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自然災害 仕組みとアプローチ -  再分析 井伊直虎は実際に女性だったのか

2017-02-25 23:18:53 | 地震 津波
 2/19の記事で「親族を見るとわかりますが、直虎の祖父の子孫は直虎が生まれるまで、井伊家は男ばかりなのです。」と書いたのですが、調べているうちにどうも女性も一人、それも重要な人が存在していたようでした。

引用開始 3件 (一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E5%8F%A3%E8%A6%AA%E6%B0%B8

関口 親永・瀬名 義広(せきぐち ちかなが/せな よしひろ)は、戦国時代の武将。今川刑部少輔家(今川関口家)の当主で駿河今川氏の有力家臣。主君今川氏親から偏諱を受けて親永に改める。駿河持船城主。妻は今川義元の妹(養妹とも)であり、徳川家康の正室・築山殿の父に当たる。
(中略)
永禄3年(1560年)、義元が織田信長によって桶狭間の戦いで討たれた後も衰退する今川氏を支えた。しかし娘婿の家康が今川氏から独立したため、義元の嫡男・氏真からその去就を疑われた結果、永禄5年(1562年)、駿府尾形町の屋敷にて切腹を命じられて果てた。
(中略)
妻 今川義元の妹(養妹で井伊直平の娘とも)


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AF%89%E5%B1%B1%E6%AE%BF

築山殿(つきやまどの、生年不詳 - 天正7年8月29日(1579年9月19日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。徳川家康(松平元康)の正室。本名は不明だが一般的には瀬名姫、鶴姫、築山御前(つきやまごぜん)、または駿河御前(するがごぜん)とも呼ばれる[1]。築山殿・築山御前という呼称は、長く岡崎城郊外の築山に幽閉されていたことによる。

遠江今川家である堀越氏の分流瀬名家の関口親永(または瀬名義広)の娘。よって、室町幕府の重鎮・今川貞世の血を引く。
結婚・出産
弘治3年(1557年)、今川義元の養女となり、今川家の人質として駿府にいた三河岡崎城主の松平元信(元康、後の徳川家康)と結婚する[1]。永禄2年(1559年)に松平信康を、同3年(1560年)に亀姫(奥平信昌室)を産む。
転機・幽閉
永禄3年(1560年)5月19日の桶狭間の戦いにて伯父の今川義元が討たれ、元康(元信から改名。のちの家康)は岡崎に帰還することとなった。永禄5年(1562年)3月、父の親永は娘婿である家康(元康から改名)が織田信長と同盟を結んだ事で今川氏真の怒りを買い、正室と共に自害した。築山殿は、今川義元の妹の夫である上ノ郷城城主・鵜殿長照の2人の遺児との人質交換によって、駿府の今川館から子供たちと共に家康の根拠地である岡崎に移った。しかし、築山殿を嫌う家康の生母・於大の方が岡崎城に入ることを許さず、岡崎城の外れにある菅生川のほとりの惣持尼寺で、幽閉同然の生活を強いられたという。

永禄10年(1567年)、信康と織田信長の長女・徳姫が結婚する。しかし、築山殿は依然として城外に住まわされたままであった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%BC%8A%E7%9B%B4%E7%9B%9B

井伊 直盛(いい なおもり)は、戦国時代の武将。井伊直宗の子。井伊直平の孫。
亡父・氏親の頃に支配を確立した駿河、遠江の2ヵ国に、新たに三河国を傘下に治め、今川氏最大の版図を築いた今川義元は、永禄3年(1560年)に尾張国への遠征の為の大軍を動員。直盛は、その先鋒の大将に任じられた。

織田氏の各拠点を奪取するなど今川軍が優位だったが、同年5月19日、桶狭間にて休息中の本隊が織田信長自らに率いられた手勢の強襲を受け、多くの将兵を失っただけでなく、総大将の義元をも討ち取られた(桶狭間の戦い)。

妻 祐椿尼(新野親矩妹)

引用終了

 つまり関口親永の妻が今川義元の養妹で井伊直平の娘であるとする説が本当ならば、築山殿の祖父が井伊直平であり、井伊家は今川氏とかなり強い縁戚関係だった事になります。
 その今川氏が1560年の桶狭間の戦いで大敗し、今川義元以外にも主な今川方の武将のかなりの割合が戦死(井伊直盛もその一人)してしまってから織田氏に同盟した松平(徳川)氏と今川氏の間で井伊家は複雑な状況になって行ったようです。

 



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