「道の学問・心の学問」第七十七回(令和3年11月2日)
手島堵庵に学ぶ⑤
「万事万端少しも無理非道あれば本心安からず。これ心徳を欺くゆへ也。」
(手島堵庵『会友大旨』)
堵庵の時代、心学は愈々盛んとなり、関東や全国でもその訓えを求める声が広がって来る。堵庵は、門徒の統制・管理や指導者の資格認定などにも心を配り、開祖ともいうべき石田梅岩の訓えに基づく学びが正しく行われて行く様に力を尽した。そこで堵庵56歳の安永二年(1773)に出版されたのが『会友大旨』である。心学講義の趣旨を記し、研鑽の在り方、組織のあり様等について四部で語り、用語には註釈をつけて意味の徹底を図っている。組織が大きくなって行くに際し、その根底についての共通認識を徹底したのである。
第一部の「講義趣意」では、冒頭次の様に石門心学の本質を示している。
「石田先生が人に教えられたのは、其の学問を実生活に具現する事を目的として、初めに学ぶ者に対し、自分が固有している本心の端緒を知らしめて、其の心にある明徳の光を見失う事が無い様に日頃の生活を慎ませ、日々心を磨いて怠る事無く、身を修め善に進んでやまなければ、遂には心徳が発揮されて、最高善に至る事が出来る事を趣旨として教え諭されたのである。」
更に、「日々心徳を磨く」とは「古い垢を洗い去る事」であり、「垢とは人我の事」を言い、「人我」が増長して様々な事に「私(わたくし)」する様になる。「この私が心の隔てとなって本心を晦ませて人の道を失」わしめる。それ故、「本心の通りに内から起こる正直の念を背かず曲げる事のないようにする事が大切で、それが自らを欺かない事である。」
その後で堵庵は、様々な場合に「不忠」「不孝」「不義」「不信」などをした場合に「その本心が安らかではない。これは心徳を欺いたからである。」と、種々の例を示している。そして、「万事万端、少しも無理や非道な事があれば、本心は安心できない。それは自分の心の徳を欺く事であるからだ。」と述べている。
その上で、「本心を知る事の徳用は計り知れない程日々の業に表れて来る。全て自分の心の内に立ち返って見れば、少しも理に合わない事や善では無い事に対しては自分の本心が合点しないのである。其の合点しない事を、為さない、言わないならば、大方道に背く事は少ないであろう。それは、本心こそが正に大道であり、本性は善だからである。これは、甚だ簡易な事で我々の様な庶民にも行う事の出来る教えである。近いからと言って良い加減に聞いてはならない。道は近い所にあるのだ。侍衆の事は私には解らない。ただ同輩の方々に私の志を述べているのである。」
堵庵が受け継いだ石田梅岩先生の訓えを、的確に文章として纏めている。正に、この文章によって石門心学とは何か、が不動のものとなったのである。
不動の教学が定まった為、堵庵以降、それを如何に庶民に解り易く伝え、本心を自覚する事の意味を感じ取らせるかという、「道話」が盛んに行われる様になって行き、更に心学は庶民に浸透して行くのである。
手島堵庵に学ぶ⑤
「万事万端少しも無理非道あれば本心安からず。これ心徳を欺くゆへ也。」
(手島堵庵『会友大旨』)
堵庵の時代、心学は愈々盛んとなり、関東や全国でもその訓えを求める声が広がって来る。堵庵は、門徒の統制・管理や指導者の資格認定などにも心を配り、開祖ともいうべき石田梅岩の訓えに基づく学びが正しく行われて行く様に力を尽した。そこで堵庵56歳の安永二年(1773)に出版されたのが『会友大旨』である。心学講義の趣旨を記し、研鑽の在り方、組織のあり様等について四部で語り、用語には註釈をつけて意味の徹底を図っている。組織が大きくなって行くに際し、その根底についての共通認識を徹底したのである。
第一部の「講義趣意」では、冒頭次の様に石門心学の本質を示している。
「石田先生が人に教えられたのは、其の学問を実生活に具現する事を目的として、初めに学ぶ者に対し、自分が固有している本心の端緒を知らしめて、其の心にある明徳の光を見失う事が無い様に日頃の生活を慎ませ、日々心を磨いて怠る事無く、身を修め善に進んでやまなければ、遂には心徳が発揮されて、最高善に至る事が出来る事を趣旨として教え諭されたのである。」
更に、「日々心徳を磨く」とは「古い垢を洗い去る事」であり、「垢とは人我の事」を言い、「人我」が増長して様々な事に「私(わたくし)」する様になる。「この私が心の隔てとなって本心を晦ませて人の道を失」わしめる。それ故、「本心の通りに内から起こる正直の念を背かず曲げる事のないようにする事が大切で、それが自らを欺かない事である。」
その後で堵庵は、様々な場合に「不忠」「不孝」「不義」「不信」などをした場合に「その本心が安らかではない。これは心徳を欺いたからである。」と、種々の例を示している。そして、「万事万端、少しも無理や非道な事があれば、本心は安心できない。それは自分の心の徳を欺く事であるからだ。」と述べている。
その上で、「本心を知る事の徳用は計り知れない程日々の業に表れて来る。全て自分の心の内に立ち返って見れば、少しも理に合わない事や善では無い事に対しては自分の本心が合点しないのである。其の合点しない事を、為さない、言わないならば、大方道に背く事は少ないであろう。それは、本心こそが正に大道であり、本性は善だからである。これは、甚だ簡易な事で我々の様な庶民にも行う事の出来る教えである。近いからと言って良い加減に聞いてはならない。道は近い所にあるのだ。侍衆の事は私には解らない。ただ同輩の方々に私の志を述べているのである。」
堵庵が受け継いだ石田梅岩先生の訓えを、的確に文章として纏めている。正に、この文章によって石門心学とは何か、が不動のものとなったのである。
不動の教学が定まった為、堵庵以降、それを如何に庶民に解り易く伝え、本心を自覚する事の意味を感じ取らせるかという、「道話」が盛んに行われる様になって行き、更に心学は庶民に浸透して行くのである。
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