「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

心法の実践者 熊沢蕃山2

2010-02-16 19:18:34 | 【連載】 先哲に学ぶ行動哲学
先哲に学ぶ行動哲学―知行合一を実践した日本人 第六回(『祖国と青年』22年9月号掲載)

心法の実践者 熊沢蕃山2
我等露命今年中も知れず候。日本之為に候。

 「荒城の月」で有名な大分県竹田市の岡城址には、「蕃山先生頌徳碑」が建っている。岡藩藩主中川久清は蕃山と親交し、万治三年(1660)の冬に蕃山を招聘して民政及び治山治水の指導を受けた。蕃山が行った堤防構築等の跡は、岡山・岡・古河・三次などに今尚残っている。

●山は木ある時は、神気さかんなり。木なきときは、神気おとろえて、雲雨をおこすべきちからすくなし。(山に木が沢山生えている時には、神気が満ちており、木が少なければ神気が衰えて雲や雨を起こす力が弱ってくる。)
この文章は更に、草木が茂っている山は、雨水を地中に一旦含み時間をかけて川に流すので、洪水の憂いが無く、草木が無ければ、土砂が直ぐに流入して川床が高くなる。「山川の神気」が薄くなれば雨も降らなくなり、田圃用水の不足、舟を通わす川の水量不足を齎す。と続いている。

●播州は淡路島より起る夕立をもって養い。備州は小豆島より雨ふれり。二島を切り荒して、神気うすければ、雷雨雲雨を起こすべきちからなし。
当時も今も自然破壊は人に多大の損害を及ぼす。蕃山は、「山水の地理に通じ、神明の理を知る」重要性を訴えた。

   三九歳での隠居、深まる「時処位」の思想

 心法(陽明学)の実践は多大な成果を挙げ、蕃山の名は天下に鳴り響いて行く。だが、蕃山の活躍に横槍が入り出す。朱子学を奉じる林家からの誹謗中傷が始まり、遂に幕閣でも蕃山批判が起こる。それを受けて岡山藩でも藩政改革に対立する家老達の蕃山批判の声が高まっていく。名利に固執しない蕃山は明暦三年、三九歳で隠居する。

四三歳の時には京都へ移住し、わが国の古典文学や神道を攻究し、源氏物語を愛読し、和歌を嗜み、雅楽に精通するなどして、思想を深めていく。心学によって心の本体を極めた蕃山は、思想の深化に当っては藤樹先生から学んだ「時処位」の観点から柔軟に考察して行った。中国に於ける儒学の変遷は已むを得なかった事だと蕃山は考える。朱子学が強調する「理学」は人の惑いを解きほぐし、陽明学が強調する「心術」は心を治める事に効果がある。秦の時代に焚書坑儒によって経典が散逸した為に、次の漢の時代には訓詁学(文字の意味の考証が中心)が必要となった。その後、仏教が起こって世の人々が惑う様になったので、宋の時代には理学が中心となり、人々の惑いが解けて心を見つめる様になった。そこで明の時代には心法が中心になって陽明学が起こった。それぞれが時代の要請から生じたのである、と。

●愚は朱子にも取らず、陽明にも取らず、唯古の聖人に取りて用ひ侍るなり。其言は時に因て発するなるべし。(〔先生の言は王陽明に似ている、との質問に対して〕私は朱子にも取らないし、王陽明にも取らない、ただ古の聖人に取って用いているだけである。儒学の道統に於いては朱子も王陽明も同じであり、それらの言葉は時代時代の要請に従って発せられたのである。)(集義和書)

●法は聖人時・処・位に応じて、事の宜きを制作したまへり。故に其代にありては道に配す。時去り、人位かはりぬれば、聖法といへども用がたきものあり。合わざるを行ふ時は却て道に害あり。(掟やしきたりは聖人が時処位に応じて、最も相応しいものを制作された。それ故、その時代には人の生きる最良の道となった。だが、時が移り、人の立場も変れば、聖人が定められた事でも用いられないものも出てくる。時処位に会わないものを用いれば却って人の踏むべき道に害を及ぼす様になるのだ。)(集義和書)

   明の滅亡と「日本主義」の確立

 徳川幕府は和平の世を治める規範として、儒教(朱子学)を文教の中心に置いた。儒教は中国の聖人・賢人の教えであり、中華文明を慕う「慕華主義」が広がって行った。だが、中華文明の中心国である明が北方の野蛮民族である清(女真族)によって滅ぼされるという、驚天動地の出来事が起こった。蕃山が23歳の1644年に清の中国支配が始まり、蕃山が京都に在住していた44歳の年(1662年)に遂に明は滅亡した。現代で言えば、大東亜戦争敗戦後の日本人の心を大きく呪縛しているアメリカが滅亡する様なものである。

「文明国」明の滅亡は、周辺諸国に衝撃を与え、李氏朝鮮では「大中華」明の滅亡により、明に代わる「小中華」として朝鮮が中華文明を守るべきだとして、それ迄以上に儒学(朱子学)が徹底されて行く。それに反して日本では、中華文明の呪縛から解き放たれて、わが国古来の宗教と歴史・古典に対する研究が深まって行き、儒学の日本化ともいうべき現象が現出して行く。山崎闇斎(明滅亡時45歳)熊沢蕃山(同44歳)山鹿素行(同41歳)徳川光圀(同35歳)等の思想家によって、「日本主義」が確立され、後の国学や水戸学を生み出して行く萌芽となり、幕末維新史の「国体」意識へと繋がっていくのである。
 時処位を考える蕃山は、日本の思想を考察するに当って「水土」、即ち「風土」を重視する。以下『集義外書』より。

●かす事能はず、かる事能はざるものあり。日本の水土によるの神道は、唐土へも、戎国へもかす事あたはず。かる事能はず。唐土の水土によるの聖教も、又日本にかる事能はず、かすことあたはず。戎国の人心による仏教も又然り。文字・器物・理学はあるべし、かすべし、かるべし。……学は儒をも学び、仏をも学び、道ゆたかに心広く成りて、かり、かされざるの吾が神道を立つべきなり。(国の間では貸し借りが出来ない物もある。日本の風土から生れた神道は中国にも印度へも貸す事は出来ないし、借る事も出来ない。中国の風土から生れた儒教も又、日本に借る事も出来ないし、貸す事も出来ない。印度の人心の中から生まれてきた仏教も同様である。但し、文字や器物・世の理についての学問は貸したり借りたりする事は出来る。……それ故、学問としては儒学も仏教も学び、踏み行うべき道を豊かにし心を広くなすが、あくまで中心には、他国に貸し借り出来ないわが国固有の神道を立てて踏み行うべきである。)

蕃山は、聡明なる釈迦が中国や日本に渡られたなら、後生輪廻の考えを忘れて中国なら聖人に、日本なら神道になられるであろうし、中国の聖人が日本へ渡られたなら、儒道や聖学と言う言葉も使われずに、「其のままに、日本の神道を崇め、王法を尊びて、廃れたるを明らかにし、絶えたるを興させ給うて、二度神代の風かへり申す可く候。」と述べている。儒学者である蕃山は完全に中華の呪縛から解き放たれ、日本を中心とした教学を志向しているのである。

●唐土の聖人は、是れを智・仁・勇の三徳と云ふ。日本の神人は、是れを三種の神器にかたどれり。神は心なり。器は象なり。神璽・宝剣・内侍所の象を作りて、心の三徳を知らしむる経書とし給へり。」(中国の聖人は、智・仁・勇という言葉を用いて人の在るべき道を示したが、文字が無かった日本の神代の人々は、その徳を三種の神器として形象に表した。「仁」を表す神聖なる勾玉・「勇」を現す宝物の剣・「智」を表す八咫の鏡という物の形を作って、心の三徳を表して人々を教え導く経典としたのである。)

日本人の踏み行うべき道はこの三種の神器に表されており、「道徳学術の淵源」「心法政教、他に求めずして足りぬ。」と蕃山は言い切っている。更に蕃山は『大学或問』の中で「日本の四海にすぐれたるといふ事は、国土霊にして、人心通明なるゆへなり」と、国土の持つ霊性を強調している。

  清国の日本進攻への危機感から発した幕府への献策

 京都で活動する蕃山の下には、多くの公卿や武士達が教えを受けに集った。蕃山を「危険人物視」していた幕府は寛文7年(1667)に蕃山(49歳)の京都居住を禁止した。二年後には明石城主松平信之(蕃山の弟子であり理解者)へのお預けとなり、爾来行動の自由を奪われ、松平公の転封に従って、大和郡山・下総古河へと移る事になる。だが、陽明学で鍛えた心の自由は蕃山をして、決して挫けさせなかった。

●外より見ては困厄の様に之有る可く候へども、予が心には天の与ふる幸とおぼえ候。……たとひ外には罪のとなへありとも、我心に恥る事なくば、心は広大高明の本然を失ふべからず。(集義和書 補)

●君子は順に逢ふて物を成し、逆に逢ふて己を成す。春夏に暢びて秋冬に収まるが如し。

蕃山にとって明の滅亡は決して他人事では無かった。かつて蒙古(韃靼)がわが国に襲来した如く、清がわが国に攻め寄せて来るのではないか。平和ボケした日本にそれを防ぐ力はあるのか。幕府権力は強まっているが、藩や武士は貧窮し、吉利支丹などの邪教が人々を惑わし、外敵に備える前に内部崩壊の可能性だってあるのではないか。行動の自由を奪われた蕃山には危機感がつのるばかりだった。幸い、幕閣の中にも蕃山の理解者があり、貞享三年(1686)六八歳の蕃山は女婿稲葉昌通を通じて意見書を幕府に上呈した(その初稿が『大学或問』)。

二十二か条に亘る建白は、国家救済の已むに已まれぬ思いから執筆され、幕府だけではなく大名も武士も庶民も皆が豊かになる「富有大業の仁政」を実現すべく、国防・内治・経済・文教等多岐に亘って幕政改革の方策を提言している。提言を草した已むに已まれぬ思いを蕃山は書簡の中で「此一巻もしやと御目に懸け候。我等露命今年中も知れず候。日本之為に候。……来年か来々年はだつたん(韃靼)可参かと存候。」と記している。

だが、蕃山の生涯を賭した建白は、幕府により「処士改革ヲ横議シ大逆無道」として罰せられ古河に禁錮される事態を招いた。晩年の次の和歌は蕃山の真情が良く表されている。「行く雁に関はなくともおほやけのいましめあれば文もつたへじ」「木がらしに落るもみぢはくちぬともつきせぬ春に華や咲かまし」「小夜あらし四方の落葉はうづむともわけゆく道はしる人ぞしる」元禄四年(1691)八月十七日蕃山は古河にて七十三年の生涯を終えた。
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