くない鑑

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明大博物館の特別展「お殿様のお引っ越し」

2009年12月13日 | 知識補給
御茶ノ水の明治大学駿河台キャンパスの一角に聳えるアカデミーコモン。

ここの地下にある明治大学博物館で、「お殿様のお引っ越し」=転封に関する特別展が開かれていると知って、行って来ました。

明大には、日向の延岡内藤家の文書類などが多く収蔵されており、4年前にも、「内藤家の至宝」として公開されて観に来ましたが、今回は、その中から転封に関する史料などをピックアップしての展示。
転封は、知識としては知ってますが、内実は、あまり調べたことがなかったので、大変興味深く観て来ました。

内藤家は、三河以来の譜代大名ですが、あまり、他の譜代大名に比べて移動が少なく、上総佐貫→陸奥磐城平→日向延岡と、2回しかないのですが、最初の転封(元和2年)に関する史料はないそうで、今回公開されたのは、延享4年の転封に関しての史料です。
この延享4年の転封は、内藤家含めて3家が一度に所替えとなり、内藤家の抜けた磐城平城主には常陸笠間から井上家が、常陸笠間には日向延岡から牧野家が、それぞれ引っ越すことになります。

この「三方地所替」は、江戸後期の天保11年に予定されていた武蔵川越の松平家と出羽庄内の酒井左衛門尉家、越後長岡の牧野家との一件が特に有名で、出羽庄内領出身の藤沢周平は、この騒動を『義民が駈ける』として世に発表しました。
ついでに、この騒動の顛末を述べると、財政が極度に悪化していた武蔵川越の松平家が、裕福の聞こえ高かった出羽庄内への転封を画策し、大御所家斉公を初め、幕府要職への強力な働きかけ(=賄賂など)を行って、ついにそれを実現させ、その欲の目晦ましとして、越後長岡の牧野家を巻き込んだ転封となった。
しかし、これに酒井左衛門尉家と庄内領民が猛烈に反対運動を展開し、これに、家門・譜代から、伊達や佐竹などの近隣の外様大名からも異論が出て、あわせて、川越松平家の不幸と、大御所家斉公の薨去とともに取り消される・・・というものです。
この顛末は、川越松平家には、家斉公の子・斉省(なりさだ)君が養子として入っていた縁という面から、大御所政治の象徴とともに、一度発せられた台命=将軍家慶公の命令が撤回される前代未聞の事態に、この後の上知令と合わせて、幕威低下の象徴として取り上げられることもあります。

ただ、三方地同時所替えは特別なことではなく、幕府の「人事異動」として、ちょくちょく行われていることでした。
上記の騒動に大きく関わっている、時の老中・水野忠邦も、肥前唐津から遠江浜松への所替に際して、浜松城主井上正甫が陸奥棚倉へ、陸奥棚倉の小笠原長昌が肥前唐津へと、3家が同時に引っ越してます。
しかし、その作業(引継ぎ)は、とても大変だったようです。

内藤家は、他の大名家文書に比べて、転封の実態を明らかにしうる良質な史料が多く残されているそうです。
しかも、転封は2回だけで、最初の転封からも100年以上経っており、勝手もあまりわからない内藤家中は、他家の例等を参考に、滞りなく城邑の授受ができるよう、また、入封後の統治が円滑に行えるよう、引っ越し先の大名家との折衝に家臣を派遣したり、文書を頻繁にやり取りなどして情報収集に努め、準備に余念が無かったようです。
(「井上河内守様郡奉行ヨリ問合答書」「延岡請取方内藤備後守御家中より諸事聞合帳」)
また、その準備の為に、他家の先例を参考にすることもあったようです。
(「遠州浜松・参州吉田得替御用止帳」「牧野大学様三州吉田より所替の節請取り方覚帳書抜」)

今まで、知識としては知っていた大名家の引っ越し=転封も、この特別展の史料群とパネル解説を読んで、漸く、その流れが解りました。
特に面白く、興味深かったのが3点。
まず1点目は、城邑は「将軍家が与えるもの」であり、大名間の授受が行われる間は、将軍家が上知する形になったいたそうです。
ゆえに、授受には将軍上使と代官が、大名間の代表と共に立ち会い、絵図面なども、この為に用意もされます。
絵図面の中には、検分に訪れる上使と代官の経路まで、しっかりと朱書きされていました。(「岩城平城図」)
次に、武具類は城の付属品ということ。(「延岡城置付武具帳」)
武具類は、てっきり大名家の所有かと思ってましたが、「城」の位置付け,正確を、改めて認識させられました。
これとあわせて、領内の寺社仏閣の祭礼に必要な品々も、城保有となっていて、これが、城邑や武具類の文書と共に、新領主へ引き継がれていること。
(「祭礼并祈祷代参詣遷宮神事能取曖」,「延岡城下図屏風」)
これによって、例え領主が入れ替わっても、すぐに祭礼神事が行える・・・ということです。
内藤家が牧野家から引き継いだ物の中には、延岡の今山八幡の祭礼具も含まれています。
(「檜垣桐唐草蒔絵面箱」「三番叟鈴」「黒式尉」「白式尉」)
この、祭礼神事の道具類が引き渡される所以は、領主が交代しても、領内の秩序は保たれる・・・という、効果があるそうです。
例えば戦国時代でも、占領した城邑の寺社仏閣にはいち早く領地安堵の文書を発給したりして、地域の秩序と安定を図っており、天下泰平の世になっても、寺社仏閣の持つ力と効果は大きい・・・と、いうことでしょう。

現代でも、首長なり、政権与党が変われば、施政の方針に変化は生まれますが、江戸時代、転封などによって領主が変われば支配機構ががらりと変わり、領主側も領民側も、不安に駆られ、疑心暗鬼になるのは当然です。
(「今度延岡江御所替被遊候ニ付木戸方郷士・与力・新切取・郷足軽御供奉願候口上書」「仏浜村先年古御貸物年蒔済口書上帳」「上郡山村古御貸物書上帳」「演説覚書」)
だから、天保の三領知所替えで庄内の、特に領民側が、強力な反対運動を展開したんです。
生きるも死ぬも、お互い次第なんです。
(「文久3年騒立一件裁許申渡」)

転封に際して、事前準備に腐心した内藤家も、入封後に領民の騒擾が発生し、幕府代官に事情(仕置)を説明せざるを得ない事態を招いてしまいます。
(「宮崎騒動一件留書」「宮崎騒動につき書状」)
元々、内藤家が延岡へ転封となったのは、家中と領国仕置の宜しからざる儀に付き,言わば、懲罰的転封なんですが、やはり、仕置きとは難しいものなんですね。。。

展示史料の数は、然程多くは無かったですが、転封に関する多くの史料群を観られて、とても大満足で、知的欲求は十二分に満たされました。
「転封」にまつわる史料展なんて、そうそう開かれるものではありませんから、興味のある方は、是非是非行ってみてください。
一般は、300円掛かりますが、私は、お手頃価格だと思います。

しかし...
近世文書も、やっぱり読み辛い(^^ゞ
史料購読、受けてたんだけどね(苦笑)

p.s.
常設展は無料ですが、こちらも中々面白いですよ。
中でも刑事関係は、勇気のある人は、是非、観てもらいたいです(笑)
何があるかって?!
それはご自身の目で、お確かめください。
滅多に観られない、法律学校としてスタートした明治らしいモノが、展示されていますので。

常設展示室出口にあった募金箱・・・中にはなぜかドル札が数枚。さ、さすがはグローバル30選定校!(違)

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2 コメント

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Unknown (武骨録管理人)
2009-12-17 15:58:56
無粋を承知で突っ込んでよかですか(^^;

庄内の殿様は酒井家では??


ちなみに明治っ子の友人の弟は
リニューアル前の学食を『餌場』と呼んでましたw
返信する
…あ゛っ(汗) (記主くない)
2009-12-18 08:13:03
▽武骨録管理人様
コメント、ありがとうございます。
そして、ツッコミも。
いま、気が付きました(恥)
後ほど訂正しまし。

明大は、すっかり変わりましたよ。
きれいになっちゃって。
もう、構内を歩いても、ゲバゲバされる心配はなさそうです(爆)
返信する

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