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寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

すき焼き通 / 向笠千恵子(平凡社新書)

2009年12月04日 | 書籍

なかなか面白い本だと思う。薀蓄だけに走らず「すき焼き」について真面目に考えているのがウリだ。私がこの本を購入したのはすき焼き十徳の十番目の文章が気に入ったからだ。

 ⑩値段が自由。最大要素の牛肉はピンキリどころか、ピンピンもキリキリもあるから、自分に合ったレベルを買えばいい。ここはまったくの自由裁量の部分である。

 …高ければそのぶんおいしいというのは短絡思考。たとえ牛肉店の主人だって、そんなことは言わない。自分の舌に合ったレベルの肉を、財布と相談しいしい選ぶのがコツである。-という結論を得たのが、わたしのすき焼き行脚であった。

日本人の安易な「和牛霜降り信仰」が一方では「偽装表示」を生む温床になっていることを我々はつい忘れがちである。本書ではいろんな部位を混ぜることによって「客の嗜好と懐具合」に応えようとする店がいくつか出てくる。千成亭(滋賀県彦根市)、ちんや(東京都台東区浅草)を紹介した欄は一読の価値がある。ちんや六代目社長・住吉史彦さんの発言を参考までに引用しておこう。

 「同じ商売 - たとえばすき焼き屋、うなぎ屋、どじょう屋が同じ地域のなかで何軒もやっていけるのは、それぞれの割り下の味が違うからだと思います。お客さまは自然に自分の舌に合う店を選んで通いますから、どの店もそれなりにやっていけるのです。同じ街に甘いすき焼き屋としょっぱいすき焼き屋の両方があっていいんですよ。『ちんや』は割り下が甘かったからこそ存在意義があって、つぶれずに残ってきたのではないでしょうか」

 「熟成することによって、肉のなかのたんぱく質がアミノ酸に変わり、また肉の水分が減るためにうま味成分の濃度が増すんです。それが牛肉のうま味の本質だと思います。脂肪(サシ)が多いと味はマイルドになりますが、脂肪それ自体がうま味に貢献しているわけではなく、あまりに脂っこいと、むしろマイナスの影響が強くなると思います」

肉に関してはいろんな考え方があるが、私は住吉さんの持論に賛同する者の一人である。同じ部位を食べ続けると必ず飽きがくる。だから味に変化をつけるために性質の違う肉を混合するのがポイントになる。やわらかい肉ばかりを食べていたのでは永久に牛の味を理解することはできぬということをこっそり教えてくれる良書だ。

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どくとるマンボウ青春記 / 北 杜夫

2009年11月19日 | 書籍

北杜夫(本名:斉藤宗吉)さんの自伝的小説を初めて読んだのは二十歳前後の頃で笑い転げたことをよく覚えている。今この本を読み返すと人生は悲喜劇の繰り返しだという思いを強くする。小説の冒頭には実に意味のある言葉が並ぶ。

 青春とは、明るい、華やかな、生気に満ちたものであろうか。それとも、もっとうらぶれて、陰欝な、抑圧されたものであろうか。
 むろん、さまざまな青春があろう、人それぞれ、時代に応じ、いろんな環境によって。
 ともあれ、いまこうして机に向っている私は、もうじき四十歳になる。四十歳、かつてその響きをいかほど軽蔑したことであろう。四十歳、そんなものは大半は腹のでっぱった動脈硬化症で、この世にとって無益な邪魔物で、よく臆面もなく生きていやがるな、と思ったものである。まさか、自分がそんな年齢になるとは考えてもみなかった。
 しかし、カレンダーと戸籍係によって、人はいやでもいつかは四十になる。あなたが二十七歳であれ、十五歳であれ、あるいは母の胎内にようやく宿ったばかりにしろ、いつかはそうなる。従って、四十歳をあまりこきおろさないがいい。そうでないと、いつか後悔する。
 人間というものはとかく身勝手なもので、私は五十歳になれば五十を弁護し、六十になれば六十を讃美するであろう。

北さんは敗戦の直前に旧制松本高等学校に合格し、東京を離れる。松本を選択した理由は受験倍率の低さもあったらしい。

旧制松本高等学校正門

 昭和二十年八月一日、新入生たちはヒマラヤ杉に囲まれた古風な校舎のある松本高等学校の門をくぐった。そして一場の訓辞のあと、校舎とは縁を切られ、そのまま大町のアルミ工場へと送られた。
 新入生を指導してくれる上級生はいなかったものの、しかし何人かの落第組がいた。このドッペリ生は、旧制高校の伝統をせい一杯に私らに伝えてくれた。大体ほかの学校では落第生は小さくなっているはずだのに、高校では彼らは大きな顔をし、堂々たる指導者なのであった。彼らは寮歌を教え、集会コンパを開くことを教えた。その多くは観念的な形骸で、今の世にもってきたら噴飯物であることも確かだが、それでもやっぱし何ものかが含まれていたと言ってよい。

この作品では主人公が蛮カラな先輩や同級生に囲まれて馬鹿をやりながら成長してゆく様子がユーモアたっぷりに描かれる。どんなに窮屈な時代であっても人は楽しみを見つけようとすることが読み取れて面白い。

 終戦から一ヶ月経ち、九月二十日、学校は再開された。私たちは今度こそ勉強を業とする学生として、ヒマラヤ杉の立ち並ぶ校門をくぐり、伝統ある思誠寮に入寮したはずだ。
 しかし、いくらも授業はなかった。半分は旧練兵場を畠にする作業だったり、休講も多かった。教師もまた飢えているのだった。

戦が終ってからも食糧事情はたやすく改善せず、学生は小粒のアマガエルの肉片をヒーターであぶり醤油をつけて食べたりもしている。

 毎度の雑炊がだんだんと薄くなっていった。それに箸を立ててみて、箸が立つときは喜ばねばならなかった。そのころ最大の御馳走は、固い飯のカレーライスだったが、それも米ではなく、コーリャンの飯であった。はじめ米とまぜて赤白ダンダラだったものが、ついにコーリャンだけの赤い飯になってしまった。
 食卓には大根などの漬物も出た。四人に一皿で、ちらと見てそこに十四切れあるとすると、なんとか体面を損わず、ごく自然に四切れを食べられないものかと、私は痛切に考えた。大根にはいくらかのビタミンがあろう。そして当時の私たちにとって、「栄養失調」という概念は今の世なら癌に当るのであった。

コーリャンは馬の餌である。それを弁当箱に詰めて疎開先の学校に持って行く毒蝮三太夫さんは心無い同級生からからかわれたと告白していたが、「食べられるものは何でも口にした時代」が我が国にもあったのだ。

 高等学校の寮歌では、青春とは、よく涙とか理想とか追憶とか戦いとか苦悩とか創造だとか歌われる。私の場合には、まず空腹があり、そのあとでようやく涙や追憶や創造が出てきたようだ。
 ともあれ、学校が再開されたその秋は、畠のネギを盗んできたり、柿を盗みに行ったり、そんなことばかり思い出される。盗むことを私たちは「パクる」と言った。「包むパッケン」からきた言葉らしい…

これを読めば昭和一桁生まれが「物を粗末にするな」と口すっぱく言う理由がよくわかる。私などは祖父母、両親から当たり前のように教えられた最後の世代であろう。その躾(しつけ)は今でも生きている。

旧制松本高等学校

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茶のこころ世界へ / 千玄室(NHK人間講座)

2009年11月14日 | 書籍

時々手に取って読みたくなる本が幾つか書斎にある。そのうちの一つをご紹介するとしよう。NHK人間講座「茶のこころ 世界へ」は2004年8月に発行されたもので当時著者は裏千家の十五代家元であった。利休の追い求めた世界を分かりやすく説明すると共に現代人へ苦言を呈している。

 茶道では、亭主と客が一体になるということをやかましく言います。亭主は客の心になり客は主の心になり、ということが主客互換、賓と主が一緒になるということです。お互いがお互いの心になりあう、ということをいちばん大きな道として教えるわけですので、そいういう意味からも、お茶によって悟りという境地に達するのは禅の悟りとほぼ同じであるということがいえるのです。

 利休が主張するわび茶についての思想的、哲学的な教えが、『南方録』という本に残されております。その冒頭に「家は漏らぬほど、食は飢えぬほどにて事足れり。薪水の労をとり、ただ湯をわかし茶をたてて、仏に供え、人にも与え、我も飲む。花を供えて香を焚き、これみな仏祖のあとを行なうものなり」と書かれています。

 家は漏らぬほど、食は飢えぬほどというのは、いうならば分相応です。人間にとっていちばん何が大事かと問われれば、人によって生きるための手段はいろいろあるでしょう。でも、その人、その人の生活というものは、他人が口を出せない領分でもあります。ではありますが、分相応という気持については、すべての人間が持っておく必要のある非常に大事なことであるといえます。それを利休は茶の湯の根本の思想として教えたわけです。それから薪水の労をとる。湯を単に沸かすにも、自分が薪を割って、そして炭を作って、その炭で湯を沸かして、ほどよい湯加減ができたところで、その点てた一服のお茶は、自分がさっさと飲むのではなくて、自分が自服するのではなくて、まず仏様にお供えする。今、自分がここにあるということは、ご先祖との長い長いつながり、さらに親とのつながり、兄弟、同胞たちとのつながりがあって、ここに生きさせていただいているということを感謝しなければならない。それがために、まず仏に点てたお茶を供える。そしてそこにいる人にも与えて、最後には自分がいただくという教えです。

 利休居士はここでいま一つ大切なことを教えます。それは、知足安分の教えです。…汗水たらして収穫したものをキリスト教では神にささげ、茶の湯では仏にささげるのです。そしてともどもにその収穫を喜び合ってお互いに分け合う、相手にまず差し上げる。一日の労をねぎらい、いちばん最後に自分がそれをいただく。…

 物質文化を謳歌する現代社会では、物のありがたみが失われつつあります。そして、足るを知らずに物質的欲望に走り、物質的欲望に振りまわされがちです。血眼になって、おのれの利益追求を際限なく展開します。そこでは手にした物質の代償として、精神の安定が失われていきます。…

 四百年前の身分の上下や立場をやかましくいった時代に、武士といえども帯刀をしたまま茶室に入ることは許されません。茶室の入り口には刀掛があり、刀をそこにおいて扇子一本で茶室に入るのです。小さな躙口ですから、入るときにはどうしても平伏しなければなりません。そのとき、人は自分の足下を見つめます。これは人間にとって大事なことで、自分を省みるという心が生じます。そこに心の転機があるのです。

 茶室に入った人は、いままで知らない者どうしでもそこに座った以上は深い人間関係を持つようになります。そのつながりというものは一碗のお茶ではありますが、人間が人間に対し、相通じあってゆく道が自覚できるわけです。すべてが傲慢になってしまった現代人にとって切磋琢磨の行為は最も大切なことではないでしょうか。

 最近はグルメになって懐石といっても贅沢すぎますね。懐石というのは旬のものを本当に、さっと差し上げるということです。

 人間には出会いというものが非常に大事です。世界中のどこの国の方々とも、言葉ができなくても、出会い、触れあうことが大切です。同時に、お互いの心が癒されるということのために、この一碗の茶を点てさせていただきますという気持ちで点てています。

 神仏に供えるのと同じように、人間はみな貴人、みんな尊い人だと思うのです。だから、みんな尊いという気持でお互いが接したならば、忌まわしい事件は起こりません。人の心が驕り、自分たちの主張だけが正しいと思ってやっていくと、人間を不幸に落としてしまいます。

 人間どうしは本当につまらぬことでいさかいをしたり、他愛もないことで争います。そんなことより大きな気持を持って、お互いのやっていることを見守ってあげよう、理解してあげよう、近づいていってあげようという気持がなければならないと思います。

頭から湯気を出している西方の山猿さん、理解できたかい。歪んだイデオロギーにとらわれていては進化しないよ。答えは複数あるから面白いんだと私は思う。

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料理のコツ / 秋山徳蔵(有紀書房)

2009年08月26日 | 書籍

昭和天皇の料理番は名著をいくつか遺しているが、今回は「料理のコツ」をご紹介しよう。獣肉類の一節にこういうのがある。

…肉を買うのに、ミエを捨てることである。いるものを、いるだけ買うことに徹することである。前の奥さんが上肉を買っていたので、「並肉を-」といいかねて、二〇〇グラムや四〇〇グラム買うという傾向が多分にある。こういうミエとムダを捨てないかぎり、貧乏はいつまでもつきまとうものと考えていい。家の貧乏も、国の貧乏も、両方ともだ。

 資源の乏しい国に生まれて、応揚ぶるなんて、まったくおかしなことではないか。ドイツの主婦みたいに、自分たちのおかれている位置をよく確認し、頭を働かせて、ものを完全に利用するという精神、それがあってこそ自力であれほど目覚しい復興ができたのだ。アメリカ流の消費経済の真似をするようだったら、日本はいつまでも自力で立ってゆける国にはなりきれないだろう。

 すべては、家庭からだ。家庭の教育といっても、こういう点における母親の合理精神、そしてそれを実行にうつす勇気(すなわち実行力)が、自然と子どもたちを感化するのだ。たんに食べもののこと、家庭経済だけのことと考えていては、たいへんな間違いなのだ。

さて初版が出た昭和34年から50年後の現在。無駄な消費こそが経済発展の源と信じた60歳前後のオヤジ(何の値打ちもない無責任な学者や評論家)にとっては非常に耳が痛い言葉だろう。

「アメリカへは対等に物を言わなければならない」と口では偉そうなことを言っておきながら、実はアメリカの退廃的な文明にどっぷり浸かりスポイルされた連中を私達(中年世代)は冷ややかな目で見ている。

「安っぽい革命」を夢見てゲバ棒を振り、建物などを破壊したことへの「総括」もせずに社会人になり、国や役人、そして自分達と考えを異にする者へ悪意に満ちた批判を続けても何ら「説得力」はないのである。戦後の復興に尽力した戦前生まれの人々と比較するのはあまりにも失礼な話だ(笑)

「大学で受けた左翼教育」の欺瞞性にすら気付かなかった「糞」が新聞紙上で「屁にもならぬこと」をシャーシャーと語る。己の「偏った意見」があたかも「国民の総意」であるかのように持ってゆく手法は既に「時代遅れ」なのに…。

不屈の精神で挑んだ「明治男」の文章は「自信を失った現代の日本人」を大いに励まし、「これからの日本の在るべき姿」へも大きなヒントを与えていると私は思う。だから、この本はいつでも取り出せるように本棚の前列に置いている。

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すし屋の常識・非常識 / 重金敦之(朝日新書)

2009年02月21日 | 書籍
すし好きならば真っ先に手に取って読んだと思う。重金さんは正論を展開し、所々で苦言を呈している。すしの進化の過程を知る上でも価値のある本だ。有名店「すきやばしJ」に関する指摘は手厳しいが的を射ている。

 小野二郎氏は「すしは三秒で食べてもらいたい」という。・・・だが、日本の食文化に「三秒で食べる文化」は存在しない。小野の信奉者が、三秒で食べているのを見て、カメレオンが長い舌を出してエサを食べる一瞬の動きを連想した(221P)

 すしの職人とお客の関係は、どうも落語的だ。岡本かの子のいう「裸になり仮装を楽しんでいる」お客のほうが、いつのまにか職人のご機嫌を取っているといった逆転劇もみることができるのである(226P)

 「たねは店に任せて、三秒で食べてくれ」というのは、あくまで店側の論理であって、一種の店のわがままではあるまいか(234P)

更に猿真似好きのお目出度き大衆に対してもチクリと皮肉を言っているのにはただ笑うしかない。

 ネグルメ(ネットグルメ)たちは「すし」ではなく「情報」を食べているように思えてくる。大間、大間と騒いでも、対岸の戸井となると、もう知らない。今や日本中に「気分は食通」状態の人が溢れ、「一億総料理評論家」になってしまった。さらにいえば、「グルメごっこ」に興じているといえよう(229~230P)

今日はこの店であれこれ食べた、☆3つというような日記を(匿名で)飽きもせずに公開している連中が本書を読んだらどう思うだろうか。

 私が敬愛してやまなかった映画評論家の荻昌弘は「すし屋は客と職人のコミュニケーションによってうまさが成り立っている特異で嫌味な飲食店」と規定した(230P)

私が「嫌味な飲食店」だと感じた場合、二度と行くことはない。リラックスできる店に通えばいいだけの話だ(笑)

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太陽№400 特集・作家の食卓(1994年10月号)

2009年02月04日 | 書籍
本棚から古い本を取り出して頁をめくっていたら重金敦之さんのエッセイ「おいしい本のフルコース」が載っていた。食の世界の真髄が綴られた秀逸な本を紹介する内容だった。

掲載された本の三分の一は読んだことがあった。東海林さだおさんの「あれも食いたいこれも食いたい」の解説が特に面白い。

 東海林の人気の理由を考えてみると、まず第一に食べることが好きで、第二に知識やうんちくを自分からはあまりひけらかすことはない。また戦争による飢えの時代を経験しているから食べ物を粗末に扱わない。迷惑にならない程度に、料理人や食べる人を鋭く観察してわが身を省みるのだが、他人を傷つけることはまったくない。また自分の好みを押しつけることもない。食べ物に関して文章を書くとき、心しなければならないことが、すべて東海林の文章には備わっている。えがたい才能と思う。(P.72)

東海林さんが「卑しい顔つきのちょび髭オヤジ」と思われる人物を遠回しにたしなめる文章を書いておられるのを目にして、笑いすぎて涙が出たことが以前にあった。同じ人間でこうも違うのかと思ったのである。

実名晒し上げという愚行に走るのは「代々受け継がれた劣悪DNA」の働きだろうが、「髭」には「反面教師」としての存在価値くらいしかない(笑)

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東京人no.259「アウトロー列伝」

2008年09月12日 | 書籍
もう20年以上も前のことである。東京育ちの気障な友人が私に尋ねてきた。

「広島にはゴロツキが多いと聞いてはいたけど、ここまでとは思わなかったよ。何で?」

「難しい土地柄だから、としか俺の口からは言えんな」

「ふーん。そうなんだ」

「腐った水にボウフラが湧くのと同じだw」

賢い男だったので顔を少し歪めただけでそれ以上は聞いてこなかった。高校の垢教師とは比べものにならぬくらい物知りで現実を直視する力量を備えていた(笑)

東京人10月号の特集「アウトロー列伝」は読み応え十分だった。魅力あるアウトロー五ヶ条の2つ目にこうあった。

自分をヒーローにしない。
日陰の存在という恥じらいを持つ。
法は犯しても決して仲間を裏切らない。

「昔の侠客には彼らなりの美学があったんじゃが、今の与太者にはまったくないけーのぅ。大体、金●の大きさが違わー」と古老が呟いたことを久しぶりに思い出した。

奇しくもその日は、与謝野馨さんが総裁選の他候補との違いを問われて「そういうことを言わない謙虚さや羞恥心」と淡々と答えていた。

それを見た私は「含蓄のある言葉だ」と思い自然に笑みがこぼれた。

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ビールを飲んで痛風を治す! / 田代眞一(角川oneテーマ21)

2008年07月10日 | 書籍
強烈なタイトルに目が留まり立ち読みを始め、内容がしっかりしていたので購入した。痛風もちの友人はその痛みについて指が千切れるかというほど辛いと話してくれたことがある。

痛風は尿に溶けきれなくなった尿酸結晶(針状)が足の親指などに溜まって起こる病気である。尿酸はプリン体という物質が原料となっており、運動などのエネルギー代謝によって体内で生じる他に食べ物に含まれるプリン体からも作られる。レバーやもつ煮込みの類にはたくさんのプリン体が含まれていることはよく知られている。

田代さんはビール悪玉説に異を唱え、ビールの利尿効果によって尿酸を排出することを思いつき試して成功した。「ビール好きの人は、痛風発作を起こしたからといってビールを飲む楽しみを諦めることはない…大事なことは、きちんと定期的に血液検査をうけて、自分の尿酸値を把握すること…自分には、どのくらいの代謝能や排泄能があるのかを知って、自分なりの適量を探してもらえればいい」と言う。

ビールだけを飲んでいる時は尿酸値は確実に下がるので、問題となるのはつまみだと以下のように指摘する。

「つまみには、ビールと比べものにならないくらいのプリン体が含まれていることがあります…つまみを上手に摂るということを実行せずにビールを飲んでいたのでは、再び痛風発作に襲われるのは当然の成り行きです…旨味調味料であるイノシン酸やグアニル酸はいずれもプリン体であり、旨味の強い食べ物、美食と、高尿酸血症、痛風は、とても相性のよい関係です…私のように、プリン体を多く含むつまみにはほとんど手を付けず、ひたすらビールを飲み、どんどんおしっこをするという飲み方であれば、決して尿酸値を上げることはないといえます」

後半、更に厳しいことを言い放っているので私は頷きながら笑っていた。

「高尿酸血症や痛風の患者さんにとって中華料理は結構手強い相手といえますが、最近、注意したいと思うのが、豚骨ラーメンです…豚骨にしろ、鶏ガラにしろ、骨であり、旨味が凝集されているのは骨髄です…その核酸の多い骨髄のエキスにイノシン酸を合わせたスープを飲んでいるのですから、高尿酸血症や痛風の患者さんは、どんなに食べたいとしてもビールよりよほど悪い食べ物と認識し、ビールをがまんするくらいなら豚骨ラーメンは避けるべきでしょう。豚骨ラーメンのスープ100mLに含まれるプリン体は約33mgというデータがありますが、行列のできる店のおいしいラーメンはこんなものではないと思います。まあどうしてもラーメンが食べたければ、汁を飲まないことと、しっかりビールを飲んで体を洗うことでしょうか」

私が以前からラーメン類に人間の食べ物としては最低の評価を下している理由がそっくりそのまま書いてあり、早死したいデレスケはどんどん食べろと突き放している感じすら受ける(笑)

痛みを避けるために尿をアルカリ化する食品(野菜・芋・果物・きのこ・大豆・海藻類)を積極的にたくさん食べるということは、結局、日本古来の家庭料理(煮物など)に行き着くのである。

バランスのよい食事と適量のアルコールと適度な有酸素運動が健康維持には必要不可欠だ。これらがきちんとできているのはクレバーな人だろう。一方、己の卑しい欲望すら抑制できない者は畜生並だと思う。

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北大路魯山人という生き方 / 長浜功(洋泉社)

2008年06月01日 | 書籍
本をあまり買わなくなったのは陳列スペースが無くなってきたためだが、ゴミになるのがわかっているものについては立ち読みで済ませて節約するようになった。無駄遣いの愚かさを早くから私に説いていたのは大阪の賢友だった。

書店で本を手にとって感じるのだ、装丁だけはやけに立派だが、中身が詰まらないものが非常に多いと。価格の半分は装丁代かよ、と思えるほどである。単行本の新刊の方がむしろ読み応えがある(笑)

北大路房次郎は相手の欠点を容赦なく叩いたので周りは敵だらけで人間関係がドロドロとしていた。口が災いして絶縁になった例は数多い。つまり、おっかない性格なのだが、遺されたエッセイなどを読み返す度に「本物(=価値あるもの)を見抜く目は確か」だったと思う。

基本的に食材は捨てるところは一つもないと考えろ、うまいところだけ切り取って出しても客はそれは当たり前と思って感激しない、普段なら捨ててしまうところを使ってちゃんとした料理にするから、さすが星岡茶寮ということになる。また、一日昼夜合わせて二百人の客に出す食材の量もバカにはならない。大量のくずを出させるためにお前達を雇ったのではない。一つの食材をすべて使い切るという工夫と心がけこそが新しい料理なのだ

「残肴の処理」(要約) 『星岡』 五四号 一九三五年

この本を買った本当の理由は最近の嘆かわしい風潮に対して著者の痛烈な批判があったからだ。

ただ思うのは現在のグルメ志向の中で料理人・シェフが我物顔で闊歩しているが、そのうち魯山人の目指した料理道を真摯に学ぼうとした者がいるだろうか。

 魯山人が高めてくれた料理人の社会的地位に思いを馳せるような資格のある人間はどれだけいるだろうか。テレビのクルーたちに衛生上の配慮もなく汚れた靴、薄汚い服装のまま厨房をうろちょろさせている料理人やシェフが一人前の顔をしているのをみるにつけ、浮ついた評判に胡坐をかいている現状を憂えざるを得ない。尻馬に乗って魯山人を倣岸呼ばわりする暇があるならば己の傲慢さをまず反省することだ。

 もっと悪質なのは自分ではろくな料理もできない料理評論家の横行ぶりは目にあまる。批評や論評は相手の万分の一の力があれば誰にでもできる。重要なことは批評や論評にどれだけ自分の責任を負えるかということである。いつでも逃げ口を作っておいて高見の見物気分でいい加減な言辞を弄するのは賢しらにすぎる。彼らの無学で無知で厚顔無恥な態度は日本の食文化の荒廃を招くだけである。

誰のことを指しているのかは小学生でもわかる。ゴキブリのように嫌われている卑しい顔つきのおっさんが思い浮かぶ(笑)

わしの悪口を言いたい奴には言いたい放題に言わせておけばいい

こんなことをさらりと言ってのけた魯山人を私は憎めないのである。大物は凡人とは全然違う。

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予期せぬ友からの贈り物

2008年04月08日 | 書籍
飲み友達から郵便物が届いた。開封して思わず「おー、こいつはありがたい」と叫んでいた。中身は非常にマニアックな雑誌である。食文化を研究する者にとっては必読書と言ってもよい。

この内の1冊が「酒とつまみ 第10号(酒とつまみ社)」だ。玉袋筋太郎さんへのインタビューは放送禁止用語の連発で笑いが止まらなかった。

…オレの親父は酒で逝っちゃったわけだけどさ…楽しく飲んでたから、酒のせいにはしたくない…やっぱり酒があったからこそ、親父の思い出があるから

γ-GTPが2000にもなった父親のことを、幻の名車「2000GT」と呼んでいたと言う。麻雀屋が傾いてから父親が暴れ出して10年以上溝があったが、亡くなる前にはふたりで話したり、飲めるようになったのでよかったと回想するくだりが泣かせる。

続いて、【疲れた肝臓を守る簡単つまみ】を興味深く読んだ。「肝臓ツマミの基本は豆と卵とチーズである」と初っ端に書いてあった、栄さんよ。

ヒヨコ豆のカレー味、ゆで卵のチーズのせただけ、キュウリ揉みトースト、鶏のハツのローズマリー焼きは試してみる価値大と思う。家で飲むアテとしては非常に簡単で美味しそうだ。

【酒飲み川柳】の中からひとつ紹介しておこうか。香川県丸亀市の後ろから前から同情さんの作品。

立ちションの はずがズボンの 尻濡らす

経験したくないって(笑)

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中西隆紀 / 幻の東京赤煉瓦駅(平凡社新書)

2008年03月26日 | 書籍
2006年8月に発売された本だが、とても面白くて何度も読み返している。大日本帝国の威信をかけた東京駅(辰野金吾設計)が完成するまでに紆余曲折を経て鉄道路線が整備されていく過程を詳しく説明した力作。

経営不振に陥った多くの私鉄路線を吸収、国有化することによって現在の山手線、総武線の原型が作られたことは注目に値する。明治15(1882)年から東京馬車鉄道会社が営業を開始し、多くの乗客を運んでいたくだりは非常に興味深い。

馬がレールに沿って客車を牽いたので、街は人力車、馬車、人が溢れて大変な混雑だったという。馬の垂れ流す糞尿で雨の日などは物凄く臭ったことが分かり、苦笑を禁じ得ない。

樋口一葉や寺田寅彦の日記にも馬車鉄道は出てくる。一葉が病没する明治29(1896)年は馬車鉄道の全盛期に当たることをこの本で知った。

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阿川弘之 / 大人の見識(新潮社)

2008年02月24日 | 書籍
阿川さんのファンになったのは日経新聞に掲載された「私の履歴書」を読んだのがきっかけである。旧制中学4年修了で旧制広島高等学校を受験し、見事合格を果たしてお父さんが喜ぶくだりは泣かせる。

さて本書は昨年の11月頃出版され、かなりの好評だったようである。しかし、今年の初めに我が町ではまだ初版が売れ残っていた(苦笑)。全編にわたり、毒がきいていて笑いながら読んだ。

英国人の見識(第二章)の中の「ユーモアとは何か」が特に面白い。

 議会でイングランド出身の議員が、スコットランド人を侮辱する演説をした。こっちは実話。

「イングランドでは馬しか食わない燕麦(oats)を、スコットランドでは人間が食っている」

 この発言にすぐさまスコットランド出身の議員が応じた。

「仰有る通りなり。だからスコットランドの人間が優秀で、イングランドの馬が優秀なのです」

 日本の国会だったら前者の差別発言、ただでは済まないでしょうが、ロンドンの議会は、爆笑で終わったといいます。英国の国民性に、重厚さを尊ぶ一面とユーモアを大切にする一面があることは、注目に値するのではないですか。…本書70ページより

訳のわからん何とか法案を国会に提出しようと躍起になっているセンス無き議員にぜひ目を通してもらいたい一節である(笑)

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東京人no.252「商店街の歩き方」

2008年02月05日 | 書籍

いつもなら立ち読みで済ませるのに、立石仲見世の「呑んべ横丁」の記事が良かったので購入した。もつ焼・煮込みに私は非常に弱いのだ(笑)。上京した折には有楽町ガード下に足を運ぶくらいだから。

活気ある商店街の写真を見て、我が町のそれの荒廃ぶりを嘆いた。地元の商店街が寂れた最大の原因は魅力ある店作りができなかったことにあると私は考えている。大型店に対抗するだけの知恵も出さずにただ「進出反対」を唱えただけだった。

地元民は欲しい物が手に入らないので広島や神戸に出かけて銭を落としているのだ。飲食店に関しても同様のことが言える。お客にまた来てもらおうという熱意を感じさせる店があまりにも少ない(一つごとしかできないのに対して客は正直厭き厭きしている)。

DQNシティというレッテルはなかなか剥がれそうにないのだ。外を見ずに大きくなると必然的に視野が狭くなり、カビの生えたような発想ばかりが出るのだろう(苦笑)

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熊谷真菜 / 「粉もん」庶民の食文化(朝日新書)

2008年01月10日 | 書籍
たこ焼き研究家の熊谷さんが「粉もの」食文化の歴史と進化をわかりやすくまとめた力作。関西だけでなく関東の文字焼き、どんどん焼きなどにも言及しているのは流石だ。

たこ焼きは明石の(玉子焼きの)アイデアを取り入れて誕生したという推測は正しいと思う。

‥店の屋号は会津屋。これをみたとき、たこ焼きの原点はここにある、と直感した‥昭和初期に話をもどして……。たくさんのラヂオ焼き屋台が街角で子供相手に商売をしていたころ、もっとおいしくしようと、試行錯誤を始めたのが、会津屋の初代、遠藤留吉さんだった‥大阪でもタコは庶民の食材だった‥タコを入れてみたら、これまで試したどの具材よりおいしかった‥薄力粉は「バイオレット」(日清製粉)という一等粉を選んだ…留吉さんは迷わず、「たこ焼き」と暖簾を出す‥ラヂオ焼きから、肉焼きへ。肉焼きから、たこ焼きへ。一九三五(昭和一〇)年、留吉さん二八歳の秋のことだ‥

私が大阪のたこ焼きを初めて食べたのは中学2年生の時だった。中がとろっとしており、表面には醤油が塗ってあった。ソースが当たり前と思っていたのでショックだったが、素朴なおいしさに感動した。それまで自分が食べきたたこ焼きは団子や餅の出来損ないみたいなものだった。

北関東で一人暮らしをしていた頃、その地のたこ焼きがあまりに不味くて自分で焼くようになった。薄力粉をだし(横着する時は市販の顆粒)で溶くからあの旨さが出ることを経験的に知った。

この本を読んで、久し振りに作ってみようかな、との思いが生じた。

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高橋義雄 / 子どもの品格(新書ヴィレッジブックス)

2008年01月03日 | 書籍
2007年は「品格」に関する書籍が多く発売された。いかに品のない人間が増えて世の中がワヤクソになっているかということだ。

不完全極まりない者が他人には完璧さを求める。そして思い通りにならないと汚い言葉を撒き散らし、時には他人を絶壁に追い込む。「反省」という言葉を忘れた出来損ないの身勝手さは目に余るものがある。

本書には注目すべきことが書かれてある。

…温かい心を育てるには、親から温かい心を受けることが大切で、愛情を持って温かく育てられれば、子どもは健全に育つのです。逆に、この時期に悪い影響(虐待、体罰)を受けると、反抗心が育ち、復讐心が出来上がってしまいます…

…間違いを認める、失敗したら素直に謝るという意識は、幼いうちから持たせておいてください。人としての品位に関わることは、特に早くから身につけさせるべきです…まずは親が謝り方を見せてやってください。何か失敗や間違いがあったとき、相手が子どもだからと曖昧にせず、きちんとミスは認め、潔く謝る姿勢を見せれば、子どもも誠意ある正々堂々とした謝罪ができるようになるはずです…

モラルなき親のもとには更に酷い子どもが育つ。その子どもがまた親となり…(苦笑)

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