たかしの啄木歌碑礼賛

啄木の歌碑並びにぶらり旅等を掲載いたします

浅草「等光寺」の啄木歌碑

2012-12-24 | 啄木歌碑
浅草等光寺の啄木歌碑
 啄木は明治41年(1908年)、文学者として身を立てるため上京して創作活動に入り、明治42年から朝日新聞の校正係となった。小説や短歌の創作に励み、浅草の賑わっている様子を歌に残している。啄木は苦しい生活の中で肺結核を患い明治45年(1912年)に27歳で死去した。葬儀は啄木の親友の土岐善麿(歌人・国学者)の生家であった等光寺で行われ、啄木一周忌追悼会も等光寺でおこなわれた。なお、啄木の遺骨は間もなく妻節子の強い希望で函館に移されている。また、啄木葬儀の一月前には、母カツの葬儀も行なわれている。
啄木の葬儀が行なわれたこの浅草等光寺には、啄木の顔のレリーフを彫り込んだ啄木歌碑があります。







啄木の歌碑は啄木生誕70周年の1955年(昭和30)、金田一京助氏らが集まって歌碑除幕式が行われた。この歌碑は門を入ってすぐ右手にあり、黒みかげ石の歌碑で、一握の砂にある「浅草の夜のにぎはひに まぎれ入り まぎれ出で来しさびしき心」の一首が刻まれ、左上に胸像が刻まれている。歌碑の右には台東区教育委員会による案内板がある。








石川啄木歌碑                                 
台東区西浅草一丁目六番一号 等光寺 

石川啄木は明治十九年(1886)岩手県に生まれる。はじめ明星派の詩人として活躍した。しかし曹洞宗の僧侶であった父が失職したため一家扶養の責任を負い、郷里の代用教員や北海道の新聞記者を勤め、各地を転々とした。 明治四十一年(1908)、文学者として身を立てるため上京して創作生活に入り、明治四十二年からは東京朝日新聞の校正係となった。小説や短歌の創作に励み、明治四十三年十二月には処女歌集「一握の砂」を出版する。生活の現実に根ざし口語をまじえた短歌は歌壇に新風を吹き込んだ。 しかし苦しい生活の中で肺結核を患い明治四十五年(1912年)四月十三日に小石川区久堅町の借家で死去した(27才)。親友の土岐善麿(歌人・国学者)の生家であった縁で、葬儀は等光寺でおこなわれ、啄木一周忌追悼会も当寺でおこなわれた。墓は函館市の立待岬にある。                         
この歌碑は、啄木生誕七十年にあたる昭和三十年に建てられた。「一握の砂」から次の句が記される。 
           
浅草の夜のにぎはひにまぎれ入りまぎれ出で来しさびしき心  
           
平成十五年三月                              
台東区教育委員会











浅草の夜のにぎはひに
まぎれ入り
まぎれ出で来しさびしき心 
啄木



この歌は、東京朝日新聞(明治43年3月18日)に発表、「一握の砂」に掲載。









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