くない鑑

命を惜しむなっ!名こそ惜しめっ!!前へぇ、前へーーーぇっ!!!

南部宗家の「証」の流転

2010年10月19日 | 知識補給
先日、文化財の偉い先生とワタリをしている方と酒席をご一緒しました。
お二方とも日々大変お世話になっていて、その道で昇りつめた方々なので、何かと興味深いお話を聞けましたが、確か、結婚に纏わる話題になった時だったと思います。
私もよい歳なので(笑)
先生方のお子さんのことや、同僚同輩方の近況などなど。
例えば、兵庫の松平家(具体的には不明)には織田信長家の裔が家老として仕えていたそうで、そこのお嬢さん方がもうよいお年頃(40前後?!)らしいんですが、結ばれるお相手は、いまでもやはりそれなりの家の格がなければならないらしく、いまだ独り身だとか。
それでも生きていけるのは、それなりの経済力があるから・・・だそうです。

その流れの中で、タイトルの南部家の話題に。
なぜ?!の疑問には最後でお答えします。
さて...
私はいままで、南部の宗家は盛岡藩主家だと思っていました。
しかし、実は違うらしいんです。
盛岡藩主家=三戸南部家は元々分家筋で、宗家は藩主家の下で代々重職(家老職)を務めて遠野を領した遠野南部家=根城(八戸)南部家だというんです。

これには正直驚いて、先生に何度も聞き返してしまいました(笑)

立場がいつ逆転したか?!については、いま一つよく解っていないようですが、恐らくは南北朝以後の室町時代かと見られています。
しかし、なぜ遠野南部家が宗家と言えるのか?!
それは、先生曰く「家祖伝来の「鎌倉文書」なる文書類を保管していることが宗家たる所以と証」なんだそうです。
ただ、もうこの時は多少のアルコールが入っていたので、記憶が若干曖昧です(^^ゞ
それゆえ、今まで何度と無く危険に晒されようでしていたでしょうが、今に知られる危機は大正時代。

そう、20世紀の大正時代です。

相手は盛岡出身の第19代内閣総理大臣の原敬です。

そう、無爵の者として初めて内閣総理大臣に就いて“平民宰相”として呼ばれたあの原敬です。

なぜ?!と思われた方も居られるかと思いますが、原の家は盛岡藩士。
そう、即ち分家筋に仕えた家柄で、原が首相となった機に、国権を労して遠野南部家から文書類を接収して盛岡(三戸)南部家に譲渡しよう・・・と画策したのです。
しかし、この陰謀を阻止したのが当時の遠野駅長なんです。

そう、遠野の駅長さんです。
なぜ?!かというと、この駅長さんは南部家の本貫地であった山梨県出身だったんです。
事前にこの陰謀を察知した遠野南部家は遠野駅長さんの協力を得て、山ほどある文書類を貨車に乗せて南部家とは縁が深い身延の日蓮宗総本山久遠寺に運びました。
南部家と日蓮宗は、宗祖日蓮上人が法難に遭った時に庇護した縁で結びつきがあり、久遠寺の副山主を代々務めていることから、貴重な文書類が運び込まれたのです。
こうして難を逃れた貴重な文書類は、暫く久遠寺に保管された後、遠野南部家が住職を務める府中の聖将山東郷寺に運ばれ、今に伝わっているそうです。

ちなみにこの東郷寺は多磨霊園近くにある広大なお寺さんで、かの連合艦隊司令長官を務めた東郷平八郎元帥を弔うお寺さんです・・・が、なぜここに遠野南部家が居るのかは、聞いたかもしれませんが、覚えてません(^^ゞ

あっ、そうそう。
なぜ遠野南部家の話になったかと言うと、ここにもはやりご令嬢が居られたそうなんですが、家柄に見合う男性が巡り合えなかったようで、ついぞ...。

いまの世にも、そういう慣わしは残っているようです。

そう!だから私は・・・・・・いえ、何でもありませんorz

コメント (2)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 絶滅危惧種 | トップ | パワースポット »
最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown ()
2010-10-20 15:44:30
南部と聞いて…


遠野と三戸で最近は色々遠野がどうやらうえであったエビデンスがあるそうで…。

自分が東北めぐりしたときは三戸や盛岡のタクシーのおじちゃんと根城のタクシーのおじちゃんで言ってることが違いました。

ただ、どっちが宗家でも「そのような歴史が伝わってきた」というのは史実ですね。おもしろひ
返信する
元祖と本家 (記主くない)
2010-10-21 08:13:13
▽橘様
いらっしゃい。
コメントありがとう!
それぞれの地元で「おらが」と主張しているのは面白ひね。
南部は一千年近い歴史があるからね
返信する

コメントを投稿

知識補給」カテゴリの最新記事