「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

武士道の言葉 その34 大東亜戦争・アジア解放 その3

2015-06-08 23:21:17 | 【連載】武士道の言葉
「武士道の言葉」第三十四回 大東亜戦争・アジア解放 その3(『祖国と青年』27年5月号掲載)

ベトナム独立を支援し続けた日本人実業家
大南公司はベトナム人のための企業であり、その利益はベトナムの独立運動の為に使う(大南公司創設者松下光廣の言葉)

 十六世紀後半から十七世紀にかけて東南アジアには多くの日本人が進出し、マニラに約三千人、タイには山田長政を始め約千五百人が住んで日本人町を形成し、ベトナムでも北部や中部に日本人町が点在していた。鎖国で廃れるが、明治になると再び日本人は数多く東南アジアに移り住んでいる。
 
 その中には熊本の天草出身者が数多くいた。明治四十五年、天草の大江出身の松下光廣は、十五歳で志を抱いてベトナムに渡り、苦労して総合貿易商社「大南公司」を創業した。以下、牧久『安南王国の夢』に拠る。

 松下は単なる商売人では無く、現地人と交わる中で、ベトナムの歴史を勉強し、フランスに支配されて苦しい生活を送っている人々に深い同情を寄せ、日露戦争での日本の勝利以来湧き起って来たベトナム独立運動に深く共感し、様々な援助を与えた。昭和三年にはベトナム独立の象徴的人物である亡命中のクオン・デ候との親交が生まれ、松下は深い信頼を受け「盟主クオン・デの現地代行者」として独立運動に深く関る様になった。

 大南公司は「昼は商社、夜は革命運動の司令部」と呼ばれるようになる。昭和十二年、松下はフランス当局から「スパイ容疑」を着せられ国外追放になり、日本軍の仏印進駐まではタイから指揮をとらざるを得なくなる。昭和十二年秋に松下は前号で紹介した大川周明を訪ね大川のアジア解放の志に深く共鳴した。大川塾でインドシナを志した卒業生も次々と大南公司勤める様になって行く。

 裸一貫から現地ベトナム人の協力を得て築き上げて来た松下は、「大南公司はベトナム人のための企業であり、その利益はベトナムの独立運動の為に使う」との固い信念を持ち実践した。大東亜戦争前中後・戦後のベトナム戦争を通じ、ベトナムが独立統一されるまで、松下は現地人の為に命がけで協力している。




ビルマ国軍教育に使命を燃やした陸軍大尉
我一人なくしてビルマ軍の皇道化なし。(昭和十八年四月二十九日『野田日記』)

 ビルマ独立義勇軍を育てた南機関の中に、南京軍事裁判で「百人斬り」の冤罪で処刑された野田毅大尉が居た。野田大尉は、昭和十六年三月五日、タイの首都バンコクに赴任し、タイ・ビルマ国境でビルマ独立党(タキン党)の青年の日本への脱出の手引きを行い、大東亜戦争勃発後は、彼らと共にラングーンに進撃した。平成十九年に出版された『野田日記』には、野田大尉の大東亜解放に寄せる熱い思いや、日本人の倫理的な高さに中々達する事の出来ない現地青年達へのもどかしさなどが赤裸々に綴られている。

 野田大尉の信念は「不正は断乎として処罰する、正義を愛する、これ即ち日本精神である。」というものであり、現地青年の不正や虚偽には厳しく対処し、得意の背負い投げで投げ飛ばしたりするなど、正義感の迸る激しい「指導」をしている。

 野田大尉は南機関解散後も昭和十八年八月三日までは引き続きビルマ防衛軍(BDA)司令部指導官として、幹部養成の任に当り、「ビルマ軍将校下士官服務規程」の起案なども行っている。

 昭和十八年の四月二十九日、野田大尉はビルマ防衛軍将兵と共に天長節式典を挙行し、日記に「天業恢宏の黄色の大文字も、この微小に見えるビルマの指導から生れる。日本皇道宣布の礎石たるべく我々はまだまだ勉めなければならぬ。まだ我々は奉公し足りない。皇道を彼ら兄弟民族に知らせ、治らせ、染み込ませるものは我らでなければならぬ。否、私でなければならぬ。我一人なくしてビルマ軍の皇道化なし。」と、記している。

 更に、翌日は靖国神社例祭に合せて遥拝を行い、「日本の皇化は西へ、西へと、及ぼさねばならぬ。この西進の礎石となって斃れたる我らの先輩の靖国神社の英霊に対して遥かビルマの涯より感謝の意を表するとともに、我らの至らざるを省み、我らの未だ奉公の足らざるを恥じなければならぬ。(略)本心はインドへ、イランへ、イラクへと覚悟を決め、そして前進しようではないか」と所感を述べている。

 ビルマだけでなく、アジアと世界を皇道=日本の理想で救済するとの強い意志を野田大尉は有していた。戦後の「一国平和主義」にしがみついている「九条自縛菌」感染日本人には到底想像が及ばない高い世界的な使命感に、当時の日本人は燃えていたのである。




インドネシア独立戦争に参戦した日本人
弾は人を殺さない。弱い心が、その心の持ち主を殺す(バリ独立義勇軍・平良定三)

 大東亜戦争で日本が敗れた後、日本軍によって放逐されていたかつての宗主国英・仏・和蘭は、アジアを再び植民地支配すべく軍隊を送り込んだ。現地人は、自らの手でかつての支配国の軍隊と戦い独立を守り抜かなければならなかったのである。
しかし実際の戦闘となれば経験も浅く不安の為、彼らは武装解除された日本軍の将兵に独立戦争への参加を要請し懇願した。

 一方、日本の将兵も現地青年達と大東亜解放の理想を共有して来た者も多く、彼らを見捨てる事に堪えられない者もいた。その結果インドネシアやベトナムなどでは、多数の日本軍将兵が現地に残って独立戦争に参加した。

 インドネシアでは、約二千名が各地の独立戦闘軍の中核となって戦っている。

 彼らは、①実戦部隊のリーダー②インドネシア将兵の教育③武器の製造④民衆対策の指導⑤情報収集などの役割を担い、独立軍から頼りにされた。

 特に「日本人特殊部隊」は和蘭軍に極度に怖れられ、高額の賞金迄かけられている。

 参謀将校のピンダーは「我々は武士道精神を日本から教え込まれ、訓練を受けた。」日本の教官は皆「どのような理由があろうとも、戦闘に於いて手を挙げ降参することは許されないと教えた。もしお前の弾薬がなくなったら、銃剣で敵を倒せ。銃剣が折れたら、素手で殴り倒せ。腕も折れてしまったら、歯で噛み付け。そして歯も折れてしまったら、目で敵の精神力を打ち負かせ」と教え「バリのププタン精神と、日本の武士道精神とが一体」となって独立戦争の勇士を生み出した、と述べている。

 バリ島で独立戦争を戦い抜き、最後まで生き延びた平良定三は、和蘭軍に追いつめられて恐怖するインドネシア兵に、「弾は人を殺さない。弱い心が、その心の持ち主を殺すんだ」と言って励ました。平良の強い精神力を示すエピソードである。(坂野徳隆『サムライ、バリに殉ず』)

 アチェで戦った陸軍中野学校出身の岸山勇は、攪乱要員養成学校・前線の焦土作戦部隊・兵器工場・遊撃拠点の四部門を担い、後に兵器工場爆発で事故死したが、最後に、インドネシア語で『お前たちは絶対オランダを信用するな。独立のため死ぬまで戦え。インドネシアは必ず独立するのだ。』と叫び、『東はどこか』と聞き、かすかな声で『天皇陛下万歳』と言ったまま息を引き取ったという。

 


アジア諸国に対する昭和天皇の「お詫び」
朕は帝国と共に終始東亜の解放に協力せる諸盟邦に対し、遺憾の意を表せざるを得ず。(終戦の詔書)

 バリでインドネシア独立戦争に身を投じた堀内秀雄海軍大尉は、バリ人の義勇兵に「天皇陛下がお約束したインドネシアの独立を果せないなら、私はむしろ死んだほうがましだ。だから私はインドネシアが本当の独立を果すまで、あるいは私がこのバリの地で死ぬまで、あなたがたと一緒に戦うのだ。」と語ったという。

 大東亜解放によるアジア諸国の独立の実現は日本国の第一の戦争目的だった。その日本が米国の圧倒的な軍事力の下に敗北し、遂に降伏せざるを得なくなったのである。このまま戦いを継続すれば、日本国の存立が脅かされ、日本民族が抹殺されてしまう恐れがあった。米軍は日本の殆どの都市に対し空爆を行い日本人を焼夷弾による炎の海で焼き殺し、更には原子爆弾を広島・長崎に投下して一瞬の内に数万人の日本人をジェノサイドした。

 終戦の詔書の中で昭和天皇は「敵は新に残虐なる爆弾を使用して、頻に無辜を殺傷し、惨害の及ぶ所、真に測るべからざるに至る。」とお述べになり、「帝国臣民にして、戦陣に死し、職域に殉じ、非命に斃れたる者、及其の遺族に想を致せば、五内為に裂く。」と身の引き裂かれるような苦しみを表白されている。

 しかし、日本には大東亜解放を信じて共に起ち上がり協力した友邦国があった。彼らに対する日本国の道義的責任はどうなるのか。昭和天皇は御苦悩された。それ故、終戦の御決断を国民に示された詔書ではあったが、海外の諸盟邦に対しても、「遺憾の意を表せざるを得ず」とのお詫びの文言を入れられたのである。

 更に日本は、昭和二十七年の主権回復以来一貫して、かつて「帝国と共に終始東亜の解放に協力せる諸盟邦」だった東南アジア諸国との関係を重視し経済支援も行って来た。ASEAN諸国やインドは最も親日的な国としてわが国との絆を大切にしている。

 かつてタイのククリット・プラモード元首相は「日本というお母さんは、難産して母体をそこなったが、生れた子供はすくすくと育っている。今日、東南アジア諸国民が、アメリカやイギリスと対等に話ができるのは、一体だれのおかげであるのか。それは『身を殺して仁をなした』日本というお母さんがあったためである。」と述べたが、わが国が戦前・戦中・戦後一貫してアジアの希望の星で有り続けている事はまぎれもない事実である。反日日本人だけがそれを無視し、隠そうとしているのである。
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