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「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

武士道の言葉 その20 「維新の歌・佐久良東雄」その2

2014-08-08 21:58:04 | 【連載】武士道の言葉
維新の歌・佐久良東雄 その二 (『祖国と青年』平成26年3月号掲載)

何回生まれ変わっても、明津神であらせられる天皇陛下に、一心に仕え奉ろうと赤き心を固めている友こそが、私の友であり、私の麗しい友であり、魂の惹かれ合う真の友である。

死変り生かはりつゝ、現神吾が大王に、無比赤心を、一筋に仕へ奉らむと、かためたる友は我が友、東雄がうるはしき友、魂合へる友(『佐久良東雄歌集』より)

 東雄の歌の中に「魂合へる友」という言葉が出て来る。魂が一つになるような心から惹かれ合う友という意味である。

物質的な欲望の世界だけで生きている人間には真の友人は生まれない。物質は有限であり、ゼロサムの世界となる。一方、精神的な価値の世界で生きている者の間には共感と共鳴とが生まれて魅かれ合う様になる。精神的な高みで繋がる人間関係は長続きする。それは上司と部下においてもそうだし、夫婦でもそうである。芸能人の中には結婚離婚を繰り返す者が多いが、幾ら美貌・多才の持ち主であってもそれでは、欲望のままに生きている動物と何ら変わりは無い。

維新の志士達は、高い志を貫く為にも真の「同志」を求め、生死を共にする事を誓った。東雄の歌には「友」を詠んだ歌が数多くある。

友といへば茶のみ酒のむ友はあれど神習ふ友ぞまことわが友

思ふどちこゝろの花をさかせつゝ春をつねなる宿ぞ楽しき

 志を共にする者同士の集いの愉快さを東雄は「心の花」が咲き薫る春の様であると表現している。東雄の長歌に「忠臣集会飲酒の歌」というのがあり、楠木正成公が亡くなった五月二十五日に尊皇心の篤い同志達が集まり、高殿に登って清らかな月の下で酒を酌み交わした喜びを歌に詠んでいる。

 その一方、次の様な歌がある。

しにびとに似たる男の子にむかひをればあさのあひだもねぶたくぞある

何ら心が躍動していない、目の輝きの失われた者と対面しておれば、爽やかな朝でも眠気を催す、と。東雄の心は常に活き活きと動き、元気が漲っていた。そのピンと張った心の琴線によって様々な歌が奏でられたのである。




天皇様がわが国の行く末を憂えられて、物思いに沈まれている今年の春は、桜の花(佐久良=桜・東雄自身の事)までもが涙ぐみ悲しんでいる。

大皇の物を御念この春はさくらの花も泪ぐみてあり
(『佐久良東雄歌集』より)

 維新の志士達の天皇様への熱い思いを「恋闕」という言葉で表現する。「闕」とは「御所の門」の事である。天皇様を直接表現せずに、皇居の門を恋い慕う事で天皇様への熱い忠誠の思いを間接的に表現したのである。志士達はわが国の古典を繙き、国学を学ぶ中で、天皇を中心に戴くわが国の「国体(国がら)」に対する確信を深めて行った。現代の日本では、公教育で皇室を戴く有難さに付ては殆ど教えないが、被災地を視察される天皇皇后両陛下の慈愛溢れるお姿をテレビなどで観たり、両陛下の御言葉や御製を知れば、皇室を中心に戴くわが国の姿の有難さに自ずから気が付くのである。

 佐久良東雄は、恋闕心に於て第一等の人物であった。茨城に生れた東雄は還俗して江戸へ出たが、天皇おわします京都を恋い焦がれて、遂に京を目ざして旅立ったのである。その道中でも恋闕の歌を詠んでいる。

 ここもまたみやこへのぼる旅なれば一日一夜もこゝろゆるすな

 一歩み歩めば歩む度ごとに京へ近くなるがうれしさ

 京都に近づく一歩一歩、一日一夜の緊張と悦びがあふれ出て歌となっている。だが、京都で真近に拝した御所の姿は、垣が壊れ修繕さえままならぬ朝廷の衰微の様だった。東雄は涙ながらに朝廷の復興を己が任とする事を誓ったのである。

 天地のいかなる神をいのらばかわが大君のみよはさかえむ

 幾千度命死ぬとも大皇の大御ためにはをしからなくに

 東雄は、日々祈り、自らを磨きつつ国事に奔走する。親の事を思う時には、天皇様に仕え奉れと私を生んでくれたのだと深い感慨を抱いた。天皇様の為に生きる事は、尊くかつ嬉しい事ではあるが悲しみも背負って行かねばならない。

 天皇につかへまつれとわれを生みし吾がたらちねぞたふとかりける

 君がため朝しもふみてゆく道はたふとくうれしく悲しくありけり
 
佐久良東雄は、自らを桜の花に比えて心境を詠った。日々天皇様に思いを寄せる東雄は、そのお苦しみを敏感に感じ取って涙した。それを「さくらの花も泪ぐみてあり」と表現した。東雄の恋闕の心が、大皇の御念と春の桜の泪という美しくも切ない絶唱を生み出したのである。




スサノオの命は激しい悲しみの涙で緑の山々を泣き枯らしてしまわれたというが、私の深い歎きはそれだけでは済まない程に激しく湧き起って来ている。それは神様だけはご存じであろう。

青山を哭き枯らすとも飽き足らぬこの吾が歎神ぞ知るらむ
(『佐久良東雄歌集』より)

 東雄の歌に私が共感を覚えるのは、随所で時勢に対する深い悲しみと憤りが溢れた歌を見出すからである。

昭和六十一年五月二十七日、日本会議の前身である日本を守る国民会議が製作に携わった高校教科書『最新日本史』が検定に合格した。だが、左傾マスコミの攻撃と中韓の反発、それに屈した外務省の圧力により、その後幾度も政治的な修正が加えられてしまった。当時、天皇陛下御在位六十年奉祝映画上映の為全国を行脚していた私は、その情報に深い憤りを覚え、この東雄の怒り悲しむ歌に大いに共感を覚えた。

更に東雄はこの様に詠った。

 きかみたけび叫びおらびて語らずば何をなぐさに命生きまし

「きかむ」とは「牙嚙む」で「歯ぎしりすること」である。「たけぶ」は「猛ぶ」で「荒々しくふるい立つ」、「なぐさ」は「慰」で「なぐさめ」である。東雄の怒りの様を万葉集の言葉を使って良く表されている。

更に東雄はかく詠う。

 妻子なくば太刀取帯きて浮雲のいづくともなく去んとぞ思ふ

妻子が無ければ、悪逆非道なる不忠者に天誅を加える為、太刀を腰に佩いて旅立ちたい、と東雄は叫ぶのである。だが、家族への責任と情とがそれを許さない。壮年となり家族に責任を負わねばならない志士達の誰もが抱いた感慨である。

 東雄の激しい憂国の思いは、国家の危機に際して何事も為そうとしない者達への深い失望と怒りを叫ばせている。

 かゝる時心のどかにある民は木にも草にも劣りてあるべき

 かゝる時せむすべなしともだに居る人はいきたる人とはいはじ

 心なき野辺の草木も山風の吹きし渡ればさやといふものを

 この様な危機の時にも拘らず、心のどかに何も出来ないという人は生きている人とは言わないのだ。風が吹けば草木でさえ「さや」と音を立てるではないか。東雄の嘆きは深い。先見の明のある人物が、平和に酔い痴れている者達から孤立するのは仕方のない事なのだ。先駆者は人々から狂人扱いされる事だってありうる。だが、先覚者が見つめる世界は常人の住む世界とは異なっているのである。世間の「良き人」とは次元が違うのだ。

 よき人とほめられむより今の世はものぐるひぞとひとのいはなむ




武士は何の為に大太刀・小太刀の二本を腰に差しているのか。それは天皇様をお守り申し上げる為に差しているのだ。弓矢も同じ事である。

何の爲めに、二本さし候ふやと申せば、天子を守り奉る爲めにさす也。弓矢も同じ事也。(『佐久良東雄遺書』より)

 東雄は水戸藩士と交友を深めていた。時代は安政の大獄、桜田門外の変と劇的に動いて行った。共に水戸藩がその中心にあった。桜田門外の変で幕府に追われる身となった水戸藩士・高橋多一郎等は、上方の東雄に庇護を求め、東雄も協力した。

その事で東雄は逮捕拘禁され、江戸に護送された。東雄は自ら食を断ち。万延元年(1860)六月二十七日伝馬町の獄にて憤死した。享年五十歳だった。

亡くなる三か月程前に東雄は、一子石雄(巖)宛に遺書を書き残している。

その中で東雄は先祖から受け継いだ恩と日本に生まれた喜びを語り、天皇様に忠義を尽くす事の素晴らしさを諄々と説いている。

そして「天皇様に一大事という時には一命を捨ててでも報いなければならない。そうしなければ私の子孫ではない。忠義に生きるなら父が天界から助けて大功を遂げさせよう。もし逆臣の手助けをするようだったら、たちまち取り殺すであろう」と、子孫に訓戒している。

その上で、「学者や詩人や歌人になろうなどと思う事は愚かな心であって、唯々唯々楠木正成公の様な忠臣になって天皇様にお仕えする、その事だけを思え。思って日々修行せよ。」と述べ、次の二首を記している。

 人丸や赤人の如いはるとも詠歌者の名はとらじとぞおもふ

 一筋に君に仕へて永世の人の鑑と人は成るべし

更に、自分が書き残した様々な短歌や長歌を参考とする様に諭している。そして、ここで紹介した文章を含む武士論が展開されている。武士が刀を差し、弓矢を持つのは天皇様をお守りし忠義を尽くす為に許されているのである。その根本を忘れたなら武士とは言わないのだと。

最後に東雄は、「何時までも生きると思うのは大愚人である。私は無禄の身で残すものは何もない。この言葉のみを残す。この言葉さえ心得たならば、生まれてきた甲斐を感じるであろう。よくよく味わい、感じて欲しい。」と記している。

 東雄の生き方・武士道は、自らの生命を刻むが如くして生まれた数多くの和歌に残されている。江戸時代の武士道は、維新の志士達に見事に結実し、彼らの武士道の実践が、わが国を甦らせ時代の危機を救った。天皇様に一筋に忠義を尽くす、そこに幕末武士道の精華があった。

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