精神療法家 増井武士のブログ・バリ島日本人自殺予防ヴィラオーナー(レンタル可)

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「来談者のための治療的面接とは」の本が出版社から送ってきました。

2019-06-06 22:45:49 | 日記
 できたてほやほやの本が、今朝送ってきました。
心理臨床学会でも販売されますが、大きな書店での一般j販売は6月15日頃からだそうです。
ちなみに、福岡県では、ジュンク堂の博多天神の店、ブックセンタークエストの小倉と黒崎井筒屋で、平済みされるようです。
また、遠見書房のホームページからも注文できるようです。
 神田橋先生も喜んでお電話があり、「僕もできるだけ宣伝と応援をするから、あなたも頑張ってください。」と言われました。私は何をどう頑張っていいのか、まだ具体的には分かりませんが、ひとまず、神田橋先生が教えてくださった人達に本を送ろうと思います。
きょう来たバイジーの人達は、本の表紙や裏表紙のデザインや文章がとても分かりやすくて良い感じだと言っていました。
私も静かに読み返してみて、今までの本とは少し違う感覚をもちました。
難産で苦労した分、愛着もあるのだと思います。
本は売れるにこしたことはないのですが、それより私の意見や臨床に対する姿勢を、正確に理解してくれる人が一人でも多く出てきてくれたらと願っています。

今度の本の後書きで書けなかったことのついて(3)

2019-06-03 06:49:20 | 日記
 本書に示したように、良いものを見て、上をむいて歩こうとした時、なにかが掴めるチャンスを作るのでしょう。下を見てはいけません。この世は地獄のように下には下があり、それを見てると、自分自身まで落ちて行くからです。

話はパニック障害に戻りますが、私のパニック障害は、わかりやすく言えば、少し出来の悪そうな母親をみて、直ぐにその子ども達を心配してしまうということにも通じます。
しかし、問題は国家規模で行われる試験が心理臨床の大切な部分の問い方を違え、結果的に治療上何も考えられないような方が患者さんの苦しみに充分共感してその問題に寄り添えるか?
その結果は、私には火を見るより明らかなのです。
歴史的に見て、人民にとり有害な法はその法にてその国家は滅びていきます。これは歴史が我々に教えてくれる極めて基本的な事柄です。
歴史的にみて、国が患者さんが最も必要としている心理臨床の要件の教育とその査定や国家試験に注目してその舵取りをしないと我々の心理臨床の質は必ず低下の一途を辿るでしょう。私はただ我々の質の低下のみなら何の憂慮もありません。私が憂慮するのは、その結果は常に患者さんにしわ寄せがくると言う事態です。
多くの人は、そういう他人事は、どうでも良いと割り切れる事が、私に取っては歴史的に重要な問題になって来るのです。
パニック障害のゆえんでしょう。これは、たとえが悪いかもしれませんが、環境保護問題に熱中している方が、他人がつい海の中にポイと捨てた空き缶をみて、とっさに海に飛び込んで空き缶を拾う姿にも少し通じます。

そして大事なところですが、私はこの病気を嫌いでもなく、治そうとも思っていません。むしろ、この傾向は常に私の治療的な面接の中核的なエネルギーにさえなっているからです。
このような公認資格の弊害は私達の世代の後ぐらいから顕著になると思います。
他の方は、自分の死んだ後までは考えても仕方ないと言うかもしれません。しかし、自分の死んだ後のことへの考えを生きている間に述べていくと、少し後悔の少ない死に方ができるとも考えられます。
人は「個性」と言う障害を皆が持っているとするなら、日本中の多くの人がこのパニック障害にかかってくれたら、日本の心理臨床の質は必ず向上するでしょう。
勿論私のスーパーバイズは、バイジーの方がこのパニック障害に生産的にかかってくれる事を目的としています。

天性この病気にかかりやすい人は、恵まれた方です。また、天性この病気に掛からない人もそれなりの恵みはあるにしても、これほど豊かな体験はできないように思います。

患者さんが良くなりたいと思うはずなら、条件さえ整えば良くなるはずです。
心理臨床において○×式の「正解」など前もって治療者の中に無い方がいいのです。その方が共感や寄り添うことが容易になります。そして正解もどきものは来談者の中で自然に生まれて来て、初めて来談者が自覚できる「正解」となるのです。
治療者とは、正解を与える役と考えることを越えないと寄り添い能力のある治療者とはならないようです。

今度の本の後書きに書けなかったことについて(2)

2019-06-01 21:37:16 | 日記
序文の先生の論に依ると、私は不幸な人を見るとパニックを起こす病気らしく、先生も同じ病気で、その一点だけで「私達の友情は磐石不動のものです」という書き出しまで頂きました。

確かに、私は、一年以上前、公認資格の試験が全ての分野においてマークシート方式であるらしい。という確かな噂を聴いた瞬間、身体にドンと来て、次に哀しそうな患者さんの顔が浮かび、とてつもなくショックというか、居てたまれないような気持ちでした。
 また、それら一連のショック体験を誤魔化す為に、いろんな心の作業をしてきたようです。
けれど、昨年、バリのヴィラの大きな自然の中で、モヤモヤしたこの激しい虚しさは、やはり、先ほどのパニックを誤魔化す為に出て来た不安だと言う事がはっきりしてきた次第で、その時点から原稿に取りかかった経緯があります。
神田橋先生もまた、昔から、同じようなパニック病と言うとてつもない優しさがありました。昔は、とても厳しさもありましたが、それは優しさの裏返しでもありったような気が今ではしています。
少なくとも熱いホットな人柄でした。
少し怖いとか近より難いと人から聴きますが、私の感覚と随分違います。
たとえば随分昔ですが、私が述べたい論文を荒書きして、先生のアドバイスを貰おうと持って行くと、あちこちに赤書きの訂正文をいっぱい丁寧に入れてくれていました。そしてその赤書きを丁寧に読み返すと、自分の述べたいことより深い意味がわかりました。
先生のパニック障害と言う病気の持っている、生産性はとてつもなく豊かで、思いやりにみちたものでした。しかし昔はそのありがたささえも解らず、恥ずかしながらも、当たり前のような気持ちでした。
そして、我が身を振り返って見ると、遠方のハイジーの方とかが、考えあぐねている学位論文や投稿論文のFAXや原文をみて、赤書きで、替わりの文章などを当たり前のように書き入れいる自分があります。
そのバイジーの偉いところは、私のように当たり前のような気持ちでなく、素直に、「ありがとう。とても助かりました。」と感謝の念をはっきり言われるところです。

私の心の中でいつも心理臨床の仕事の件について、二つの心が相互にしのぎあっています。
一つは「人は人、自分は自分」と言う事で、公認資格などは取りたい人が取れば良いと言う割り切りです。しかし、この割り切りで事が済まないのがパニック障害と言う病気です。
それは、本文中詳しく書きましたが、あのような○×式の人間の共感や寄り添い能力を査定できない資格に合格した方が、患者さんに関わっている場面までもイメージにくっきり出て来て、その患者さんの暗い顔が浮かんで居ても立っても居られなく、言うに言えない気持ちになり、パニック障害が出て来るのです。
その資格者だけの問題として終わってしまう事が出来れば、苦労はないのです。
仕事柄か職業病なのか、私は、とにかくまずは、患者さんの事を考えてます。重ねて言うようですが、そのような資格者と患者さんとのやりとりやそれぞれの表情までもイメージに浮かんで来るのです。
この私の病気の部分と、どこかの私設団体ならいざ知らず、国家試験と言う大きな問題がぶつかり合う時、社会や他人は私の言う事に大きな問題や矛盾を感じる事があると思います。
そして、その問題や矛盾の大きさを細かく分析してくれる程、社会の大部分は賢明でも親切でもありません。分からない物は邪魔だと言う割り切りで処理される場合が大半です。

パニック障害と述べましたが、私の臨床歴の中で、治療方法を盲信して、目先の患者さんの体験を見ず治療方法に振り回されて患者さんが巻き添えになり、彼等がしでかした患者さんへの弊害の、後始末を嫌な程してきた事実にも依ります。
患者さんよりも理論を盲信して、理論が先立ったような治療者が、森田療法や認知行動療法とか、直ぐに変えれる貴方の性格とか、なんでも話した方が良いと強く薦められて、素直に従い、結果的にその方法について行けず、様々な副作用を頻発して、状態は悪化して行った患者さんを嫌な程みてきました。
その治療を辞めた後、その方法に付いて行けない自分自身を恥じたり責めたりして、どんどん症状悪化して行った患者さん達です。時には妄想気分や一級症状まで発生して入院加療を必要さえもしました。
時には、私は、彼等の仕事の後始末の仕事屋ではありません。と言いたい程、随分苦労して沢山ケアしてきたのです。
そして、このように他の治療者にSOSを出せる方ばかりでない状況を考えると、ある治療方法に飲み込まれている治療者には、何とも言い難いものを感じて来たからです。
いわゆる他人の勝手な治療のやりそこないの後始末を何人してきたか分からないのです。
ある技法を自分の物として使える程こなしておらず、ある技法に自分が使われている治療者はザラにいます。
本来、患者さんがあり、技法がそれに合わせてあるのですが、ある技法が先にあり、患者さんがその技法にあわせる、と言う主客転倒している臨床は、毎日のように行われているようです。
行動療法家として名前が知られている、山神先生という方がおり、今は同じ非常勤の病院で仕事をしています。時には陪席したり、忘年会の席などでよく話します。その時、患者さんとの対話は極めて普通のように進みますが、その流れに沿って、「ああ、そういうわけで友達が一人出来た訳なんだ、それは良いね」とか、見事なオペラントな反応強化を流れに沿って面接されているのです。それがある方法を、患者さんに適応する姿と再確認します。方法に使われず、方法を使っているのです。 
                続く


6月半ば頃出版される本には書けなかった「後書き」について(1)

2019-06-01 00:07:17 | 日記
以下の文章は、出版を急ぐということで、もうすぐ出される本の後書きに書き入れられられなかったものです。だから、このブログを読まれる方だけへのサービスとなります。


再三、本のタイトルで悩んでいましたが、素直に

来談者のための治療的面接とは
ー心理臨床の「質」と公認資格を考えるー

というわかりやすいものにし、数日前に表紙の体裁などの最終確認をして、遠見(とおみ)書房の山内さんにお世話になり、そこから今回の6月の学会までに出版される予定になりました。

この本は、私にとっては生まれて初めてと言えるほど、いろんな障害に行き当たり、非常に苦しかったし、たいそう辛い難産でした。
出産までに障害が次々出て、母体がもたないような気持ちになった為に、何度か出版を諦めたり、やけっぱちな気持ちになったりしました。

これまで私はいろんな本を単独で約10冊ぐらい出版してきました。共同執筆などを加えると約20冊ぐらいになると思います。
それら全ては目次と概略か原稿を送るとすべてフリーパスで出版になりました。
友人がいうのは、「それは増井さんだからで、他人の場合そうは行かない」と言うのです。その時はおせいじぐらいに思ったのですが、考えてみれば今までが恵まれ過ぎていたかもしれません。
いろんな出版社に送ると「編集会議をしますので、少し待ってください。」との事で、結局、各社からいろんな理由づけをされ断りの返信ばかりでした。
ここら辺でほとんどやけになり、私の言う正論とはそれほど出版社にとり都合が悪いのか?と言う腹立ちと情けなさでした。
そして、半分諦めた気持ちで、愚痴っぽく、神田橋先生には原稿と気持ちを送り意見を求めました。
それまで何度か先生に相談しようと思ったのですが、本当のところ、先生がどのような公認資格への意見を持っているのが判らないし、「余り余分な事を考えず、自分の臨床について別の本を出したらどうかな」と言われる事が嫌だったのでした。
しかし、先生がどう考えようが、とにかく相談してみようと思い、原稿と感想を送りました。
このような時、矢張しっかり私の背中を支えて前に押してくれたのは、神田橋先生でした。「内容があるものほど、世に受け入れられにくい」と言わんばかりに、本書の原稿を評価して下さり、章立てまで具体的に入れ換えたアドバイスを貰いました。
そして、出版社が受け入れられにくい点は、あまりにも深い思いが前に出て鋭い論説で読み手に拒否感を与えるのではないか、患者さんに話すつもりで、やさしく、わかりやすく訂正するようにアドバイスを貰いました。
そのつもりで原稿を読み直すと、たしかに犯人を感情的に追い詰めるような文体でした。
そして、以前の原稿では、自己紹介か付け足しのつもりで後半に書き加えた、我が歩みし心理臨床の道という章を冒頭に持って来て、文章を患者さんが読んでも納得できるように変更して、先生には序文まで頂き、やっと出版ができるようになった次第です

         続く