たかしの啄木歌碑礼賛

啄木の歌碑並びにぶらり旅等を掲載いたします

岩手銀行本店敷地(旧盛岡中学跡)の啄木歌碑

2011-02-23 | 啄木歌碑
啄木は明治31年4月に盛岡中学に入学し、35年10月に退学しております。盛岡中学には当時、野村胡堂、金田一京助らが在籍しており啄木も文学に目覚めたのでしょうね。友人と回覧雑誌「爾伎多麻(にぎたま)」を発行したり、短歌グループ白羊会を結成し、「翠江」の号で「岩手日報」に「白羊会詠草」として歌を発表しています。
啄木が通っていた当時の盛岡中学は現在の岩手銀行本店の場所にあり、啄木歌碑は岩手銀行と盛岡地方裁判所の間の道路に沿った銀行の敷地内にあり、「盛岡中学濫觴の地」と銘記されております。「濫觴の地」 啄木もこの地から大きく育っていったのですね。盛岡を流れる母なる大河・北上川も、その源泉は盛岡から50kmほど北の岩手町にあり「弓弭の泉(ゆはずのいずみ)」といわれ、小さな湧き水ですが、それが大きくなって盛岡を通り宮城県の石巻までの250kmの距離流れる間にさらに大きくなっていきますよね。なお、この歌碑は昭和58年11月に建立されました。






盛岡の中学校の
露台の
欄干に最一度我を倚らしめ

石川啄木
(一握の砂)


  岩手県立盛岡中学校濫觴の地



(歌は金田一京助博士の自筆および活字体で併記されております。金田一京助書の啄木の歌碑はいくつかありますが、ここの歌の 自筆はなかなか読めないので活字体を併記しているのかな?)


啄木の中学時代の最後の歌は、『明星』に発表した、次の歌です。これを最後に中学を退学しました。なお、白蘋(はくひん)は啄木の盛岡中学時代の雅号で、啄木が育った宝徳寺の裏庭に白蘋の池があり、これに由来しているようです。


   「血に染めし歌をわが世のなごりにてさすらひここに野にさけぶ秋」   白蘋


次の写真の左側の建物が岩手銀行、その奥が岩手医大付属循環器センター、岩手銀行の道路をはさんだ右側の建物が盛岡地方裁判所で盛岡で最初に咲く石割桜があります。岩手銀行内の歌碑は銀行の敷地に入らず、岩手銀行と裁判所の間の道路の岩手銀行側歩道から見ることができます。






盛岡地方裁判所の石割桜
 盛岡地方裁判所の構内にある石割桜は、 巨大な花崗岩の岩の割れ目に、 樹齢が350~400年といわれるエドヒガンザクラが生育 しています。 ここは南部藩主の分家にあたる北家の庭園であったといわれ、 1923(大正12)年、国の天然記念物に指定され ました。






旧盛岡銀行本店本館(現岩手銀行中橋支店)
 旧盛岡銀行の建物は中の橋(なかのはし)のたもとにあり、現在岩手銀行中の橋支店として使用されております。この建物は国 指定有形文化財(建造物)で、東京駅丸の内口の赤煉瓦駅舎で有名な建築家辰野金吾が設計した建築としては,東北地方に残る 唯一の作品です。





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