江戸時代の前期・中期には町名は「町」の字を使用していたが、江戸後期の文化9年(1812)には盛岡城下の町数は「丁」の字を使い、23町から28丁となって発展し、明治時代にいたっています。城下町盛岡では町の中心部を中津川が流れており、中津川の南側を河南地区、北側を河北地区と呼んでおり、現在も、河南中学、河北小学などの名前の学校があります。28丁の名前のうち河南地区の17の町は次の通りです。
河南地区の丁(町)
仙北丁、青物丁、川原丁、鉈屋町、石(穀)丁、新石(穀)丁、十三日町、馬町、六日丁、呉服丁、生姜丁、肴丁、八幡丁、葺手丁、紺屋丁、 鍛冶丁、紙丁
今回は河南地17の町のうち紺屋丁、鍛冶丁、紙丁です。前回の葺手町から愛染横町を通ると奥州街の紺屋町に達します。紺屋町、鍛冶町、紙町と続く3つの町は,江戸時代,盛岡城下を通る奥州街道に沿って発展した町人町で、紙町は上の橋]両詰の町でした。
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(15) 紺屋町(こんやちょう)
紺屋町は,中津川を利用した紺屋(染物屋)が集まっていたことに由来。南部紫(むらさき)や南部茜(あかね)によって染められた布地は,盛岡藩の特産物であった。
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南部紫染本舗(草紫堂)
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奥州街道アンチック市
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紺屋町番屋
紺屋町番屋は大正2年に消防番屋として建てられた、木造2階建て、屋根の上には望楼が設えられており、当時はかなり遠くまで望めたのでしょう。この建物は当時と大きく変化がなく、消防施設の変遷を知る貴重な建物として、昭和52年に盛岡市の保存建造物指定をうけている。
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茣蓙九
茣蓙九は文化13年(1816)に創業した商家で、盛岡市を代表とする町屋建築です。格子窓や隣家との境にある土壁(うだつ?)、などが残っています。「この建物は、江戸時代後期、明治中期、明治末期と次々に建てられたもので、藩政時代からの商家の姿を今に伝える建造物である。」とあり、盛岡市の保存建造物に指定されています。
(16)鍛冶町(かじちょう)
城下鍛冶町は奥州道中の宿駅である。江戸日本橋を起点にした奥州街道の第139番目の一里塚が置かれ,駅所(えきしょ)として賑わったところである。町中にあったため塚は築かれなかった。
この鍛冶町一里塚は、領内諸道ぼ里程を計算する基点で、もと石の標抗があったが、文化(1804~)初年頃に撤去されたと伝えられている。
鍛冶町は,鍛冶職の棟梁職人が居住していたことに由来。刀鍛冶や鉄砲鍛冶のほかに農具を作る野鍛冶も住んでいた。当町の裏通りを鍛冶町裏ともいった。
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鍛冶町一里塚跡
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城下町鍛冶町は奥州道中筋の宿駅である。鍛冶町一里塚は慶長期(1596~1615)の築造とみられ、領内諸道の里程を計測する基点であった。
(17)紙町(かみちょう)
紙町は,上の橋の両詰に上方の紙商人を住まわせたことに由来。盛岡で初めて紙が漉かれたのは,寛文9(1669)年。筆墨も商ったため,紙町の東詰に天満宮が祀られていた。
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上の橋
上の橋は、慶長14年(1609)に第27代藩主南部利直(なんぶとしなお)が、 盛岡城築城時に中津川に架けました。橋に取り付けられた擬宝珠(ぎぼうしゅ・ぎぼし)は、慶長14年のものが8個、慶長16年のものが10個、合計18個が取り付けられています。橋の擬宝珠で記念銘があり、制作年代も古く、残存個数が多いという点で、盛岡市の青銅擬宝珠は国内でもまれな存在のようす。現在の橋は、何回かの流失を繰り返し、昭和になってかけかえられたものです。
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天満宮から見た紙町
天満宮から見えるこの道路をまっすぐに進むと、「鍛冶町一里塚」の次の「上田一里塚」を過ぎ、四十四田ダムにたどり着きます。さらに右方向に進むと、まもなく次の一里塚である「小野松一里塚」があります。
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上の橋のたもとの「ささき千代紙店」
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保存建造物指定 旧井弥商店(紙町)
この建物は、明治末期に井弥商店店舗として建てられたもので、明治時代を代表する土蔵造りの物ですー盛岡市
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紙町の餅や丸竹
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啄木の盛岡中学時代の歌
森の水に墨染衣名を云はずうしや経の手涙にぬれぬ
≪盛岡中学校校友会雑誌第3号 明治35年3月≫ 「白蘋」名で7首 (その5)
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啄木の盛岡中学時代の歌
森の水に墨染衣名を云はずうしや経の手涙にぬれぬ
≪盛岡中学校校友会雑誌第3号 明治35年3月≫ 「白蘋」名で7首 (その5)
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