精神療法家 増井武士のブログ・バリ島日本人自殺予防ヴィラオーナー(レンタル可)

心理臨床の研修会・精神療法外来の陪席・海外のワークショップやバリ島ビーチフロントヴィラの利用のご案内などを掲載します。

バリのヴィラ16・B-ヌガラ物語ー(9)

2018-03-31 20:31:03 | 日記
 私達の歓迎セレモニーとは知りませんでした

 朝昼兼ねた食事をとり、ぶらぶらしていると当たり前ですが、夕方になります。この当たり前のぶらぶらが、日本でのぶらぶらとまったく違うのです。
心の成り行くままのぶらぶらなので、そこには、ある種の充足感があります。それでそのぶらぶらがひどく短く感じられるのです。無論、その当時新しいヴィラで気持ちがうわついてウキウキしていたからではありません。今でも、他の方々もぶらぶらしていたら、あっという間に時間が過ぎたとよく言うのです。
バリではぶらぶらすることを「ジャランジャラン」とも言います。散歩散歩ぐらいの意味です。しかし、バリの人のジャランジャランは、散歩する時間を楽しみ、笑い話で笑いこけるイメージどおりに聞こえるのです。
ぶらぶらはバリではとても贅沢な遊びになるように、バリのぶらぶらは何となく満たされた時間の経過になっているようです。
そうしている間に、車でカディさんが迎えに来てくれました。5分足らずで丸尾さんのヴィラに行くと、バリの伝統的な楽団がすでに準備万端でした。ジュゴクという、別名、格闘技の音楽とも言われていて、直径が30センチぐらいで長さが180センチぐらいの大きな竹から小さな竹がずらりと巨大な木琴のように地上1.5メールぐらいの高さに並び、その竹の上を飛び交うように演奏する様子は、あたかも格闘技のように竹を叩いているようでした。それの一列が4人のパートに分かれ、たくさんの男性が汗をだらだら流しながら演奏していました。それも前かがみの中腰で、長時間叩き続ける体力に感嘆至極でした。直子が後ろに回って演奏者を直に見にいくと、彼らはにっこりほほ笑んでくたらしいです。
一番前で演奏しているバリの典型的な音楽のガムランとセッションのような音のやりとりはひどく昔風で懐かしく、まるでタイムスリップしたような気分になりました。
このジュゴクはヌガラ発祥のものであると聞きました。その音楽に乗ってバリダンスが始まりましたが、最初は古典的な子供たちの簡単な踊りから始まり、徐々に本格的な踊りに移り変わり、最後に参加している一人ずつを招いて踊るのです。一般的にバリでは祭事をセレモニーと言います。バリではセレモニーでも最後は参加者の誰かを誘って踊ります。
私が途中で飽きてきて丸尾さんに、もう帰るといった時、それは困る、これは先生の新築の祝いのセレモニーだからと言われ、やっと歓迎の意味を込めてセレモニーをしてくれていることが初めてわかりました。
丸尾さんがセレモニーの途中で、踊るのが巧い台湾の女性やら紹介してくれたのですが、吉本バナナさんも詳しく紹介してくれました。丸尾さんが以前勤めていたところが吉本興業らしいので、吉本バナナさんと知り合いで、よくヌガラに遊びにくると聞きました。次回来る時、必ず私のヴィラにきてくださいとのお誘いはしておきました。気さくな柔らかい方でした。
私も誘われて下手なダンスを踊りました。ずるいのは直子でどうせひっぱり出されると思って異常に恥ずかしがり、ジュゴクの楽器の影に隠れていたらしいのです。
デンパサールやウブドなどの都市部では、このようなセレモニーの見学が有料化され、元来の祭事の意味が薄れ営業化されています。
丸尾さんはこのような伝統芸術を残すために、音楽や舞踏の学校を作り、いくつかの楽団をかかえているということでした。その技術は高くたもつために、自分の会社の社員にさえしているようでした。
このようにしてバリの、まずは、手探りでも本格的な4ヶ月の生活が始まりました。本当に描き尽くせないほどいろいろあった生活でした。そこで住んで見なければ分からない事ばかりだとさえ言えます。これから少しずつ触れて行きたいと思います。
最初は庭の手入れや家のメインテナンスや力仕事をやってくれる男性のハウスキーパー3名と家事一般や細々と身の回りの世話をしてくれるメイドさん3名でヴィラの生活が始まりました。ハウスキーパーの責任者っぽい人はヌルルさん、メイドさんのそれに当たる人はアリさんです。この二人は今でも変わりません。


バリのヴィラ16・B-ヌガラ物語ー(8)

2018-03-29 21:38:54 | 日記
はじめてのヴィラとの出会い

 先に書いた多忙な時期も役員が変わり、少しずつ、組織的な機能が定着化してきました。それで、バリのヴィラの送金を事情があり、ドルで送金しました。大まか1ドル100円のレートで送りましたので、契約よりやや多額にバリの銀行に振り込みされているはずです。
その送金をしたことを忘れた頃に、丸尾さんから、家が建ったという連絡がありました。
私もまだ仕事の多忙さの余波があり、訪問する余裕がなく、随分と新築のまま時が経ちました。
ヴィラの建築費を送金してから、細々とした私なりのヴィラのイメージとその設計について連絡をしていましたが、あまり返答もなく、時には、「了解です。」という簡単な返答しかありませんでした。
今から思うと、ヴィラの出来上がりの件は別として、現場で働くバリの方は、バリ時間とバリ返答でやっていたと思います。バリ時間とかバリ返答というのは、ほぼ文化的な特徴です。バリに特有な時間や返答形式があり、ちょっとした屋根付きの休憩所でも、約3週間という約束をしても、3ヶ月ぐらいかかります。催促しないと半年は係るかもしれないのです。
日本で修行した、通称カーペンターのアリさんという方さえもそれです。明日やると言うのは、いつか気が向いたらやるとかなり同義なのです。
だから、送金して忘れた頃にヴィラができましたという連絡でした。こちらの方もまだ忙しいく、その連絡を忘れた頃の見分となりました。
ちなみにバリでは、私の知る限り、契約書も無ければ正確な図面もありません。
だいたいの金銭と時期とだいたいのイメージとだいたいの完成図があれば契約成立で、書面化しません。
だいたいの事をバリではキラキラと言うのですが、このキラキラを受け入れ、日本での正確さと擦り合わせる事が私のバリステイの第一歩となりました。
キラキラの善し悪しを理解せずに日本の契約文化などの正確性を無理して持ち込むと、確実にイライラしてノイローゼになる事は間違いないと思います。
キラキラだから、いい加減な、とか、口ばかりだとかと思うのはよくわかります。実際に私がそうだったからです。しかし、長く付き合ってみると、明日までというのは、明日になっても明日までという認識が変わらない様子なのです。
というのは、今からすぐに取りかかるように、と言えばすぐに取りかかり、残りは明日にというと明日に残りはとりかかっているのです。
悪気というよりも素直で気長にやるのです。
3ヶ月ぐらいかかりますと言うのは明日になっても3ヶ月ぐらいなのです。しかし、結果的には思う以上のしっかりした仕事をするのですが、これらの特徴は後で述べるのでここでは省きます。
 デンパサールの空港からヴィラがあるヌガラまでタクシーで2時間半から3時間ぐらいかかります。最初はずいぶん遠いと思っていました。しかしバリの国土法では、空港からヌガラの手前までは、ホテルとかレストランなどの国益に通じる施設しかビーチフロントの土地は建てられず、個人的な住宅としてはヌガラ辺りにからしか認められていないらしいのです。
パステイ社のドライバーは幾人かいますが、私達を最初に迎えにきたのはカディさんと言う非常に好感のもてる英語が堪能な方でした。途中でいろいろ話しましたが2つ強い印象と記憶がありました。ひとつはヌガラと言う地名の意味を尋ねた時です。彼は少し考えて、「May be… Be-ing nature it's self 」と言うのです。自然それ自体、というかなり哲学的な意味と思いました。しかし、実際に住んでみると本当に自然そのものでした。彼の言うBe-ingという、自然に~成り行く~という表現の意味は深くはぴったりしていたのです。
もうひとつは、私が何も聞かないのに、自分は先生のヴィラが一番好きだと言うのです。
私は車の中で、ヴィラについて、あまりに期待出来ないような絶望的な予感がなぜか湧いて来ていたので、「あれっ、バリでもオベッカは使うのだろう。」というくらいにしか受け取っていませんでした。
、あれだけ細かく言っていたけれど、なぜか無視されて、まったくイメージ違いのヴィラかもしれないだろうと思い、期待しないような努力をしていたと思います。
深夜便なのでヴィラに着いた時は、もう明け方近かったのですが、スタッフが6人も待っていてくれました。それも驚きましたが、その内の一人の女性のじっと見つめる熱いけど静かに我々を見つめる視線が印象的でした。その人は、今、メイドのチーフをしてくれてる直子ととても気の合う友達のようなアリさんでした。
ヴィラを見つめると、なんと、広々とした庭の芝生のところどころに植えられた木々をライトアップしていたのです。そして庭の向こうの海の波音がとても心を落ち着かせました。
家に入ると、非常に気の巡りが良く、テラスの前のプールもライトに照らされ綺麗でした。あながちカディさんの言うのはオベッカではないと思いました。
この時の小さな感動と大きな安堵感は、忘れようにも忘れられないでしょう。
今までの努力が報われた、などの気持ちではなく、これから先が開けたと言う実感です。
朝があけ、遅めの朝昼兼ねたサンドイッチを食べていると、丸尾さんの使いの方が来て、今晩お迎えのセレモニーをするので参加して下さい、との事でした。
私はその真意を掴みそこなったのか、夜はゆっくりしたいので遠慮しておきます、と応えると、困ったなぁ、ぜひとも参加して下さい、と言う事でした。
     つづく
 追伸  コメントをくださった方へ
 私の本の感想まで頂き、ありがとうがざいました。
歩きながら考える、一歩前に出ると、景色は変わる。変わる景色を見て、また方向を見定め、また歩く。この連続がスムーズに行くように自分をしつける… 
これらは、宮本武蔵の五倫の書を一度読んでみてください。詳しくはそのうちに、池見陽先生との対談集が出版される予定です。このテーマと五倫の書のことも、そこに書いています。                  

バリのヴィラ16・B-ヌガラ物語ー(7)ー

2018-03-28 13:25:14 | 日記
ヴィラどころではない日本での毎日

 このようにしてバリの土地は確保されました。別にそれで気が緩んだ訳ではありません。がヴィラを建てるまで数年はかかりました。
日本ではヴィラどころではない多忙な毎日が数年に渡り続いたからです。
私事になりますが、、その当時、私は、日本臨床心理学会の運営と臨床心理士という文部省指定の資格を巡って、学会や臨床心理士会の発足やその育成などの仕事に忙殺されるほど多忙だった為です。
臨床心理士という資格は日本心理臨床学会という、当時でも会員数が一万人を超える、多分日本で一番規模の大きな学会と密接に関係している資格です。
当時その学会の理事長をしていたのは、のちほど文化省の長官まで勤めた河合隼雄先生で、私はその当時、学会の常任理事長として理事長の仕事を補佐し、かつ学会運営などに携わっていました。その常任理事会や理事会が多くは東京や京都で開催されており、出張が頻繁にありました。
無論、学会のたびに学会運営などの報告義務があり、加えて他の大学院の集中講義が極度に増えて、バリのヴィラどころの話しではなくなっていたのです。
他の大学院の講義や講演が急に増加したのは、少し説明が要ります。臨床心理士の正確な社会的認知のためにも少し触れてみたいと思います。
日本では文部省が臨床心理士をという資格を作り、各地の小・中学校に、割合時給の高いスクールカウンセラーを全国的に配置して、不登校やイジメなやリストカットや自殺などの心の問題に対処しょうとしていた時期でした。
臨床心理士の取得とは簡単に言えば、日本で医師になるためには医学部を卒業する必要があり、その卒業のためには、国が定めた解剖学などのような専門単位を取得する必要がある事を想定すると、わかりやすいと思います。
臨床心理士の資格の取得は比較的困難で、おもに、臨床心理や心理学関係の専攻コースをもつ大学の大学院の修士課程を終えていて、国が定めた然るべき学問の単位をすべて取得する事です。そして、ある程度の心理臨床体験や実践を終了しておかねばならないのです。しかる後に臨床心理士取得の受験の資格ができ、その後、筆記試験と面接試験を終えて合格して、初めて臨床心理士資格取得者として登録される訳です。
委細は省きますが、要はそのような臨床心理士の受験資格を与えられない教官の場合は他の大学から然るべき業績や学位のたる非常勤講師を招聘しなければならず、非常勤講師は当然その関係する科目を教える義務があります。
そのような理由で、各大学や、とくに私立大学などは競うようにこのような臨床心理士の受験資格ができる大学院、我々の言うA級大学、を作るために奔走していました。しかし実際はそのような専攻科目を教える教官が大学内におらず、各大学は非常識講師でまかなっていました。
だから、そのような資格をもった者達は、多くの大学の非常勤講師となり、講義をして回らなくてはなりなかったのです。
私は多い時には、4つの大学院を受け持ちました。また、それだけではありません。前述した臨床心理士が続々誕生した時、各都市や各県単位に臨床心理士会ができ、各地のブロック単位や全国レベルの代表者が、臨床心理士の社会的機能や各地の動きを連絡する代表者が必要となり、私は全国区レベルと地方区レベルの代議員などに選出されてしまいました。だから臨床心理士会の運営などに関わらざるを得なかったのです。
加えて学会誌の編集委員会やらであたかも全国を飛び回るように様でした。
また、自分の大学の講義や演習、実習生の育成や病院の外来など含めて、人生で最も多忙な時期だったように思われます。
このような仕事の嵐が少し収まるのに約五年間ぐらいかかりました。
その間に、丸尾さんの方からも、物価高騰により、早めに家を建てたほうが良いとの連絡が数回入りました。
私はそれに対して、返信さえもせずに、ほっておいた有り様でした。ヴィラを建てるだけなら契約金を送金さえすればいいのですが、物価高騰よりも、もっと時間をかけて納得したものを建てたかったのです。
今から思うと、良くあのような事態と仕事をこなした、と思うのですが、忙しいからと言っても自分の研究業績報告書を眺めると、研究論文は結構書いているのです。
ある意味では、忙しいからペースをあげて書けたともいえ、あながち忙しいから論文は書けないと皆さんがいうのは、半分で事実かもしれないけれど、あながち、そうだともいえないと思います。
このような忙しさに対応するために、私は二つの原則を学びました。ひとつは、忙しいという文字は人の心を失う、という文字から出来ているように、忙しいという感じに忙しくならない事です。
それは客観的な仕事の多さに余分な尾ひれをつけてくるからです。その尾ひれは仕事を同時に横並びにさせない事です。横並びにすれば、あれもこれもとなり、仕事の同時多発的な発生とになり、その忙しい感じに大わらわとなります。そして実際の忙しさのわりに仕事がこなれて行かないのです。
しかし、その仕事を縦並びにして、自分なりの優先順位をつけて、前の仕事からひとつひとつやって行くのです。仕事に自分なりの優先順位をつける、とも言えます。その時、前にある仕事を、ひとつひとつビストルでゆっくりと確実に撃ち落とすようにして、決して機関銃で無駄撃ちしない事です。
そして問題を頭でやらず、実際の現場に行って考える事です。決して問題の起所転結を頭で考えず、問題と歩きながら考える事です。
即ち歩きながら考えると言えます。
これらの考えはヨクウツ症の患者さんから学ぶところが大きかったと思います。
かれこれ五年近く仕事の嵐の力は少し減り、以前書いたもろもろヴィラの建設要件とともに送金しました。

追伸
 なんのかんけいもないオッサン、コメントありがとう。
 つい、笑ってしましました。私は既に一生分お酒は飲んだので、ノンアルコールビールでお付き合いします。

バリのヴィラ16・B-ヌガラ物語ー(6)

2018-03-25 21:06:38 | 日記
バリのヴィラの事はじめー土地の見分ー

このような経過を経て、ビーチフロントの土地の見分となりましたが、何とも言えず心が高まったと言いたいところですが、まったく違うのです。強いて言うならそこが素晴らしいのは、それが当然の事であるような気分でした。ただ丸尾さんがまっ黄色の大きな綺麗なジープを気持ちよく運転してきた事だけが、妙に新鮮な記憶に残っています。
当時まだ舗装していない道でしたが、メインストリートから少し歩くと、まだ木の根っこが少しみえる大きな平地がありました。そこを二分するので海に向かって右か左か自由に選べるとの事でした。道から少し入っただけで不思議な事ですが、左右で明らかに感じる気が違うのです。右の土地の方から感じる気は、すっと海の方に流れて行き、気のとおりはとても清々しいのです。その上、その土地の真ん中辺りに歩いていくと、自然の気を浴びるような気がしました。それで右の土地にすぐに決めましたが、私にとって他の問題がまだありました。バリの土地の別の調査は、土地そのものというより、目の前の海が生きているかどうかでした。私はすぐに、いつもしているように、素早くシュノーケルの道具を取り出し、大きなタオルケットで下半身を隠して水着に着替えました。丸尾さんのびっくりするような目はいまだに笑える話のように、その顔がありありと浮かんできます。そして、さっさと海辺に行き、随分陸地と離れたところまで海中捜査を始めました。
「いくらビーチフロントとは言え、その前の海が死んでいたら意味ないと思うが…」と言う私の言い分に、丸尾さんは驚いたような感心したような様子で、「先生のような人は初めてだ。」と言っていました。
 海に入って膝の深さまで行くと、熱帯魚がたくさん泳いでいました。遠浅の海で急にドロップして深くなる手前にサンゴ礁があり、そのサンゴ礁は生きていました。残念ながら、今はそのサンゴ礁辺りまで行かないと、昔の海は見られません。
話は変わって不思議な事ですが、最も近場のグアムやサイパンは、ビーチフロントの土地はほとんど本格的に調べてはいません。恐らく何度も行ってその都度人づてには聞きましたが、不動産業社などを通じて調べてはいません。どうしてか?自分でも良く解らないのですが、多分あまりにも慣れすぎて新鮮味がなく、それほど魅力的には思っていないからだと思います。
飛行機の時間も約半分で、直行便も多く理屈からすると、暖かいし、海は季節風しか吹かずマリンスポーツも盛んだし、文句のつけようがないのですが、不思議に今でもあまりに興味がないのです。恐らく、観光地化されていて、人がすれているような気がしたのでしょう。
いずれにしても、土地だけは早めに確保しておきたかったのは、いずれ値上がりして手の届かないようになるだろう事は火を見るより明らかだったからです。
もちろん土地の価格も私の事ですから、ずいぶん値切って交渉しました。かえって丸尾さんのような方は、ありのままぶっつけて言うのが、私にはやりやすかったのです。
>>無論、土地の具体的な価格はずいぶん前だった事と無粋な話になるので省きます。生々しい話は料理と同じように、素材の生々しさを料理と言う手を加えて美味しく食べられるように手を加える事と似ています。生々しい事を記述する事と同じように料理が必要と思います。
次に家のことですが、不思議に最初、その土地を見た時に直感的に家のイメージが浮かんできて、今から振り返ってみると、大半は今の家と重複している事です。
家はすべて平屋にしてバリ風にする事。全体的に気のとおりのいいように、玄関口からの気は、さあーっと海辺に抜け、海辺の方からの気はさあーっと玄関口から出ていくような気の巡りを良くする事。そのため母屋と客間をわけて気のとおり道を開けておく事。庭にはなんもない広々とした上質な芝生だけにする事。家のデザインは極めてシンプルにして、余った分はすべて最高に近い材質を使う事。すなわちシンプルで上質を目指す事。プールは25メートルにしてプールのタイルは、海深く潜ったような紺色にする事などです。プールだけはどうしてもデザイン上と実質上、ベッドから起きてすぐにでも泳げるように、ベッドルーム外側のテラスに添うように造られたために15メートル足らずになりました。これは丸尾さんが私の水泳好きを知った上の配慮とも思われます。おかげで、私達はテラスで、プールの紺色の水の揺らぎを見ながら、食事をしています。
25メートルのプール以外はだいたいその時のイメージどおりか、それ以上なのです。今のヴィラの居間やダイニングキッチンは、全体的に見れば正方形に近い四角のブロックに収められています。また、気のとおりを意識して、気や人の通り道を開けて建てた客間は、L字型で極めてシンプルな形をしています。
しかし、部屋に使われる大理石はインド産が世界一と言われますが、その次ぐらいの質の良いもを使い、木は最高の材質で、結果的には、簡素な高質や気品という狙いは高い次元で達成されたと思っています。この家の件はのちほど詳しく苦労話として取り上げたいと思います。
       つづく

追伸 米米クラブに入ろうとしましたが、馬鹿らしくてやめました。        

福岡聖恵病院での陪席・臨床心理士募集の件、コメントのお願いについて

2018-03-21 22:16:02 | 日記
精神療法外来の陪席について

福岡の古賀にある福岡聖恵(めぐみ)病院の外来陪席は、4月10日(火)と4月20日(金)の午後1時半開始です。
5月から金曜日が木曜日になり、5月8日(火)と5月17日(木)となります。詳しくは以前のブログに掲載しています。

福岡聖恵病院の臨床心理士募集について

以前にブログでお知らせした臨床心理士の募集は、今既に2名あり、そのうちのいずれかに決まると思いますので、お知らせしておきます。

ブログへのコメントのお願い

また、いずれ本にまとめようと思い、書き集めたものを整理して掲載している
「バリのヴィラ16・Bーヌガラ物語ー」
ですが、まったくコメントがないのでさすがの私も暖簾(のれん)に竿差しの気持ちになっております。
実はあの原稿は無論私が書いたものですが、私はパソコンが苦手で携帯に書き集めたものを直子がパソコン入力しています。
そこで直子が文章にケチをつけて、夫婦喧嘩のような言い合いをしながら掲載しているです。だから、コメントが何もないと馬鹿らしくなり、一生懸命講演しても誰も質問がない時のえもいわれぬ心境と同じ思いになります。というのも、私の場合、講演も講義も、ワークショップも、みな、話す人、聞く人という区別なく、お互いの相互交流によって成り立ち、それは刻々変わる生き物のようなもので、私はその感覚に神経を集中して、ずっとやってきたからです。臨床面接も同じことです。
ですから、じっと観察ばかりして、なんの関与もない治療者を相手にした患者さんの気持ちは、こんな感じなのだろうとよく分かるような思いです。
一層のこと、掲載をやめて、一人で整理してまとめようかなという気持ちにもなります。だから、匿名やペンネームで結構ですから、簡単な感想や意見、質問など何でも良いのでコメントをくださいませんか?

閲覧人数のお知らせがあり、自分でも驚くほどにブログを見ている人が多いというのに、コメントがほとんどないのは、妙な気分になります。

こう書いている間に、さくら咲く前に、こうめさんから、コメントがありました。
こうめさん、有り難うございました。