指針、どこに向かうか、どう向かうか の舵取りが大事です。
ここで食い止めなければ。ここが最後の砦なのだ。
私が食い止めなければ誰がこれをできると言うのか? という心境
この頃、初心に戻ると言うか、初心者になったつもりで仕事をしようとするためか、ずいぶん前に、はじめて実習した時の事などをよく思い出します。それが今までの私の心理臨床の心がけや中軸にとても影響していると思うからです。それで、その時の体験などを示したいと思います。
私が大学院に入って本格的な外部への実習が始まりました。修士課程1年目の初めての校外実習は、九州大学医学部の付属病院の小児科でした。週に1日だったと思います。
はじめての時、責任者に当たる外来部長のような先生がわざわざ私一人のために説明に来られ、その説明が私のそれからの臨床上、忘れられない言葉となりました。
その先生は、
「ここに来る患者さんは、ここが最後の砦と思って来ていますから、貴方もその気持ちをを受け取って、最後の砦と思い仕事をするように」と言われました。
決して実習などと言う、いい加減なものではありませんでした。
大学病院と言う所は、それ自体が、すべてが患者さんにとり、最高の治療的な実践を求められているのです。
私の場合、いい加減な、居ても居なくてもいいような無責任な実習などとはかけ離れたもので、大学病院のスタッフの一員としての責任と義務付けをきちんとされたものでした。
さほど余り考えなくても判る事ですが、患者さんにとっては、実習などと言う概念は、ポリクリと言う医学部学生の見学的なもの以外は、すべてが治療的な体験なのです。大学病院の内なる誇りと権威は、
「ここで駄目なら後はない」と言う自負の念とそれに対応できる臨床能力です。患者さんにとっては、大学病院のすべてが最高の治療的な体験である事を期待していて、また、ある患者さんにとっては、いろいろな病院を巡り、最後の砦として期待している方ばかりかもしれないのです。
この言葉は、私にはとても堪えました。
だから、徹底的に、小児科に関するあらゆる心理検査を何度も練習しました。ロールシャツハに至っては、子供用として刺激図面を五枚に減らし、その採点と解釈を10枚の物と比較して、特徴をはっきり言える事やおぼろげな事など明確にしてきました。また、1枚目で終わる場合、1枚目と全体の関係など調べ上げられるだけ調べたり、あらゆる事態に備えるために、ずいぶん沢山の学生や院生の被験者としての協力願いをしました。
プレイセラピーなどの基本的な理論はプレイセラピストの書いたものより、ロジャースの論文に頼りました。どこか素直に私の心の芯に伝わって来たからです。
また、箱庭などだけでなく、野球用のグローブやバットなども運び込み、プレイの幅をずいぶん広くて自由にしました。
今から考えると、若い医局の先生方は、皆さんが当時から集団部屋で仕事をしていました。それなのに、私がある部屋を与えられたと言う事は、別格の扱いであり、それだけ数段高い臨床能力を持ち、仕事遂行達成能力を持つのは、当然のことと言えます。
その言葉の重さと、神田橋先生がいつも言う
「心理臨床の仕事は常に、その回で終わってもやり残しがひとつもなく、やれるだけの事をして、うてるだけの手をすべてうって置くことです。」と言う言葉が重なりました。
今、振り返ってみても、この二つの言葉が私の心理臨床の基礎の基礎を作りあげていたと、つくづく思います。
この二つの言葉と私とが重なりあい、いつしか
「私が最後の砦であり、私以上にこの患者さんと向き会える者は、誰もいない」という心の奥深いところでの思いとなって、また心理臨床の核となっております。
これは、自負とか過信でなく、事実、
「貴方の事をこれ以上正確に理解しようと思い、また正確に理解しているのは、この私以外に誰がいますか?
また、私以外に誰が出来ますか?」という気持ちが、私はどの患者さんに対してもはっきりあるからです。
そして、誰にもその気持ちを言わない強い自分との契約であり、自分との、そうでなければならないという強い約束があるからです。
実際、私が邪魔くさいと言う事で諦めると、その代わりに私以上にその患者さんと関われる替わりの治療者は誰もいないと、私は思うのです。
そして、私自身、100%までとは行かないにしても、受け持つ患者さんの9割以上は、その契約を私はきちんと履行していき、患者さんにとってそれなりの治療的な達成と満足感を得ているように思います。
他人が聞けば、嫌な程、過信と自惚れに満ちたような心境に思われるかもしれませんが、私にはとても必要な自分との契約であり、心理臨床家の軸になっている事は確かな事実です。
これは、無理して気張っているのでなく、ごく自然に私の内に生まれてくる心情です。事実、私以上にこの患者さんの正確な理解と理解されたという満足度を与えられる、ほかのセラピストが一人も居ないと私が思える程、患者さんのいのちのレベルからの理解は、ケースに魂といのちを吹き込むのです。
ひょっとしてか確かなのかわかりませんが、この最後の砦と言う言葉に出来ない心の深い深いところでの強い私自身の自覚が、患者さんにとって信頼の基盤を作っているのかもしれません。
つづく