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「英雄は自分のできる事をした人だ。凡人はできる事をせずに、できもしない事を望む。」byロマン・ロラン

"JARHEAD"

2006年10月21日 20時59分42秒 | 徒然駄弁-映画編
ジャーヘッド プレミアム・エディション

ユニバーサル・ピクチャーズ・ジャパン

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 ジャーヘッド。直訳すれば「瓶頭」となるこの単語には、事実上の定訳がある。それは、米国海兵隊、である。米国海兵隊員の頭髪には、トップのみを短く残し、残りを全て刈上げるという特徴がある。後ろから隊員の頭を見ると瓶の形に見える事実から、米国海兵隊員のヘアスタイルは、ジャーヘッドと呼ばれる。そして、それが米国海兵隊員のシンボルマークでもある故、ジャーヘッドは、総じて米国海兵隊を意味するものとして使われる場合も多い。
 米軍の残り三軍の将兵から「瓶の中身は空っぽ」(意味は、言わずもがな。)と揶揄されるこのジャーヘッドを、題名に付した映画がある。それが、2005年(日本公開は翌06年2月)に公開された"JARHEAD"(邦題『ジャーヘッド』。以後、本作。)、である。以前別の記事でも言及した故重複が生じるものの、今回は、本作について駄弁ろう。
 まず、本作は、海兵隊員として湾岸戦争に参加した元兵士の回想録を映画化したものである。原作となったのは、『ブロークバック・マウンテン』のジェイク・ギレンホールが本人を演じた、アンソニー・スオフォードの『ジャーヘッド アメリカ海兵隊員の告白』である。スオフォードの回想録は、米国で最も有力とされている辛口評論家ミチコ・カクタニをして最高と評価せしめ、全米で十週間以上もベストセラーを記録した。
 しかし、兵士の回想録自体は、既に多くが出版されており、珍しくはない。さらに、回想録の映画化も、前例は多くあり、新規性は全くない。にも関らず、原作は上述の通りベストセラーになり、原作を受け継いだ本作も大きな注目を浴びた。その所以は、原作が今まであまり取り上げられてこなかった戦場の真実を描いた点にある。
 原作と本作には、戦闘シーンが少ない。大抵の回想録や映画は、戦争に対する立場の違いに関らず、戦闘を中心に描く傾向がある。激しい戦闘を通じて、戦争の残酷さ又はヒロイズムを導き出す。しかし、本作には、戦闘シーンが皆無と言っても言い過ぎでないほど少ない。戦争映画にあって、これほど戦闘シーンが少ない作品は、本作をおいて他にはない。
 原作及び本作は、戦争の幕間とも言うべき期間における兵士達の姿を描いている。実際、兵士達は、常に戦っているわけではない。むしろ、移動時間や待機時間の方が、長い。かような期間は、大抵の回想録でも幾らか言及されはするが、メインにはならない。映画ともなれば、大幅にカットされる傾向にある。その理由は、あまりに退屈であるからだろう。
 しかし、原作はその退屈な時間に一つの真理を見出し、本作はそれを映像によって再現しようとしている。その真理とは、別のレビューでも見られるように、長い退屈の間に兵士達が本物に近づくというものである。長い待機時間にあって、兵士達は、昂揚感と緊張感を退屈の中で折り合いをつけるよう強いられる。
 作中で登場する兵士達は、サウジアラビア到着時点では、若者らしく来る戦闘に胸を躍らせていた。しかし、待機日数が延びるに連れ、毎日決まった訓練と業務を繰り返すだけの日々に、焦燥感を覚え出す。さらには、次第に兵士達の緊張感と士気は、減退を始める。そして、ひたすら馬鹿騒ぎを続ける。
 かような状況下で、当然ながら大きな不始末をやらかして懲罰を受ける者や情緒不安定に陥る者が続出する。他方で、上官の厳しい指導や仲間同士の助け合いを通じて兵士としてのメンタルが固まり、いつしか兵士達は本物の兵士へ成長していく。ちなみに、心技体という有名な語がある。長い退屈な待機時間を経て、既に技と体を磨いた若い兵士達が、心をも磨き兵士として完成していく。
 総じて、本作は、長い退屈下における兵士達の心情を描きつつ、本物の兵士へ成長する姿を描いている。さらに、その過程において兵士達の戦場における考え方が醸成されていく、と伝えている。かような見方は、他の戦争映画にはなく、高い新規性がある。そこが、本作の一つの価値であろう。
 ただ、このように書くと、本作は、ただの男臭い体育会系映画かよくある戦意高揚映画に思えるだろう。しかし、実のところ、そうでもないように思える。本作には、単純に戦意高揚映画と割り切れない複雑さと奥深さが、ある。それは、本作の終盤において明らかになる。
 実のところ、本作で登場する兵士達は、一度も戦闘を経験しない。『砂漠の嵐』作戦開始と共に、彼等は、クウェート領内へ侵攻して行く。敵の砲撃や友軍機による誤爆を受けつつも、彼等の前に敵は現れない。彼等の前に現れるのは、イラク軍によって破壊され黒い油を撒き散らす油田と友軍機の空爆によって黒焦げにされたイラク人の遺体だけである。
 周知の通り、湾岸戦争は、テレビゲームに例えられた。軍事における情報技術の発展と空爆の多用により、イラク軍は短時間で圧倒され、クウェートにおける地上戦は僅か四日で終結した。それ故、旧来の戦い方を叩き込まれた地上の兵士達に、出番はなかなか回ってこなかった。
 本作に登場する兵士達も、まさしくそうであった。進めど進めど、戦闘には遭遇しない。やっと機会が巡ってきたかと思えば、引き金を引く瞬間になって、突然中止される。本物の兵士として戦闘参加を頑なに望む彼等に、友軍からすら異常者扱いを受ける。そして、一発も撃たないまま、戦争は終わる。
 この状況下で、彼等は、問う。何のために海兵隊に志願したのか、何のために厳しい訓練を受けたのか、あの長い退屈な時間は一体何であったのか。そして、俺達の存在意義は、何なのか。彼等は、本物の兵士に成長したにも関らず用済み扱いを受ける有様に、やり場のない怒りとやるせなさを覚える。
 どうやら、本作は、長い退屈な時間に今ひとつの意義を見出しているようである。上述の通り、あの時間は、若者達を本物の兵士にした。他方で、あの時間は、若い兵士達に殺しを自分達の存在意義に見出させた。さらに、その思考は、大なり小なり一生引き摺り、消えはしない。
 これに関して、スオフォードの印象深いコメントが、本編の冒頭と最後で引用されている。兵士達は、戦争に備え準備する。戦争が始まれば、喜び勇んで戦場へ行き、闘う。戦争が終われば、もう戦争はコリゴリだと、家族や恋人の待つ家へ帰る。しかし、元の生活に戻っても、何年経っても、自分の体は自分の指は引き金を引く感覚を覚えている、と。
 総じて、本作は、長く退屈な時間において殺しに自分の存在意義を見出さざるを得なくなった若者達の悲哀を描いている。つまるところ、反戦主義者が言うところの兵士の凶暴な人格は、戦闘によってではなく、幕間に形成されると言っているのだろう。本稿の趣旨と違える故に戦争自体の是非は問わぬが、今まで注目されてこなかったかような戦場の真実を描いた点は、高く評価出来る。
 戦争に対する立場に関らず、一見の価値はあろう。

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