「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

貝原益軒に学ぶ②「学は自得を貴び、もし慎んで思はざれば、すなはち博学審問すといへども、融会貫通して之を己に得ること能はず。」

2021-03-12 20:24:22 | 【連載】道の学問、心の学問
「道の学問・心の学問」第四十二回(令和3年3月12日)
貝原益軒に学ぶ②
「学は自得を貴び、もし慎んで思はざれば、すなはち博学審問すといへども、融会貫通して之を己に得ること能はず。」 
                                       (『慎思録』自序)

 貝原益軒は、生涯を掛けて見出した「道」の集大成とも言うべき箴言集『慎思録』を、八十五歳の正徳四年立春の日に完成させ、その半年後に亡くなった。『慎思録』は漢文で記された全六巻、八百を超える文章から成り、益軒の求道心の結晶の書である。その自序で益軒は「古代の聖人や賢人は、思う事が学問にとって効果がある事を数多く説いている。孔子様は『論語』で「学びて思はざれば則ち罔し。思ひて学ばざれば則ち殆うし。」(「為政」)と、学ぶ事と思う事を対にして説かれ、その効果が等しいと言われている。それは、学問が「自得(自分で心にさとる)」を貴ぶからである。もし慎んで思う事が無かったならば、広く学問して審らかに問いを行っても、心から了解して自分のものとする事が出来ないからである。」と記している。この「慎んで思う事」を著書の題名としたのである。

 「自得」について益軒は、巻第一の本文でも次の様に強調している。

「学問は自得を貴ぶ。それ故自得する事が出来ないのならば、記覧広博(広く知って記憶している)、経義詳審(経書の意味を詳しく知っている)でも、それは章句を知っているだけで、訓詁(意味解釈)の学問でしかない。未だそれは貴い事とは言えない。」(35)

「恭黙(つつしみ深くもの静か)して道を思うのが、自得する為の工夫である。」(36)

「学問は道を識る事が、その根本である。道を知るには自得でなければ良く為す事は出来ない。自得出来ないならば、昔の事を良く知っていても、道を知っている事にはならない。学問が自得を貴ぶ所以である。自得の方法は慎思がその要点である。慎み思う事を重ねる事によって、学問が精微(詳しく細やか・緻密)に通じる様になるからである。」(37)

 益軒は、幾度も繰り返して「自得」「慎思」の必要性を説いている。学問は受け身であってはものにならない。

 それは仕事に於いても同様である。中途半端な仕事しか出来ないのは、自得していないからなのだ。私の場合、会議等で自らや他者が提案する事業内容に対しては、徹底的に質問を投げかけ、心の隅から疑問が解消されるまで徹底的に問い直す。中途半端な結論になった場合は保留してじっくり考え、次の会議に再度提案して問題点を洗い出す。肚の中にスト―ンと落ちる迄は、幾度も繰り返す。そして自己に問いかけ自得できた時に、脱兎の如く行動を起こして来た。益軒の言う「自得」と「慎思」は、学問だけでなく人生の全てに通じる生き方の規範を示した言葉だといえる。

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