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寮管理人の呟き

青春風土記 旧制高校物語3(週刊朝日編 朝日新聞社 1979年)

岡山に第六高等学校が誕生したのが明治33年(1900)。それから24年後の大正13年(1924)に広島高等学校が開校した。街の規模から考えるとこの順番は極めて不思議であるが、実は誘致合戦で岡山に敗れた経緯があったのである。久々に旧制高校物語を読んでみたところ、参考になる記述があるので紹介しようと思う。

広島高小史
 広高が設立される前の広島市には、高等師範と高等工業があったせいか、高校の誘致運動はあまり盛んでなかった。第五師団司令部があり、むしろ、軍都としての色彩が濃かった。日清、日露、第一次世界大戦から満州事変へ至る間、広島の外港宇品は兵員輸送の重要な拠点になっていた。…
 大正十三年春、広高は姫路高とともに大正時代最後のネームスクールとして発足する。…
 市の南郊皆実に校舎が建てられ、文甲八十、同乙四十、理科の甲乙がそれぞれ四十人ずつの二百人が入学した。広島県下を中心に中国筋、四国、関西などの出身者が大部分を占めた。昭和二年、第一回卒業生百五十四人が巣立つ。四十六人が落第または中退した計算になる。気候が温暖で、山の幸、海の幸にも恵まれていたので、校風はおとなしく、中都市型の秀才が雲集した。…
 文化界で名を成した人が数多い…国際的な建築家丹下健三、作家阿川弘之(昭15・東大文)、東映社長岡田茂(昭19・東大経)…
 官僚になった者…文部事務次官木田宏(昭16・京大法)や前通産事務次官小松勇五郎(同・東大法)らは、広高時代、ともに哲学青年だった。卒業生の数は昭和二十四年修を入れて四千八百人足らず。

昭和20年(1945)夏、広高の新入生は学び舎を離れて日本製鋼社の向洋(むかいなだ)工場に学徒動員されていた(また戦局悪化により高校2年で繰り上げ卒業となっていた)ことがわかる。歴史にもしもは禁物であるが、8月6日(月曜日)に工場が稼動していればと考えずにはいられない。2年生の厚意が結局は仇となってしまったことを誰が責められようか。生死を分けたのは運であった。

光と風
 広高を語るとき、忘れてはならないのは「原爆」との関係だろう。広高同窓会名簿をひもとくと、逝去者の欄に「原爆死」という活字がいくつも目にとび込んでくる。数えてみたら、四十一人もの被害者がいた。
 広高の場合は第一回生の新延誉一(昭2・京大経)から昭和二十年夏の入学者までを含んでいる。ただし、卒業していない人たちの名前は、同窓会名簿には載っていない。四十一人の犠牲者というのはあくまでも卒業生に限っての話である。広高同窓会の常任理事・大同物産社長土井田登(昭10・京大法)は、こう説明する。
 「昭和二十年の広高入学者は、工場動員などの都合で、八月一日に入学が延期されていた。彼らは入校後一週間もたたないうちに原爆に見舞われた。同級生たちはおたがいに顔もよく知らないうちに友人を失っている。その数はおよそ七十人といわれているが、いまでもはっきりしていない。わかっているのは理甲の吉田一夫だけである」
 わたしは関係者の姿を求めて広島市内を歩いた。西川ゴム副社長西川公平(昭22・京大理)…に会い、当時のもようを聞き出すことができた。
 西川は二年生で寮長をつとめていた。三年生は卒業していた。七月五日、緊急短期動員の名で、市の郊外にある日本製鋼所へ移った。八月一日の入学式を待たないで、二十五人ほどの一年生がやってきた。七月二十五日ころには、一年生の数も五十人くらいにふえていた。
 八月一日、全入校生が皆実ヶ原の校舎に集まり、入学式が行われた。その夜から二年生の寮委員と一年生の全員は、日本製鋼所の寮で寝食をともにする。…
 貧しい食事だった。朝はイモがゆ、昼と夜は脱脂大豆のまぜめしが主食。四、五日もたつと新人の寮生たちは、たちまちホームシックにかかった。八月五日は日曜日。翌六日は日本製鋼所の休電日なので仕事は休みになる。西川ら寮の委員たちは、五日の夜、全員が集まり、新入生を一日だけ自宅へ帰すかどうかについて協議した。
 つまるところ、帰したほうが栄養もとれ、その後の作業の能率向上に役立つとの結論を得た。委員全員とまだ入寮宣誓式を終えていない少数の一年生だけが寮に残った。八月六日の広島の空は抜けるように明るく、青かった。午前八時十五分、寮では紅白の幔幕を張りめぐらした一室で、ささやかな宣誓式が始まっていた。
 一瞬、閃光が走った。みんなで明け放たれた窓から広島市の上空を仰ぐ。巨大なキノコ雲が望まれた。十秒ほど間をおいて強い爆風が起こり、窓ガラスが飛び散った。みんな、反射的に遮蔽物の下に身をおく。はじめのうちは、白島にある火薬庫がなにかの事故で爆発したのかと思った。
 どのくらいの時が流れたのだろうか。破れた衣服を身にまとい、全身に火傷を負い、青黒い顔をした被爆者たちがつぎつぎに寮に入ってきて、助けを求める。時計の針は午前十時を指していた。
 夜になって、三十人ほどの負傷者が帰寮した。帰ってこなかった者は百六十人余。一週間たっても七十人前後が行方不明のままで、その名前はいまもってわからない。
 「あのとき、なぜ一年生を帰したのかといまなお後悔している。寮へ帰ってきた負傷者のうち、何人かは死んだ。われわれは一年生たちがまだ覚えていない『春洛陽の』という惜別歌をうたった。のどの奥から『散りて惜しまぬ青春の』の歌詞をしぼり出すときの悲しさは、この世の地獄を体験した者にしかわからないだろう」
 西川は低い声でいい、顔を伏せた。

旧制広島高等学校跡地を望む

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