの都合で、八月一日に入学が延期されていた。彼らは入校後一週間もたたないうちに原爆に見舞われた。同級生たちはおたがいに顔もよく知らないうちに友人を失っている。その数はおよそ七十人といわれているが、いまでもはっきりしていない。わかっているのは理甲の吉田一夫だけである」
 わたしは関係者の姿を求めて広島市内を歩いた。西川ゴム副社長西川公平(昭22・京大理)…に会い、当時のもようを聞き出すことができた。
 西川は二年生で寮長をつとめていた。三年生は卒業していた。七月五日、緊急短期動員の名で、市の郊外にある日本製鋼所へ移った。八月一日の入学式を待たないで、二十五人ほどの一年生がやってきた。七月二十五日ころには、一年生の数も五十人くらいにふえていた。
 八月一日、全入校生が皆実ヶ原の校舎に集まり、入学式が行われた。その夜から二年生の寮委員と一年生の全員は、日本製鋼所の寮で寝食をともにする。…
 貧しい食事だった。朝はイモがゆ、昼と夜は脱脂大豆のまぜめしが主食。四、五日もたつと新人の寮生たちは、たちまちホームシックにかかった。八月五日は日曜日。翌六日は日本製鋼所の休電日なので仕事は休みになる。西川ら寮の委員たちは、五日の夜、全員が集まり、新入生を一日だけ自宅へ帰すかどうかについて協議した。
 つまるところ、帰したほうが栄養もとれ、その後の作業の能率向上に役立つとの結論を得た。委員全員とまだ入寮宣誓式を終えていない少数の一年生だけが寮に残った。八月六日の広島の空は抜けるように明るく、青かった。午前八時十五分、寮では紅白の幔幕を張りめぐらした一室で、ささやかな宣誓式が始まっていた。
 一瞬、閃光が走った。みんなで明け放たれた窓から広島市の上空を仰ぐ。巨大なキノコ雲が望まれた。十秒ほど間をおいて強い爆風が起こり、窓ガラスが飛び散った。みんな、反射的に遮蔽物の下に身をおく。はじめのうちは、白島にある火薬庫がなにかの事故で爆発したのかと思った。
 どのくらいの時が流れたのだろうか。破れた衣服を身にまとい、全身に火傷を負い、青黒い顔をした被爆者たちがつぎつぎに寮に入ってきて、助けを求める。時計の針は午前十時を指していた。
 夜になって、三十人ほどの負傷者が帰寮した。帰ってこなかった者は百六十人余。一週間たっても七十人前後が行方不明のままで、その名前はいまもってわからない。
 「あのとき、なぜ一年生を帰したのかといまなお後悔している。寮へ帰ってきた負傷者のうち、何人かは死んだ。われわれは一年生たちがまだ覚えていない『春洛陽の』という惜別歌をうたった。のどの奥から『散りて惜しまぬ青春の』の歌詞をしぼり出すときの悲しさは、この世の地獄を体験した者にしかわからないだろう」
 西川は低い声でいい、顔を伏せた。

旧制広島高等学校跡地を望む

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全学連と全共闘 / 伴野準一(平凡社 2010年)

2012年02月26日 | 書籍
昭和40年代初頭の学生運動のピークから急降下への過程は私も知っているが、それ以前のドロドロとした内情を知る上で貴重な書物である。いわゆる難解専門用語を極力省いているので読みやすい。

著者は1961年生まれで学生運動に熱中した(そして失敗の総括をあえて避けた)世代にはすこぶる冷淡である。これには私も共感を覚えた(笑)。呉市出身の小川登(元桃山学院大学経済学部教授)の発言「(革命家は)ドンキ・ホーテや」が興味深い。

 ベトナム戦争は泥沼化していた。各地で反戦運動が広がっていた。三里塚闘争があった。世間は騒然とした空気に包まれていた。そこに新左翼運動が広がっていた。
 街頭闘争に参加したセクトの学生たちの多くが、プロレタリア革命の実現を真に信じていたとは私は思わない。彼らの心の中心にあったのはベトナム戦争に加担している日本という国に対する怒りだった。…

アジテーターは軍国主義者同様引き際を誤り自滅の道を辿る。これは歴史から謙虚に学び、己の器(の小ささ)を知ることのできない者への運命とも言えよう。

 …思いっきりやってきなさい、暴れてきなさいといわれて、学生たちは街頭へと躍り出ていったが、彼らの反社会的な行為を正当化し、過激化させたのもまたプロレタリア革命幻想である。騒乱は大きければ大きいほどよい。そこに革命蜂起への糸口があるからだ。
 だが、いつまでたってもどれだけ暴れてもプロレタリア革命は近づいてこない。…いまさら運動をやめるわけにはいかない。もう引き返すことはできない。彼らにできることは、ただ闘争を過激にエスカレートさせることだけだった。新左翼運動とは、若者の正義感を狂気とテロリズムへと追い込む悪魔の道だったのではないか。

 …新左翼運動…その三分の一は正義であり、三分の一は大いなる錯誤であり、三分の一は狂気だった。そして最後には内ゲバと爆弾テロへと落ち込んでしまった。それが…終着点だった。

私が通った中学には激しい学生運動に身を投じた後足を洗い教員になった男がいた。彼は自分の所業を美化することはなかった。むしろ過去を静かに反省しているように私には見えた。彼の口癖は「周りに迷惑をかけるな」だった。「俺の授業は面白くないから寝てもいい。ただしおしゃべりはダメだ」と言うのだから不良の受けも良かった。生徒と一緒にサッカーボールを蹴る時のその教員の目は輝いていた。かつて仲間と美しい理想を語り合った夢のような時間を思い出していたのかもしれない。

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革新幻想の戦後史 / 竹内洋(中央公論新社 2011年)

2012年02月25日 | 書籍
私が大学に入った昭和の末、丸山眞男は既に過去の人だった。一般教育過程で文系の学生と一緒に政治学や社会学などを聴講していたが、丸山の名前が出てきたことは記憶にないのである。彼の存在を知ったのはかなり後のこと、竹内洋さんの著作を読むようになってからだ。

竹内さんの新作は丸山の思考的甘さを様々な視点から炙り出した上で極めて冷静に批判している。出版後、新聞各社が取り上げたように戦後の進歩的文化人の転落の歴史を学ぶには最適の教科書となるだろう。

 …丸山眞男の「超国家主義の論理と心理」にはじまる論考が「過ちを二度とくりかえすまい」という悔恨共同体のバイブルだった…

 丸山は『日本の思想』(一九六一年)のなかでコネや人的つながりによる日本社会の特殊主義をさんざん非難しているが、…普遍主義を唱えながら、所属集団(東大)については例外とする処理の仕方こそが日本的病理ではないか、とさえ思えてくる。

 …丸山の敗戦感情が一般の国民感情とかなりちがっていたことは、敗戦直後の世論調査に明らかである。
 敗戦直後の『日本が降伏したと聞いた時、どのように感じたか?』という質問の回答では「残念・悲嘆・失望」三〇%、「驚き・衝撃・当惑」二三%、「安堵感・幸福感」二二%、「占領下の危惧・心配」一三%、「幻滅・苦さ・空虚感など」一三%、「恥ずかしさとそれに安心感など」一〇%、「予期していた、など」四%、「天皇陛下に申し訳ない、など」四%、「回答なし、ほか」六%(合衆国戦略爆撃調査団『日本人の戦意に与えた戦略爆撃の効果』)である。「残念・悲嘆・失望」と「驚き・衝撃・当惑」が多数を占めている。
 戦中を「暗い谷間」どころか「恐怖」で生きた丸山に即して見れば、敗戦は、国体からの解放だった。日本の敗北こそが解放と自由だった。そういう丸山にしてみれば、敗戦で「爽快な風が頭のなかをふきぬけた」ように感じ、「悲しそうな顔をしなけりゃならないのは辛いね」という同僚兵士の言葉に「よく言ってくれた」と言ったのは、いつわらざる感情吐露ではあったろう。しかし敗戦をめぐっての感情には丸山と一般国民の間にはかなりの距離があったことは確かである。
 であるから、丸山の敗戦後の知識人の悔恨共同体論は、敗戦感情の複数性への目配りが欠けている。それどころか、戦闘体験をもたない戦後派は敗戦感情を言説によって知る以外にないから、そうした世代の読者に、敗戦感情の複数性を見えなくさせる遮蔽幕効果をもたらした。

 敗戦感情の複数性への遮蔽効果は、一九四九年に刊行され、空前のベストセラーとなり、映画化もされた、戦没学徒の手記『きけわだつみのこえ』についても言える。この有名な書は「反戦」派か「リベラル」派の学生の手記のみが選択されてできたものである。「殉国」派学生の手記は意図的に選択されなかった。こうした手記を含めた悔恨共同体の輿論(意見)と世論(気分)は、戦前期の学生がはじめから反戦派ないしはリベラル派であり、「殉国」派ではなかったとして過去を捏造してしまうものであった。こうして、二度と戦争は起こすまいという侵略戦争の悔恨だけが複数の敗戦感情を押しのけていったのである。死者を正当に弔うとして感情のポリティクスに勝利した。そうして革新幻想を戦闘体験のない若いインテリの間に広めた

 …一九五〇代後半は、スターリン批判やハンガリーやポーランドの民衆蜂起、六全協…による日本共産党神話の崩壊などによって、マルクス主義も、一枚岩的な絶対的信仰の対象ではなくなってきた時代である。「進歩的文化人」という言葉が嘲笑的に使用されだしたときでもある。「世界」族に代表される革新幻想の翳りは、社会主義国や共産党神話の崩壊だけでなく、前章でふれたように、花より団子(実益優先)の消費社会がはじまったことによるところも大きい。

更に潮木守一の高校時代の回想を引用して戦後民主教育の如何わしさについて触れる手法が見事である。私は笑いをかみ殺しながら即席の制度が粉砕される一節を読み、自分が屑高校で強制的に受けさせられたナンタラ教育の実態と若干似ていると思った。私達も理想(正確には歪んだ考え)を一方的に押し付けられるのは嫌で中には教師に抵抗を試みる者もいた。悲惨だったのは偏向教育を指摘された教師が反論すらできずに逆ギレしていたことだ。

 …潮木守一は、『京都帝国大学の挑戦』などの名著があるすぐれた教育社会学者である。前節で詳しくふれた牧野巽教授、清水弘助教授のもとで教育社会学を学んだ。潮木は、一九五三年に東京大学文科一類に入学する。…就職にもっとも有利な法学部や経済学部への進学を止めて、わざわざポツダム学部である教育学部に進学する…
 潮木の近著に『いくさの響きを聞きながら』がある。そこに潮木の敗戦後の新制高等学校時代のことが書かれている。
 文化祭の催しで、同級生がどこからか借りてきたという記録映画「日本破れたれど」を観ることが提案された。学校側は、これは「逆コース」-公職追放されていた戦時中の指導者が追放解除され、再軍備が言われ、時代劇など戦前日本文化が復興した時勢について一九五一年一一月の『読売新聞』の連載が命名した用語-路線の映画ではないかと難色を示したが、誰も観ていないだけに、結局は校長も一緒にその映画を観るということで許可された。映画は真珠湾攻撃からはじまり、やがて神風特攻隊のシーンになった。ほとんどの特攻機は敵軍艦から雨あられのように浴びせられる砲弾で木っ端微塵になり、海に落ちる。英雄から程遠い、無残な死。そんなシーンをつづけて観ているうちに、生徒のあいだには期せずして大合唱が起きる。「当たれー!、当たれー!」……。
 このままおわれば「校長先生にお説教をくうだろうな」とその場の誰しもが思った。しかし、映画がおわると、校長は何も言わずに、そっと退席してしまったのである。なぜ、校長は黙って出て行ってしまったのか。なぜ、生徒のあいだに「当たれー!当たれー!」という叫び声が沸き起こったのか。
 潮木はつぎのように言っている。
 たしかに我々の学生は、戦後占領下で始まった新しい学校制度の第一期生だった。新制中学では民主主義を習い、平和教育を学び、男女共学を体験した。新しい時代は、戦前、戦中にない明るさと朗らかさがあった。戦争はいけないことだというせりふは、耳にたこができるほど聞かされていた。戦争を讃美することなど、もってのほかと叩き込まれていた。その戦後教育の申し子ともいう我々が、なぜ特攻機に向かって「当たれー!、当たれー!」と叫んだのか。その時、付け刃の民主教育、平和教育は、ものの見事に砕け散ったのである。それ以来、我々は自分の身の丈を越えたものは信じなくなった。(前掲書)
 潮木は戦後、進歩的教育学者の牙城東大教育学部に進学しながらも、三Mに代表される進歩的教育学者たちの授業はほとんど受講せず、独自の学を培った。わたしは、その理由の一端を潮木の近著から知り得たように思えたのである。…

作者自身の体験が随所におり込まれることでこの本は輝きを増しているように感じた。サブタイトルの【リベラルだが超俗的だった京大教育学部】や【「忌まわしきことは研究するな!」という風潮】はなかなか刺激的で面白い。終盤の皮肉は(既に存在意義を失った)虚臭・恫喝団体へ向けられたものと取れなくもない(笑)

 わたし自身もそんな教育学の雰囲気を感じたことはある。…二〇〇四年に、戦前、「思想検察官」と大学知識人に蛇蝎のようにおそれられ、嫌われた蓑田胸喜(一八九四~一九四六)の著作集を若い研究者とともに復刻した(『蓑田胸喜全集』全七巻)。全集販売促進のための広告パンフレットに推薦文を書いてもらいたいと思い、…わたしが個人的に尊敬する教育学者への打診をお願いしたのだが、結局、断られた。…
 蓑田のようなファシストの全集などいま読む価値はない、そんな全集を推薦するのは見識を疑うどころか、正気の沙汰とは言えない、という教育学会の雰囲気への気兼ねではなかっただろうか。しかしこれでは、ヒトラーの研究をする人はヒトラー信者であり、ファシズムの研究をする者はファシストということになる。忌まわしきことを口にすれば、忌まわしい事態がやってくるという未開社会的思惟様式そのものである。くさいものには蓋、でしかない。『蓑田胸喜全集』を一緒に編集していただいたメディア社会学者佐藤卓己は、マルク・ブロック『歴史のための弁明』からの一節を自著『言論統制』の冒頭エピグラフにしている。それはこうである。「ロベスピエールを称える人も、憎む人も後生だからお願いだ。ロベスピエールとは何者であったのか、それだけを言ってくれたまえ」

Ⅳ章:旭丘中学校事件、Ⅵ章:小田実・ベ平連・全共闘も読みどころ満載である。竹内さんは終章:革新幻想の帰趨でこう述べて愚民に警告を発している。

 原子化され、非合理化され、等質化された大衆が政治的に操作されて出現した、ナチス・ドイツに代表される全体主義国家は「大衆国家」と名づけられたが、いまの日本は幻像としての大衆からの監視による「大衆幻想国家」である。日本人の国民宗教や国民的教養だった「日本人らしさ」が霧散したあとに、「幻像された大衆」の予期や想定が代位されるまでになりつつある。だからこそ、身振りや感覚、発話が「上から目線」ではないかと自己点検される。「高い身分にともなう義務」ならぬ「大衆であることの義務」が前景化する。いまの指導者がポピュリズム狙いの「パフォーマンス」に走るか大衆圧力をかわす「保身」にだけ走りがちなのも、指導者の資質の問題というより、層としての中間インテリや中間エリートを欠き、劣化した大衆社会圧力によるのではないか。
 繁栄の極みにあった国が衰退し没落する例は歴史に満ち満ちている。衰退と没落の原因は各種各様であるが、ローマについては、パン(食料)とサーカス(娯楽)という大衆社会の病理により、漸次知的水準低下がはじまり、天才の焔は消え、軍事精神が消滅することで滅んだと言われる。その再現がいま極東のこの地で起こりかけてはいまいか。パンとサーカスならぬ「幻想としての大衆」に引きずられ劣化する大衆社会によって……。

本書はぜひ優秀な高校生・大学生(真のエリートの卵)に読んでもらいたい。分からない所がたくさんあるのは当たり前で、大切なのはそれをコツコツと調べる癖をつけることなのである。真の知識というものは与えられるもの(受け売り)ではなく、本来自らの努力と情熱によって掴む(様々なデータを集めて検証を行い消化する)ものだ。ニセモノを見抜き己にとっての害毒を撥ね付ける能力はこうした地道な作業を通して身につくと言ってもよい。左おねじり的思考から一向に脱却(また大失敗の反省も)できない50代以上の連中が既に手遅れなのは先に述べた理由から明らかであろう。

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京都帝國大學の挑戦 / 潮木守一(名古屋大学出版会)

2012年02月10日 | 書籍
「キャンパスの生態史 大学とは何だろう(昭和61年)」を読んだ私は潮木守一(昭和9年生)という学者に興味を持った。明治44年7月に東京帝国大学法科大学(当時は9月入学)を卒業した人が遺したノートから帝大における筆記学問の実態を検証する件が秀逸だった。

彼の力作と言われる「京都帝國大學の挑戦(昭和59年)」にも目を通したくなったのは自然であろう。私は大学生協書籍部を通して取り寄せることにした。東広島市で生活していた頃の話で、おそらく年号が平成に変わってまもない時だったと思う。

本が入荷するまで1ヶ月以上要したが、待っただけの甲斐があったと心から思えた内容だった。だからこそこの本は今も書斎に置かれている。簡単に中身について触れておこう。

京都帝国大学の創立は明治30(1897)年、法科大学(現在の法学部に相当)の開設は明治32年9月であった。東京帝大法科が高級官吏養成校としての色合いを増し学生に「暗記学問」を強いるのに対して後発の京都帝大法科は「自治自修自制の精神」を重んじ独自の路線を進もうとした。一時期3年制を導入し(東京帝大よりも卒業が1年早くなる)旧制高校の卒業生を集めることに成功したかのように見えたが、東京帝大と比べて高等文官試験合格率が著しく低いことを批判され始める。

官僚を目指すには京都帝大法科への進学は不利と判断する高校生が増え入学者は減少。独自路線は行き詰まり明治40年に東大の軍門に下ることになる。

潮木は結果的には失敗に終わった京都帝大法科の挑戦は非常に意味があったと最後にこう書いている。

 …京大の教授は…東大を前にして、敢えて、それに対抗する教育システムをもって、東大に挑戦しようとしたのである。
 たしかに彼らは、それまで…築き上げてきた京大独自の教育体制を、一旦は断念せざるを得ない立場に追いこまれた。しかし、彼らが企てた挑戦は、それで終わった訳ではない。彼らが身をもって、後世に示したのは、大学間の競争が大学の腐敗、退廃、おごりを防ぐうえで、いかに貴重であるかの一点である。
 …その後、大学教授が政府官僚のポストを兼任することは、なくなったが、「官」そのものは、さまざまな装いのもとに、多様化して、生き続けてきている。そのことを考えれば、彼らの提起した挑戦はいまだに終わっていないことになる。大学とは何をするところなのか、大学教授とはいかなる存在なのかは、依然として問いを残した課題だからである。
 創世記の京大法科をめぐって、このような事件のあったことは、いまや次第に人々の記憶のなかから消え去ろうとしている。考えてみれば、嚇々たる成功談は後世に語り継がれるが、圧殺に終わった悲劇は、あまり語り継がれることはない。その意味で人間の記憶とは自分勝手であり、歴史とはそれだけ無情である。しかしこうした自分勝手な人間の記憶に挑戦し、無情な歴史に敢えて反抗を試みるのは、後世に残された者の課題であろう。たしかに死者は語らない。しかし、後に残された者が懸命になって語りかけた時、死者はその重い口をわずかに開くことがある。そのわずかな期待が、著者をここまでつれてきた。果して死者の重い口を、どこまで開けることに成功したか。読者の批判を待ちたい。

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福山案内 / 鳥山一郎(大正版:一九八〇年九月一日復刻)

2011年11月25日 | 書籍
深安郡福山町が福山市となったのは大正5年(1916)年7月1日である。大正期の福山の様子を知る上でこの本は必須アイテムと言える。折り込みの案内地図を見れば現在の町名とは大きく異なっていることが一目瞭然だ。復刻されたハンドブックには多くのジャンルの店(病院を含む)が広告を出しており、戦前の市街地図を広げて所在を確認するのも面白い。

福山市の中枢部は昭和20年(1945)8月8日の空襲によって丸焼けとなり、多くの人命と文化財を失った。米軍は重要とみなした都市を計画的に爆撃して潰したのである。敗戦後は広島市や呉市と同じようにほとんどゼロからのスタートであった。

先人たちの情熱と努力によって新たな街が出来上がり、後に広島県第2の都市(現在の人口は約46万)へと発展する。岡山との県境に位置する城下町(備後10万石)が急速に飛躍したのは、日本鋼管(現JFE)を誘致したことが大きい。もう1つ忘れてはならないのが、暮らしやすい街ということである。のぞみが停車する福山まで近隣の市からわざわざ買い物(あるいは飲み)に来るのも頷けるのだ。

謙虚さを常に忘れず欠点を少しずつ克服してゆくのが備後人の良いところだと私は思う。戦前から伝わる古き良き文化を大切にしながら新たなものを生み出す中核市であって欲しいものだ。

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阿比留瑠比 / 政権交代の悪夢(新潮新書417)

2011年05月07日 | 書籍
5月1日の産経新聞の新刊レビューを見た私は駅前の書店までわざわざ出かけた。首相会見の質疑応答で菅さんをムッとさせた阿比留瑠比さんが書いた本を買うために。

本書は9つのパーツから構成されており、各タイトルはなかなか刺激的だ。

第1章 大いなる不安
第2章 隠された本質
第3章 舞い上がり、甘え、驕り
第4章 宇宙人の非常識外交
第5章 小沢とカネ問題
第6章 ルーピーの退陣
第7章 究極の55年体制、完成す
第8章 軽蔑される首相
終章 焦土にて

本題に入る前に阿比留さんは「はじめに」と題して読者に問いかける。

 政権交代とはいったい何であり、どんな意味があるのか。
 民主党に、本当に政権を担う準備と資格はあるのか。
 政権交代によって日本はどう変わり、どこへと向かうのか。

的確で辛らつな指摘が随所に盛り込まれ一気に読ませる内容だ。悪い所は明確に批判しなければ気がすまない点は備後人の性格と似通っているようにも思う。「マンセー」ばかりが聞こえた平成21(2009)年の秋は今から思うとただの「裸祭り」であった。その後片付けが一向に進まないのが現状であろう。終章では冷めた目で与党をこう分析している。

 彼らの国家観なき政治の出発点には、国家の否定があるのだ。
 「国というものが何だかよく分からない」(鳩山)とすら言ってはばからない民主党政権によって日本が壊されていったのは、あるいは当然のことなのかもしれない。彼らの言動からは国家に対する歪んだルサンチマンが漂う。
 一方、東日本大震災をきっかけに浮かび上がったのは、国家という共同体の枠組みの重要性と、それがきちんと機能することがいかに大切かということだった。国民がそのことを再認識した意義は大きい。

読了後、小説「三四郎」のある場面が頭に浮かんだ。遊び人の佐々木与次郎を阿比留さん、そして小川三四郎を国民に置きかえてみれば面白かろう。

※ 夏目漱石の小説『三四郎』の中に、地方から上京して大学に入学した三四郎が毎日まじめに登校して週四十時間も講義を聴いていると聞いて、友人の与次郎が「下宿屋のまずい飯を一日に十ぺん食ったら物足りるようになるか考えてみろ」と警句を吐くところがある。
※ 上村行世 / 戦前学生の食生活事情(三省堂選書172 平成4年)

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堕落した日本人、もっと堕落した中国人(正論 平成23年2月号)

2010年12月31日 | 書籍
過激な発言で有名なお二人、加地伸行さんと石平さんの対談が読みたかったので購入した。予想よりはトーンを抑えてあったが、言っていることはキツい(笑)

加地
 …石平さんは、日本に帰化されて何年になります?

 平成十九年十一月に国籍を取得しましたから、日本人四年生になったばかりです。
加地
 いざ日本人になってみると、これまで気づかなかったような日本のおかしなところも見えてきて、後悔することもあるのでは?

 とんでもない。私にとって日本は、心の安息の地です。もっと早く帰化すれば良かったと思っているほどですよ。

加地
 …日本人はもともと、中国に対してある種の幻想を抱いており、現実のマイナス面を見ようとしない傾向があります。

 とくに左派系の人たちは、その傾向が顕著ですね。
加地
 いや、彼ら左派系は社会主義体制を礼賛したいのであって、実は中国のことなど何一つ分かっていないし、分かろうともしていないと私は思っています。むしろ問題にしたいのは、保守系の中にも、中国に対するものの見方が極めて甘い人たちが少なくない、ということなんです。…中国のエリート層には孔子や孟子のような仁者が大勢いるはずだなどと、呆れた妄想をしている人もいますから。

 …日本人の中国に対する誤解と妄想は、ずっと昔から、江戸時代以前からあったのではないでしょうか。…
加地
 おっしゃる通り。…まずは現実の中国人と私たち日本人とは価値観も思考回路も全く異なるということを、十分に知らなければなりません。


 …戦後の自虐的な歴史教科書が日本人に及ぼした悪影響は、計り知れません。
加地
 教科書の罪は大きい。いくら孫たちに「戦前の日本はいいこともしたんだよ」と教えても、「大好きなおじいちゃんの言っていることより教科書に書いてあることの方が本当っぽい」ということになります。いずれにせよ、日本国憲法が歪んだ個人主義、すなわち利己主義を前面に押し出し、戦後の教科書も似而非(エセ)個人主義で塗り固められてしまったから、もともと家族主義であった日本人の道徳心が崩れてしまったんです。

 自明の理だったんですね。婚姻の際に親や家族の意見を尊重するのは。すると、日本人が道徳心を取り戻すには、憲法二十四条を改正もしくは撤廃する必要があると…。
加地
 結局のところ、憲法改正しかないんです。まずは二十四条。次いで九条。


 王朝が代わっても庶民の生活スタイルは変わらない。…
加地
 庶民にとって皇帝とその王朝は帽子のようなもので、風に飛ばされても大して困らない。

 ええ。しかし、共産党の一党独裁体制になってからは、このスタイルが大きく変わってしまったんです。
加地
 文化大革命はひどかった。

 権力欲にとりつかれた毛沢東が、中国の良き慣習を何もかも滅茶苦茶にしてしまいました。私自身、「毛沢東の小戦士」として恐ろしい洗脳を受けていたのです。あのころのことは思い出したくもありません。
加地
 それに、共産党官僚は科挙官僚のような試験合格者ではなく、貧農出身だとか、無試験の連中やその子弟ですから、随分と劣悪なのが多くて、私利私欲の組織となっていますね。

 全くそうなんです。

加地
 …中国人の道徳心は…。

 堕落の極みですね。拝金主義がはびこり、金銭のためだったら何でもやるという中国人があまりに多い。一人っ子政策で甘やかされて育った最近の若者たちは親の言うことを聞かず、先祖に対する畏れも知らない。非道な犯罪の増加は、日本以上に深刻です。
加地
 どうすれば道徳心を取り戻せると?

 …少なくとも現在の共産党独裁が続く限りは、中国人の道徳心は堕落し続けることでしょう。

加地
 …外から伝えられるものは多分いいものだろうということで、消化不良のままゴチャゴチャにして受け入れているのが、日本の現状だと思うのです。ここら辺で一度国を閉じて、日本ならではの文化、日本ならではの道徳を、しっくり見直すべきではないでしょうか。

 賛成。とくに中国とは縁を切ったほうがいい。現在の共産党独裁の中国から伝えられるものに、いいものなど一つもありませんから(笑)。

中国の抱える深刻な問題が日本のそれとダブって見えるのは非常に恐ろしい。特に悪平等主義と拝金主義の広がりにはうんざりする。某役所や某公立学校の職員採用に裏があるのは周知の事実であるし、それが利権と性犯罪の温床になっていることは否めない。点在する肉腫を速やかにメスで削ぎ取らねば我が国の再生は極めて難しい。民の声が届かない政に終止符を打つ時期である。

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ビデオ流出で問われるメディア終焉 / 水島総(WiLL2011年1月号)

2010年11月30日 | 書籍
WiLL新年特大号はお目出度い人達に関する記事満載である。肥船政府批判をここまで行って「発禁」にならないところが日本の良さであろう(笑)。私が最も秀逸だと思ったのは水島総さんの文章だ。

 一体なぜ、尖閣の漁船衝突ビデオの「流出犯人」は、大新聞やテレビメディアに映像を提供せず、インターネット上に自力で流出させ、流布させたのだろうか。この事件は、ひたひたと迫り来る戦後マスメディアの終焉を改めて告知している。
 インターネット動画配信は、(中略)映像情報を提供する無敵の配信手段として、戦後マスメディアの情報サービスを圧倒的に凌駕している。(中略)ビデオ「流出犯人」は、この事実を明快に証明してみせた。
 同時に、テレビメディアがジャーナリズムとして機能不全に陥っていることも明らかにしてみせた。この意味するものは深く重い。
 (中略)
 テレビメディアの多くの人々は、まだ自分たちが映像情報の中心的、独占的機関であると、誤った自己認識のままでいる。冗談ではない。いまや独占的に中央から全国各所に情報を配信する(販売する)という発想のビジネスは、すでに終焉を迎えようとしているのだ。
 (前略)今回の事件は、映像情報の配信サービスの機能面だけでなく、現在のマスメディアに決定的に欠けている部分をも明らかにした。
 それは、ビデオを流出させた人物が志した「国民の知る権利」に応え、国民に本当のことを伝えようとする勇気と気迫と主権国家意識(愛国心)の欠如である。
 産経新聞等を除き、新聞もテレビメディアも、ビデオを全面公開せよと、民主党政府に「国民の知る権利」を強く主張できなかった。(中略)彼等には主権国家意識が決定的に希薄であり、国家間の問題に対する認識能力も想像力も欠けていたからである。
 (前略)以前、私は日本のマスメディアの人々が、左翼イデオロギーの立場から、意識的に売国行為を行っているのかと思っていた。
 しかし、最近、彼等がそんな高尚な思想からではなく、単に戦後民主主義に洗脳された「お花畑的日本国憲法」感覚で、中国について、少々まずい国だが、全体的には自分たちと同じ人間で、一衣帯水の隣国だと、本気で思っていることに気づいた。そして、恐るべきことに、政府も財界も、中国を「話せばわかる」相手だと本気で思っていたのだ。

メディアはすでに属国
 しかし、インターネットへの映像流出は、無惨な形で、菅政権の中国への売国と従属の実態、無能無策を浮き彫りにさせた。
 (前略)情報力を中心に戦略的に実行される外交安全保障について、彼らが全く無知、無能、無策であることを内外に曝け出したばかりか、こんな連中が、日本の国家権力を握っているという、まことに恐るべき事態を内外にさらしたことである。同様に、この無能無知蒙昧の連中と全く同じ類の人々が、現在のマスメディアや財界を動かしているという状況がある。

売国「三馬鹿トリオ」
 興味深いのは、マスメディアが作ったと言ってもいい民主党政権もまた、外国情報機関の諜報謀略活動をやりたい放題させ、スパイ天国日本の現在に痛痒も危機感も感じていないことだ。
 マスメディアの恐るべき知的水準の低下と劣化は、彼等のモラルや倫理意識の低下と正比例している。
 (中略)
 (前略)直視しなければならない恐るべき日本の現在である。

既存メディア(お抱え犬として主人の顔色を伺う)はもはや映像情報の中心的独占的機関ではなくなっているという彼の指摘は的を射ている。我々40代より下の世代はそのことを熟知していると思う。インターネットの力をあまりに軽く見ていた60代の政府高官らは「sengoku38」氏の仕掛けによって大恥を全世界に晒した、同時にタコすけコメンテーターを含むメディアも。

有益な情報はインターネット上により多く転がっているという事実を時代遅れの老人は認めたがらない。もちろん情報の9割近くは使えないものだが、眼力ある者はゴミの中から宝を見つけ出す。圧力を恐れてメディアが言及を避けたがる分野について活発な意見交換が行われているのは2ちゃんねる(掲示板)だ。世の中の恥部に目をつぶり情報規制をかけようとする連中は最も愚かで存在悪に近い。

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徹底解明!ここまで違う日本と中国 / 石平VS加瀬英明(自由社)

2010年10月26日 | 書籍
今年読んだ本の中で今のところベストである。中華人民共和国出身の石平さんは日本に帰化され討論番組にもよく登場して場内を沸かせる。日本と中国の恥部をこれほど赤裸々に描いた本も珍しい。ぜひ書店で手に取って欲しいと思う。

石平さんの辛辣な発言は含蓄に富み「友愛」という大甘の精神だけでは国を守ることは不可能であるのに気づかされるだろう。私が大爆笑した箇所を引用しておこう。

皇帝の下には使用人(官僚)と奴隷(人民)しかいない

 …草民という言葉に、中国の政治の本質がよく表われている。要するに、人民を草以上のものと、みなしていないですよ。刈れば、また生えてくるんですわ。だから、いくら殺しても、刈っても、構わない。
 …中国の政治は、二千何百年にわたって、儒教の有徳な政治と称しながらね、人民を草だとみなしてきた。残酷な政治ですわ。そこが皇室を中核として一体化した日本の政治文化と、根本的に違う。
 中国の皇帝にとっては、自分だけが主で、それ以外の人間は二種類しかいないんです。自分の手足としての使用人である官僚と、あとは奴隷としての人民です。
 中略
 中国では、最も徳を欠いた人間が、徳を独占する。そういうおかしな構図を、ずーっと、何千年間も続けてきましてね。その結果、出来上がった中国の社会構造と、国民性には、徳は最初から存在しない。…

反省なき劣等感が生む実りない攻撃と差別

 中国人は、本当の自分たちの文化や、伝統のよいところが、日本に生きていることも知らず、自分たちが中国のよいものを失ったことも知らないで、いつまでも、自分たちが一番素晴らしい、世界でもっとも優れた中華文明の継承者だと、鼻を高くしている。錯覚ですがね。日本人に古代からずーっと教えてやったと、錯覚している。
 逆に、日本もね、日本的な錯覚を犯している。日本人もね、いくら日本がよくなっても、素晴らしくなっても、成長しても、やっぱり自分たちが、昔は中国から教えてもらった!という、劣等感を、払拭できない。
 自分たちが、中国をはるかに越えているのにね。まだ、何か中国が素晴らしいと、どこかで思っている。こうした二重の錯覚が、日中間にあるんです。

毎日新聞(左寄り)と産経新聞(右寄り)を読むと中国問題に関するスタンスの違いがよく分かる。「何でもかんでもマンセーするんじゃない」という産経の論調が毎日を過剰に刺激していることは一目瞭然である(笑)。別に贔屓しているわけではないが、産経の方にやや分があると私は見ている。このバトルから日本国民は何を読み取れるだろうか?

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サンデープロジェクトと田原総一朗の終焉 / 水島総(WiLL2010年6月号)

2010年05月04日 | 書籍

最近、田原総一朗さんを見かけないなと思っていたら、何と看板番組が終わっていたとは…。私は水島総さんの文章を読んでその事実を知ったのである。

 一九八九年四月に放送開始以来、二十一年間続いていたテレビ朝日のサンデープロジェクトが三月いっぱいで終了した。メインキャスターの田原総一朗(敬称略)に対する好き嫌いや明らかな左翼的偏向はともかく、報道系のテレビ番組としては数少ないオリジナリティーのある番組だった。

 …テレビ番組は「結果」であり、視聴率によってスポンサーの付き具合が大きく左右される。サンプロの視聴率は、過去には一〇%越えもあったが、過去ニ十年間の平均で七・六%、最近は六・六%程度に落ちていた。スポンサーも、最近ではパチンコ屋や高利貸し(消費者金融)ばかりが増えていた。だから、テレビ局として、新番組を企画することもあり得るのである。

 田原は自分に賛同する協力者は番組内で持ち上げ、非協力者は番組で叩きまくるといった「愛と脅し」という、まるで地上げ屋か総会屋がやるような手口の取材やインタビュー手法を駆使し、かなり面白い番組作りをした。

 ジャーナリストとしての田原を批判しようとすればいくらでもできるだろうが、田原のようにありとあらゆる手段を使って日本の政治家や財界人の懐に飛び込み、彼以上に「マシ」な取材やインタビューをした人物はほとんどいない。

 「サンプロ」を典型として、戦後日本のテレビメディアはそういう反権力的物語を報道番組として装い、報道として、この左翼リベラル物語を推進してきた。

 戦後左翼の夢であり、中国、南北朝鮮の悲願でもあったこの物語は、ついに戦後六十四年にして民主党政権の誕生として、この日本において現実化し、実現してしまったのである。…

 その結果として、田原がメインキャスターを務める番組は、民主党政権誕生によって実は「物語」を失い、「敵」を失い、中身そのものが空洞化してしまった。

更に興味深い指摘が続く。学習能力の低い(一部の)団塊の世代が最も目にしたくない「現実」を赤裸々に語っている点は秀逸だ(笑)

 構造的に言って、田原やテレビ朝日は、民主党政権自体を敵にすることはできないが、このハッピーエンド物語をぶち壊す事態が起きた。鳩山や小沢という正義の主役のはずが、実は旧態依然の金権腐敗にまみれた「悪代官」と無能な「バカ殿様」だとばれてしまったのである。

 それは、これまでの「物語」、すなわち、戦後日本が生みだした小泉劇場も民主党政権交代物語も全て幻想物語であり、空しき虚構そのものであったことが、日本国民に完膚なきまでにバレてしまったのである。

 今、民主党政権の惨憺たる体たらくを通して日本社会に現出しているのは、戦後日本総体と、その象徴である日本国憲法が、偽善に満ちた美しい言葉だけの空虚な金権と、唯物主義を本質としていたことが暴露されている姿である。

 …マスメディアの「寵児」となった田原総一朗の終焉は、この戦後日本の終焉と軌を一にしている。

 同時に、テレビの報道番組がこれまで行ってきた偽善的な反戦平和の劇場型のエンタテインメントニュースショーの終焉をも意味しているのである。

  新番組「サンデーフロントライン」は、民主党新政権そのものの姿のごとく、きれいごとのリベラル姿勢では、もはや新しい危機の時代に対応できない日本と日本のマスメディアの姿を曝した。

4月17日に「帰化人に関する発言」で物議をかもした石原都知事にはしたたかな計算があったものと思われる。白昼、城の堀にナトリウムを投げ込むような荒技には苦笑したが、この問題について真剣に考え出した国民も多いはずだ。愚民に知恵をつける年寄りの存在というものは決して馬鹿にできないのである。

昨年の8月6日、広島市内で「ヒロシマの平和を疑う!」という実にスパイシーな講演会があった。講師の田母神俊雄さんは、核武装や憲法改正に関する持論を展開する中で、新政権は一年持たないだろうと発言した。実際に、言論弾圧を推進する(平成の治安維持法制定などを企む)香ばしい輩の寄り集まりは急速に支持を失い、既に救いようのない領域に到達しつつある。WiLL最新号の総力特集「新聞ではわからない沖縄」と「蒟蒻問答 第49回」は一読の価値ありと付け加えておく。

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WiLL2010年5月号(ワック出版)

2010年03月30日 | 書籍

我が国の「恥垢」特集なので購入した。私が通った高校にもこの雑誌に描かれたような教師がいたのである。学生よりレベルの低い大人を毎日目にするのは苦痛だった。人としてとても尊敬できない輩が大半を占めていたのは事実だが、僅かながら例外もいた。その男性教師は腐ったイデオロギーに簡単に染まった後輩を公然とこき下ろしていたので冷徹な学生には人気があった。

私は屑高校を去ってしばらくしてから骨のある教師の経歴を調べた。やはり前身の旧制中学を卒業したOBであった。彼は戦前の教育の良かった面やトンネルを掘らされていた人々の暮らしなどを時々語ってくれた。歴史を明と暗の両面から見つめることの重要性を知った。

話を元に戻そう。特に面白かったのは、言いたい放題の「蒟蒻問答 第48回」である。一部を抜粋させてもらう。

久保
 「非核三原則は大嘘、虚構だった」と盛んに言い立てているけど、ならば現実政治がそいういう選択を取らざるを得なかった戦後憲法体制そのものの大虚構を、なぜ批判の俎上に据えないんだ。それに眼をつぶって、非核三原則や密約だけを騒ぎ立てるのは、ちゃんちゃらおかしい。


 日本はアメリカの「傘の下」に入ることを選択してきた。もう「核の傘」は要りませんとでも言うのかね。一方で、「日米安保は日本外交の基軸だ」という。核ナシの機軸はあり得るのかね。要するに核については見ざる・聞かざる・言わざるで議論もしない-非核四原則に終始しているだけだ。
 一昨年だったかな、プーチンは言った。「核を保有しない国は主権国家の名に値しない」とね。だからイランも北朝鮮も「主権」を求める。立派なもんだ。
 …こういう状況下で、岡田の言っていることは、日本はフリチンで行きますという「フリチン宣言」だな(笑)。



 日本は日米安保で、アメリカの「核の傘」に入ることを選択したんだ。ならば、核が日本のどこにあろうが覚悟しなきゃいけない。イヤならイヤで、他の道を考えなきゃいかん。それもしないで、何をいまさら騒いでいるんだと言いたくなるね。

久保
 結局、民主党としてはいま大きな声で言えるのは、事業仕分けとこれくらいですからね。哀れなもんだ。

編集部
 密約の問題で、与党三党の国会対策委員長が会談して、歴代首相や外相経験者を衆参の外務委員会などに参考人として招致する方針を決めたそうです。


 バカじゃないの?(笑)。呼ぶ相手が違うだろう。いまもっとも国民が問題視しているのは、政治とカネの問題だよ。喚問するなら鳩山、小沢とその関係者だろうが!

久保
 一種の目くらましですよ。企業・団体献金禁止法案や密約問題で「歴代総理を呼ぶ」と騒げば、国民もマスコミも小・鳩金銭スキャンダルから関心が逸れるのではないか。つまり、それで世論を操作しようとしたんです。


久保
 民主党は日教組の不正献金問題が象徴的なように、口では「生産から生活重視へ」なんて言うけど、一皮めくれば旧社会党・総評華やかなりし時代への本卦還り、つまりタイムスリップでしかない。何も新たに産み出そうとしていない。


 民主党の企業・団体献金禁止について、亀井が「どうしてもやると言うなら、民主党だけが自粛すればいい話だ」と言っていたけど、その通りだね。問題なのは民主党のトップ二人なんだから。

久保
 小沢も小沢だけど、つくづく鳩山には廉恥心がないんだなと思いますよ。…キリスト教圏の国家の機軸のひとつには、そうした富める者たちの自戒・自制・自己犠牲・奉仕の精神があります。これはイスラム教圏や、日本の武士道にもあったものです。


 しかし、子ども手当てといい、農家戸別補償といい、銭をバラ撒く政党に票が集まることになったら、国はお仕舞いだよ。ローマ帝国はキリスト教に白蟻のように蚕食されて滅びた。キリスト教徒になれば税金を安くするというお触れがコトの始まりだ。
 「国は悪では滅びない。愚で滅びる」という格言がある。物事を正か邪ではなく、賢か愚で判断する、これは政治を考えるときの要諦だけど、いまは欲得に正邪の衣を着せて判断する風潮だ。由々しき時代だね。

久保
 …『鬼平犯科帳』で鬼平がこう呟いていますよ。
 「悪いことをしながら善いことをし、善いことをしながら悪事を働く。全く人間とは奇妙な生きものよ」

笑いこけながらも大いに考えさせられた。

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コメント
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