精神療法家 増井武士のブログ・バリ島日本人自殺予防ヴィラオーナー(レンタル可)

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キレッキレのダンス・タンゴのアルゼンチン

2019-09-27 22:29:42 | 日記


 船はアルゼンチンのブエノスアイレスにつきました。
 例によってブラブラ、街の方に歩いて行くと、道端でサーカスのピエロのような大道芸人がいっぱいいるところに出ました。
路上でサーカスのようなパフオーマンスをして、見る人を喜ばせるのです。無論、タンゴのダンスも披露していました。
 1つ特徴的なのは、見学料を入れる物がなくて、お金にまったくこだわらず、自分のパフオーマンスをいかに楽しめると言う事に熱心で、それだけに集中しているようでした。それは見る方に、とても好意と親しみを感じさせました。
おおらかで明るい国民性なのでしょうか。とにかく笑顔と明るさはアルゼンチン特有のものかもしれません。



タンゴのダンスショウの素晴らしさに驚きました。

 私はとくにダンスに興味がある訳ではなくて、しかし、折角タンゴの国に来たのだから、一流のタンゴのダンスは見ておきたかったのです。アルゼンチンで一流なら、世界的なダンサーもいるはずと思いました。
 そして、最も古い老舗の劇場で、その一流のタンゴのダンスショウを観ました。本物の一流の凄さを目の前にして、まるでとても素敵な夢物語に心を奪われたようで、私は時間を忘れてしまいました。



 彼ら一流のダンサーは、ダンスを見せようという気持ちが何処にも感じられませんでした。ダンスをより綺麗に、深く楽しもうとして、その楽しみの世界に観客を誘うほど、自らのダンスを楽しんでいるようでした。そこには、観客と一緒に楽しめるまでダンスを洗練に洗練を重ねて、ダンスの頂点をのぼり詰めようとする姿があり、本当の一流を感じさせました。
 会場もまるでお城の貴賓室のように豪華で、感性の強い直子は舞い上がって、途中休憩の時にシャンパンを持ってきてくれた人に、感動を分かち合いたくハグしてしまうほどでした。



 またショウの中休みの時に、南米特有の音楽の演奏もありましたが、この楽団も選びに選び抜いたのでしょう。それは、ペルー音楽調のものや前衛的なタンゴ音楽もあり、素晴らしいジャズセッションのような南米音楽を聴かせてくれました。

後半のショウでは、よりアップテンポのタンゴを全員、ひとかけらの違いもなく、まったく同じキレッキレのダンスを披露してくれました。観客は、そのタンゴダンスの楽しさの世界にすっぽり包み込まれ、まるで自分がダンスを極めて楽しんでいるようにさえ感じるのです。
 何事も一流になると、見せようとするのでなくて、全身全霊で中身を濃くする、極めていくということは、共通していえる点だと再確認しました。
人の評価や社会的認定は、自分自身の世界を洗練に洗練を重ねてその追求を辞めない限り、評価はついて回るということです。

船が出航しなければ、毎日のように通いたいと思うほど、私にとって珍しく魅いられた世界でした。

船旅から帰り、しばらくして、アルゼンチンで学会があるということで、
「お薦めは何ですか?」と聞かれました。
私は何をさておいても、その劇場のタンゴダンスショウだけは見た方が良いと強くアドバイスしておきました。
また次回、アルゼンチンに来たら、劇場を間違えないように、携帯にその劇場名を打ち込んでいたからです。

 もともとタンゴの発生は貧民街のポカ地区辺りだといわれます。タンゴのテーマは、喜びと哀愁、と言われています。
あのタンゴを観るとそれが肌身に感じられます。
喜びも悲しみも浸りきれば、ある種の割り切った、楽しさになるためにタンゴのダンスが発生したようでした。

エビータの話

アルゼンチンといえば、貧しい産まれから、美貌を活かして女優となり、最終的にはアルゼンチンの大統領夫人となって、政治的にとても影響力をもつようになります。その女性の呼び名はエビータと言います。
エビータの社会政策に今でも賛同している政治集団があるほど、彼女の社会政策は大衆に身を置いたもので、アルゼンチンの最盛期とまで言われています。カストロがキューバの父なら、エビータはアルゼンチンの母と言えると思います。



アルゼンチンのタンゴショウが始まるまで、例によってタクシーをチャアターして、エビータの眠る綺麗なお墓を訪ねました。いまだにファンの多いエビータの墓はお花でいっぱいでした。女性が三人、お墓に体を摺り寄せたままじっと目を閉じ、今もなおエビータの声を聴いているようでした。
そこで、たまたま、観光バスのオプショナルツアーの参加者と出会い、解説者の説明だけを聞いて、その後さっさとタクシーに乗った時、ツアーの参加者からとても白い目でみられたのが、まだ、記憶にあります。
白い目で見るぐらいなら、自分でタクシーと交渉して自由行動すれば良いと思います。

 ちなみに、キューバ革命のあのゲバラもアルゼンチン産まれです。基本的にはとても情熱的な国民性があり、他の国にはない、特有の雰囲気と人間性がありように感じられました。
それにアルゼンチンでは、ドンキホーテを尊敬する人がとても多いと聞きました。
タンゴ、喜びと哀愁、エビータ、ゲバラ、ドンキホーテ。
これらを混ぜ合わせてイメージすると、アルゼンチンの国民性なのでしょうか。
私は、また行けたらアルゼンチンにはもう一度行きたいと思います。

エビータについては、マドンナ主演のDVD「エビータ」が一番お薦めです。今夜借りてきたので、また観る予定です。



砂漠がイスラム教をつちかった? 砂漠への旅2

2019-09-25 17:51:20 | 日記


サハラ砂漠が私に語りかけた言葉

 砂漠へ行く途中で延々と続く草原を走らなければなりません。そして、そのコースはパリダカールレースのコースの間近であると聞きました。
私はジープの運転手にパリダカールレースのコースを走って欲しい、と告げました。そのコースはアルジェリアの国境をまたぐようになっており、平らな大草原の中にあり、レースでは最も走りやすく、スピードもマックスにあげて、とにかく一直線に走れるところらしいのです。それはとてつもなく早く、何百もの車の群れで、それを見るだけでも壮大なのです。

 そうして草原を走っていると、やっと砂場が徐々に多くなり、サハラ砂漠の西の果ての小さなホテルらしい建物につきました。そのホテルの斜め前にジプシー用の大きなテント小屋があり、正面は、すべて砂漠でした。
夕方近くに着き、ホテルに依頼されたのか、地元の人らしい方が、打楽器だけで、形だけの無愛想な何の笑顔もない歓迎の演奏を聞きながら、夕暮れの延々と続くサハラ砂漠を見つめました。

私はサハラ砂漠に着いてから、少し単独行動して砂漠を何度か歩いてみました。無論、帰るホテルが見える範囲です。
砂漠のオネと言うか、海でいえば、波のてっぺん辺りを歩かないと、砂漠の斜めの砂場は、脚が膝近くまでズボリ、20メートル歩くのにどれほど苦労したのか、まるで一歩ずつが蟻地獄のようでした。
私は数歩を歩くのに夢中で、砂漠の小さなオネを越えてホテルが見えなくなっているのに気がつきました。
周りはすべて同じ景色の砂漠なので、方向がまったく判りません。少しうろたえました。迷子になると、最悪の場合は、のたれ死ぬかもしれないからです。
幸い、来た道に足跡があってそれをたどって行けば、やっとホテルが見えるところにたどり着き、ホットしました。



(砂漠の日の出)

私に砂漠が語りかけた言葉は、その現実は、いつも死ぬ事態であるという事です。そして、絶対的に変わりようがない環境を何とかやりくりするために、目の前に見える延々と続く砂漠があの世を心の中に作り上げてしまうのです。あの世を思わざるを得ないような過酷な現実の連続とも言えます。絶対的に変わらない、あの世の事を思わざるを得ない状況でした。

 延々と続く砂漠と完全な沈黙と絶対的に変わらない景色が、何千か何万キロと延々と続くのは、我々の文化とまったく異次元の世界でした。うまく言えませんが、あのようなところを長く歩いていると、極めて非現実的で何か絶対的な思想に頼りたいと言う、とても強く宗教的になるのです。

その世界は直接的に人はここでは、死や死ぬ事がその砂漠の世界には、じかにあると言う実感です。

 海は生きていて流れも生物も表情もあります。しかし、砂漠は完全に無機質で、無表情で、絶対的な沈黙の連続です。
砂漠には人格がないと言えます。
 海は、もしも船が何かあってある一定方向に進めなくなっても、漂流という形で流れていけば、どこかに着くのです。しかし砂漠は、もしも何かあって行く方向が判らなくなれば、生きておれず、すなわち死ぬ事になるのです。
この絶対的な無機質に対抗して、より絶対的な宗教が必要なら、あのイスラム教の絶対性でしょう。
私はイスラム教のあの絶対性が砂漠から教えてもらった気がします。

 アフリカと言っても東西南北があり、個々の国々の事情により社会が異なるのは当然だと言う前提に立っての話なのですが、あの砂漠地帯と絶対的に変わりようがない、岩や砂と石が延々と続く中で、その自然を超越する教えなり宗教は極めて絶対的にならざるを得ません。
イスラム教ないしその教徒ほど、その成り行きすべてを神にゆだねて、すべてを神のせいにするのです。その教えと信じる者が絶対的な砂漠をも圧倒する絶対性が必要なのでしょう。まさしく風土と人間の関係そのものです。

 世界中で日本は四季があり、美しいと言われますが、モロッコの国内だけ見ても、その意味が痛いほど分かります。
しかし、その絶対性がとても美しい姿をみせる時もありました。
旅の途中で偶然、英語が出来るインテリのジプシーと出会い、話す機会がありました。
何故あなた方は一ヶ所に住まず移動するのかと聞くと、「それは魂が腐るからだ。」と言う、とても詩的で哲学的な応えに少し驚きました。
そして、彼は、目蓋、まぶたの父の事を語ってくれました。
ジプシーのような集団生活をしていると、誰が父かわかりません。そして、物心が付いた頃に母親から、自分の父であると思う星を探して決めて、誰にも絶対その星を言わないようにと告げられるらしいのです。
彼は「自分の父星は、昼間でも目を閉じたら見えるんだ。」と言い、目を閉じてその星と無言の語らいをするという事を話してくれました。
私はその話を聞き、つい涙してしまいました。居ない方が良いような親が多い日本の家族問題を考えると、なんという素晴らしい親子関係なのか!と言う思いがこみ上げてきたからです。
父星の話をする時の彼の表情は、まさにまぶたの父と話しているようで、私がうっとり見とれるくらい静かで平和な顔をしていました。

モロッコのマラケッシュ広場で迷子になりかけた

 砂漠から帰りに、世界遺産のマラケッシュ広場の近くのホテルに泊まりました。
少し歩くと、驚くほどの広い広場に出て、そこが数えきれないほどの露店と人と出し物で国際的ににぎわう世界遺産の広場です。
まだ昼間過ぎだったので、店も人もまばらで、私は笛を吹いたらコブラが出て来て、餌をもらう出し物を見たり、モロッコ名産である敷物や絨毯など露店を回り、時間を忘れ、夕方になりかけて、いざホテルに帰ろうかとすると、あっと言う間に大波のような人が押し寄せ、まったくホテルに帰る方向を見失いました。
世界遺産になる広場ですので、日本のそんじょそこらの人だかりと桁が違うのです。
とにかく来たと思う方向から人だかりは押し寄せるのです。おまけに、ホテルの名前も知りませんし、やって来る人をかき分け、かき分けしながら、やっとホテルが見えてきました。
帰りが、後、半時間でも遅れたら一晩中広場に閉じ込められて、最悪な場合はモロッコから船に帰れず、次の寄港地まで飛行機で飛ぶとしても飛行機代を持たないままでどうするのか? 考えるだけでゾッとします。
私の方向音痴は半端ではありません。
昔、友達の家の近くのタバコ自販機まで行って、帰り道がわからず、友達夫婦が車で捜しに来てくれたぐらいです。
私はモロッコで二度道に迷った事になります。
ついでながら、直子はマラケッシュの敷物店で気にいった敷物を相手の言い値の半額まで値切り、その代わりに、ほっぺにブチュとされたのも、マラケッシュでした。

 これで5泊6日のサハラ砂漠をメインにしたモロッコ内陸部の旅行も終えて、船が寄港しているモロッコのカサブランカまで帰りついたのです。
私はその旅でモロッコを一番詳しく回るとは思ってもいませんでした。
素直にいえば、また旅行費用は要らないから無料でモロッコに行くか?と聞かれると、私は行かないでしょう。
なぜなら、モロッコを含めて私の見たアフリカは、その根底において、限りなく寂しいからです。
また、あの過酷な現実を見つめるのは、やはり、疲れて時には泣きそうな気持ちに何故かなるのです。


砂漠がイスラム教をつちかった? 砂漠への旅1

2019-09-24 21:20:47 | 日記

(旅の途中で出会ったジプシーとラクダ)

 ピースボートが立ち寄る国々は無論、その国々の首都の港かそれに近い街の港のことが多いです。
だから、それよりずっと内陸部を旅したい時などは、ある港から、飛行機やバスやジープを利用して、別の国のホテルに泊まるなとして、帰りはピースボートの次か、その次の寄港地に戻ると言う方法を取らざるを得ません。
 私はサハラ砂漠を歩いてみたいという思いから旅を選んだ為に、私達はカナリア諸島と言う美しい島々には立ち寄る事ができませんでした。
 それに、サハラ砂漠のような莫大な砂漠は、陸上の海だからと言う単純な理由もありました。
 また、昔観た映画で、ラクダが夜の砂漠を行く場面がとても好きで美しかったからです。文字どおり、月の砂漠の唄のような場面を、実に美しいと思えたからです。
 サハラ砂漠のへの旅行は5泊6日と言う長いものでした。もう8年も前の事で資料も少ないし、細々とした事は曖昧で断片的な記憶にしかありません。だから、痛烈な印象的な場面しか思い出せないので、そうします。

 その旅行の出発は負の世界遺産で述べたアフリカのゴレ島のあるセネガルでした。セネガルから ある山脈を飛行機で越えて、隣国のモロッコに入り、後はバスやジープです。
バス移動の時は山道が多く、無論一台のバスがかろうじて通れるぐらいの幅で、ガードレールなどある訳はありません。後ろの車輪が、わずか谷の方にずれていれば、バスは確実に谷に転落すると思った事は頻繁過ぎて、長く乗っていると、それが当たり前になるほど長くバスに乗りました。

モロッコの印象

 私のモロッコの第一印象は、最もアフリカ的ではなく、勤勉で働き者の多い国と言うイメージでした。
全体的には、とても暗いイメージで、都市部では、少しの空き地にも細かく畑をたがやしていて、とても丁寧なのです。
良く言えば、勤勉な働き者と言う国民性と言えますが、悪くいえば、細かくてケチとも言えます。強いていえば、丁度、アフリカにおける京都のようなところです。
 細かい事ですが、バスは途中でトイレ休憩所に止まります。そこでは、お菓子や土産物やコーヒーなど売っています。るので、私は一人で買って飲んでいたのですが、どうやら、通訳と案内人が、コーヒーなど欲しい方は××円で、私が取りまとめて注文しますから、と言う値段が私が買った値段の倍近い値段でした。
とても細かくてずるいと言う第一印象でした。
このように場面は、ほかのところでも多々見かけるのですが、要は、そのやり方なり、雰囲気なり、やる人のイメージなりで嫌らしくもなり、コスイ嫌なイメージともなり、笑える物ともなるのですが、どうやら陰湿なイメージなのです。
 また、現地の方は、いつも働いているような、とても真面目なのですが、笑いとユーモアにかけているように感じました。
私にとってのモロッコは、笑って過ごすしか方法がないような地理的環境に思えましたが。
 これは後で、ユーモアどころでない事情が分かり次第、少しは納得できるのですが、そんな事態でも笑って過ごす国民性もあるので、やはり、暗いと言うほうが私のイメージに近いのです。
そのイメージは、あのマチュピチュがあるペルーの山岳地に住む人のイメージととても似ています。
生活環境がひどくて、ガンとしてしかやっていけないのでしょう。彼等は何故か、自己完結して、とりつく隙間がないのです。
そのような隙間をつくると即死ぬと言う廻りの過酷な環境があるのです。
それは砂漠をじかに見て歩いた時により明確になりました。

オアシスについて

 いろいろな場所を観光しながら、最も印象的だったところは、文字どおり、オアシスと言われるオアシスです。
そこは、オアシスの名に最もふさわしい奇跡的な場面でした。
そこまでは、本当に凸凹した岩場に乾いた土が舞い込み、小石と土まみれの場面が嫌になる程延々と続いていたからです。
住み家となる家は、岩場の間を玄関に見立てて、後の住まいは穴蔵を掘り、最後の場所を大きくして、居間としている最も原始的なところでした。確かカスバと呼ばれていた記憶があります。
アラビアのローレンスと言う映画のロケ地になったようなところばかりです。


(続く岩場)

 そのような場面の中で、突如に緑の木々が豊かで、森のようになり、中に進むと、小さな小川のような水が流れて、まったく異次元の世界そのものに入ったようでした。
 あの砂漠から、そこにたどり着いたジプシーなどは、どんなに安堵以上の深い安らぎを覚えたかの想像はいとも簡単でした。
本当に同じ地区なのにその部分だけ緑が豊かで、小川が流れて、やたらに日本の山の谷間にある小さな森のようで、回りの殺伐とした対比が余計に奇跡的に綺麗なところと思うのです。
また、やたらにキザなフランス人の観光客が多かったのは、モロッコはフランス領だった事もあるからでしょう。
寒いフランスからモロッコに別荘を作り避寒するのがフランスのステイタスシンボルとも聞きました。
 私なら、いくら暖かいと言えども、モロッコの別荘はありえない程、暗くてほこりまみれのところでした。

驚きのホテル
 
 オアシスからサハラ砂漠の西の果ての砂漠の出入り口までは、モロッコの田舎の中の田舎を延々と続く岩場の見飽きた道をバスで行かなくてはなりません。
 そして、最高なのは砂漠に着く前に泊まったホテル?です。もう夕方近く我々の荷物を運びに迎えに来てくれたロバは、あまりにも荷物が多くて重いのか、荷物を載せるたびに脚がよろけるのです。
その姿を叱るように飼い主が根性を入れるとヨタヨタした脚がしゃんとするのです。そして、そのホテルと言う宿は、例の洞穴をとおり、広い居間に着き、ベッドどこかと探したところ、地面に敷物を敷いただけのところでした。
ほとんど薄暗く、居間の向こうには、鶏や豚や家畜が柵で囲われていて、本当にどうしようもない現地の方と同じ居住空間でした。
シャワーなどはひとつでじゃんけんして決めたり、案内するガイドの方も、私は世界中のホテルを見て来たけど、ここが最高!と言う事でした。
穴蔵のホテルは泊まろうとしても滅多にないので貴重な体験と言うべきなのですが、悲惨な体験というほうが素直な感想でした。
おまけに、夕食といえば、ここ数回、五ミリぐらいの薄い麦パンとお野菜少しと妙なスープだけで、食べ物には、とても鈍感で、どうのこうの言わない私でも、手を付けたくない程まずいのです。
しかし、他の女性は黙ってモリモリ食べてパンのお代わりなどしているのです。
どんな心境か聞いてみたくなりました。
乾燥地帯ではサソリに気をつけるように言われて来たので、彼のいうとおり、あらゆる物をベッドの回りに置いていると、直子はその理由を聞いたので、サソリの事を伝えると、自分のところばかりと笑っていました。
そのように新聞紙でもなんでも置くとサソリが近づくと、音をたてるから身を守りやすいからです。
その夜は、ガイドの人が「星がとてつもなく綺麗だから、このホテルに泊まらないとこのような美しい星は見えないですよ。」と言っていましたが、そのセリフも空々しく聞こえるのです。
その夜はサソリは出ませんでした。

アルジェリアの国境を超えてパリダカールラリーの草原を走る

あの洞穴のようなホテルを出て、やっとサファリ砂漠の西の果てに着くと言うのです。その草原はアルジェリアの国境に接しており、パリダカールレースのコースにもなっていて、最もレースの車のスピードが出るところでした。
私達はジープで延々と続く草原を走りに走り、やっと砂場の多いところに着き、やっとサハラ砂漠の西の果てのホテルらしいところに夕方近くにつきました。

続く

アフリカを回っての回想~独立とは国民にとって本当に幸いなのか?

2019-09-13 18:19:39 | 日記

(アフリカの自然保護区のキリンです)

 我々はアパルトヘイトと聞くと、統治国のエゴと民族差別の代名詞のように思ってしまいます。
しかし、アパルトヘイトを国の統治のひとつと考えれば、またそのニュアンスも変わってくるでしょう。
植民地化された国家の独立が、国民全体的な見方からして、本当に幸いな事なのか?と言う問いかけは、とても大事です。
そのようにしきりに思うのは、独立前の統治されていた時の方が、まだ、良かったと言う意見や地元の人のなまの声を盛んに聞くからです。

 私の持論ですが、仮に文化を治安と教育の高さだと定義づけて、その観点から私はいろいろな国を見て回っています。そして、この定義は私なりのもの程度に思っていました。ところが全く同じような考えをピースボートの講演でアフリカ政策に非常に詳しいジャーナリストの松本仁一さんが述べていました。彼が乗船中、南アフリカ共和国の旧大統領、ネルソン・マンデラが亡くなった時、最も親しい日本人として記事依頼がありました。
 私の持論とよく合う点は、基本的に彼はジャナリヤとして自分の目で見て、現場で感じた事以外は判断を停止すると言う姿勢や態度それ自体、私の臨床論と全く同じだからです。
彼の主著である、カラシニコフ1~2は、独立後の利権を争い、その為に国中に戦争を撒き散らしている悲惨な実態を細かく事実に乗っ取り描かれています。
ちなみにカラシニコフと言うのは、ソビエト人カラシニコフが設計した自動小銃の事であり、正確にはカラシニコフAK47と言う自動小銃の事です。
日本やドイツの小銃は、正確性と厳密性にこだわり、それが逆に小銃の手入れを難しくして、弾づまりの原因ともなっているのであります。しかし、カラシニコフはそのような事実も知らず、適当に分解でき、それほど厳密な設計をせず、いい加減な隙間を残したままそれを製作をしたところ、極めて弾づまりもなくて、分解整備が容易で、手荒く扱っても故障のない、安価で実践的で小銃が出来たと言う経緯があります。
発展途上国の戦闘と暴力が噴出する時、そこにはたいていAK47があります。世界中のカラシニコフを集めると何億挺もあり、世界中の兵士よりはるかに多いらしいです。
また、連発発砲した時、小銃が上にはね上がるという欠点を、彼は、なんと、たった銃口の出口の下を斜めに削り落とすという素晴らしいとも大雑把ともいえる方法で見事に解消したらしいです。
これが日本人なら、銃身のバランスを考えて設計をやり直した事でしょう。

その小銃で命を落とすのは、兵士より女子と子供であり、AKを、小さな大量破壊兵器とも呼ばれている由縁らしいのです。
この辺りは、ブラッド・ダイヤモンドと言うデカプリオ主演の映画のDVDを見た方が、もっと目を閉じたくなる、どうしようもない現実を、もっとリアリティをもって感じ、知れると思います。

このような文章を書いている間にも、アフリカ内陸部の自然資源を巡り、何百かの人たちがその利権を巡り命を落としているのです。我々はそのような事実を知らないのは、報道されないからです。我々は報道されない限り知るよしもないのです。
事実、彼が報道と言う名目でなくて、現地入りした時、ある人数分のガードマンを高額で雇い入れるよう指示されて、言うとおりにしたが、後に来た英国記者は、その指示に従わず、結局、車の後方から射撃され一命を落としたらしいのです。
これらの話は、ピースボートでの話にはふさわしくなかったかもしれませんが、その分、私は、確実なリアリティを持って聞けました。


 (自然保護区のサイです)

このように石油、ダイヤ、鉄、チタンなどの自然資源が豊かな国ほど、その国家的利権を争い、泥まみれの内戦が内戦を呼び、限りない負のスパイラルから脱け出せない国は後を立たない様子です。
お金があるほど不幸になる実態と少しは重なるところもあります。

このように近代世界史的な大きな観点から見た日本は、無血革命でもある明治維新後、最も力を入れたひとつは教育であり、それにより、国民の識字率は9割を超えるほどの文化を持つに至りました。日本の革命後の政治政策は、世界史的にみれば、奇跡に近い発展的なものに入るでしょう。
日本が世界的に好まれのは、その歴史に流血と言う忌まわしい事件が少ない平和なイメージを与えている事にも関係していると思われます。
我々は日本の何処が国際的に好かれているかを知る事は、自分が国際人や好まれる人になる為には是非考えた方が良いと思えて仕方がありません。

 このように植民地より独立した国の多くは、元来いた人達が住む所を旧市街地と呼び、以前の統治した人達の住むところを新市街地として地理的に区別しています。
概して、人は旧市街地の治安が悪いと言いますが、私達はチリの都市のひとつであるリマの旧市街地にあるホテルに1泊して旧市街地を楽しみました。
そして、新市街地に移った時のあの形ばかりの味気なさを体験してみると、何が文化かを考えざるを得ませんでした。
圧倒的に旧市街地があたたかく、笑いと親切に満ち、新市街地の無機質化した建物と人間のつまらなさを痛感したものです。
少なくても、皆が危ないと言って避けた旧市街地が、圧倒的に面白かったのは事実でした。





船旅の話 負の世界遺産 セネガル ゴレ島

2019-09-12 21:00:39 | 日記

 (ゴレ島の帰らずの扉) 

負の世界遺産について

皆さんは世界遺産については良く知っていると思います。
しかし、負の世界遺産についてはあまり知らないと思います。
負の世界遺産とは、人類を不幸のどん底におとしめた遺産の事で、ナチスのアウシュビッツの強制収容所や大量殺戮の場であるガス室などがあります。
とにかく一回はそこを見ておきたいと思ったのでオプショナルツアーの代金も支払っていました。
直子は到底行けないと言うので、私一人で行くつもりでしたが、そのツアーはモロッコから飛行機で行くかなりハードなものだったので、サハラ砂漠まで何泊もかけて行った疲れもあり、仕方なくキャンセルしました。

船はアフリカのセネガルのパリ・ダカールラリーで有名なダカールと言う港に着いた時、少しボートに乗ると、ゴレ島と言う負の世界遺産があるというので、興味津々で参加しました。
ゴレ島とは、奴隷の売買の為の島であり、その島に集められた奴隷の値段が決められ、その島から「、帰らずの扉」と言う扉を通り、奴隷が世界各国に船で運ばれて行くのです。


(奴隷は物のように扱われ、高く売れる順番に各部屋に立錐の余地なく押し込まれました。)

「帰らずの扉」と言うのは、その島まで、たとえ牢屋であろうとも、家族の声を聴け、少なくとも身近にいた者が、その扉をくぐってしまうと、おのおのが違う船で見知らぬ買い主の国に行くのです。だから、もう二度と愛する家族と絶対的に会えない、永遠の別れの扉なのです。
その扉をくぐると、すぐに船が着くようになっていて、私がその扉をくぐり、船が着くどころに立つと、何万の黒人の悲惨な想いが直に伝わってくるようでした。
また、買い手が着くまで入る石作りの牢屋に入ると、「神しか判らない私の苦しみ」と言うソウルミュージックがありますが、言葉を遥かに超えた悲しみや辛さを思わずには居られませんでした。
その石牢の中に入ると、悲惨な魂がまだ、生き生きと息づいているようで、思わず息をとめてしまうような魂が肌身に染みてくるようでした。


 (奴隷が自由に動けないように足につけられた鉄の重りです)

イギリス、フランス、ポルトガル、スペインなどのいわゆる先進諸国の文化的繁栄は、何十、何百万人の奴隷の苦しみの上に乗さばっているのかと、そのことに想いを馳せた時、いわゆる文化的な、と言われている事柄の限りない罪深さを思わずにいられませんでした。

世界からみた日本

 幸い日本では、政策的な身分差別はあっても、まだ、奴隷と言う制度を持たなかった事は、誉れとも言うべきだとさえ考えています。
私が大事な誉れとさえする事は、世界中から日本は、最も好きな文化的な国と思われている事でした。
世界中、何処に行っても、日本ないしは日本人の事を良く、ないしは好意的に見られているのです。
とくに日本国憲法については、諸外国は憧れのような心さえも感じています。
憲法の14条の「戦いを放棄して永遠に平和を誓う」と言う項目は、ある国では、石に刻まれているぐらいです。その理念は絶対捨てても変えてもならないと私は信じます。
ある理念は、それを持つだけでその方向を向き、それだけで無限の価値ある事なのです。
いわゆる文化的な西洋諸国にさえも感じる粗野さには、歴史的に奴隷というシステムを持ってきている粗野さの名残のようなものを感じるのは、私だけの事でしょうか?