くない鑑

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あなたはだーれ?!

2011年05月24日 | 知識補給
ここ最近、毎日残業可能時間ギリギリまで仕事をしているので、家に帰ってくるのは・・・23時過ぎ。
帰りの電車の中では、例え立っていても、途中の記憶はありません(笑)
図書館で、せっかく興味深い歴史系の教養書を借りてきて読んでいるのに、気が付けば、止まってます。
どこまで読んでいたのかも、判りません(笑)
そんな中、ここ最近、家に帰って楽しみなのが、4年前の大河ドラマ「風林火山」を観ること。
ただ、帰ってきた時間には勿論やっておらず。
今から2年ほど前。
当時のBSハイビジョンで再放送していたのをおよそ半分、ブルーレイ導入時からほぼ全話録り貯めていたので、観返しています。
改めて観ると、うん、やっぱいいです。
観応えあります。
今年放送している大河が、よりつまらなく見えてきます(苦笑)
尤も、もう、今年のはほとんど見ていませんが...。

さて、この風林火山。
録り始めから順・・・と言うわけではなく、いきなり最終回近く、川中島の前哨戦辺りから観始めたのですが、そこでふと、あること、いや、ある疑問点に気が付きました。
それは、武田左馬助信繁と観て...

真田幸村は、なぜ、“幸村”と言われるのか?!と。

伝承の域は出ないでしょうが、幸村の本当の名たる“信繁”は、武田左馬助信繁にあやかって名付けられた・・・と、聞いています。
それなのに、何故に“幸村”の名が“本当の名”の如く扱われているのか・・・特に、左馬助信繁公が立派な最期を遂げられたのを観て、特に気になりました。

そもそも、真田幸村・・・あ、いや、左兵衛佐信繁公の生涯において、今や本名と思われがちな“幸村”と名乗った記録がない?!とか。
それを聞けば、ますます気になります。

“幸村”名乗りの伝承は、諸説紛々あるようですが、今現在判っている初見は、江戸中期。
4代家綱公の御世に刊行された『難波戦記』なる軍記物だとか。
国立国会図書館や秋田県立図書館でも閲覧が可能らしいこの本の中で、左兵衛佐信繁を“幸村”として描いているそうです。
して、その名の謂れは...
“幸”の字は、真田家や、主筋と伝わる海野家の通名として知られており、父祖も用いていたので、まぁ、判ります。
問題は、“村”がどこから来たのか。
一説には、姉の村松殿から取ったとか。
はたまた、仙台真田家の主家、伊達家の時の当主の陸奥守綱村公から取ったとか・・・言われていますが、前者はともかく、後者、即ち陸奥守綱村公から取ったの言うのは、ちと無理があるかと。
確かに、「難波戦記」が刊行された折には、まだ、“綱村”と名乗っていなかったこともあります。
しかし、それ以上に、近世以前の“名前”の考え方からして、難しいかと。。。

近世以前の日本では、実名(諱)を敬避する習俗が存在しました。
これは、名前には“目には見えない力がある!”とされており、相手を効果的に支配下に置くのに都合がよいと、従来考えられていたからです。
この典型的な例が、一字与える“偏諱”です。
偏諱のやり取りによって、主従が成り立つのです。
特に近世では、儒教的な思想や序列の概念(忠義や年功序列)が強くなり、その中核である「家」や「領主本家」の権威上昇を画す観点からか“禁字法令”まで散見されます。
伊達家でも、18世紀後半から、武家は勿論、庶民領民にまで適用されるようになります。
話題の「村」も、伊達宗家(当主)よりの拝領者が名乗っているのに過ぎないので、他者が名乗る、または用いるのは、仙台住作者ならば大いに憚られたことと推察します。
刊行当時の伊達宗家当主が「村」を名乗っていなくても、「村」を名乗りだすのはその5年後。
また、陸奥守綱村公は結構やり手で「名君の誉れ」も受けましたが、強制隠居させられた父君の影響もあるのか、幾分専制的なところがあったようです。
そうした治世下ならばなおのこと、修正の指示などが考えられます。。。

そうすると、「村」はどっから出てきたのか。
ますます判らなくなってきました(^^ゞ...

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